松代城!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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典厩寺と妻女山をあきらめ、松代まで戻ってきた。

↓松代城下通り
松代城下通り
取りも敢えず、松代城跡の南まで戻ってきた。

松代城の攻略は、わずか30分で行わなわねばならない驚き

↓松代藩文武学校の門
松代藩文武学校の門
1855年(安政2)に開校。佐久間象山らが教鞭をとった。
現在までほぼ開校当時の建物が残る。国史跡。

↓旧白井家表門
旧白井家表門
 1846年(弘化3)建てられた長屋門。現在地の東南にあったものを移築保存。

この辺りに佐久間象山像があるはずだが、有料エリア内か。
また、一つ東の区画、真田公園内に真田信之像があるのだが、失念してしまった。

↓松代城跡案内図
松代城跡案内図
どうしても影が入ってしまう真顔

↓松代城_説明
松代城_説明

~松代城年表~
  • 1560年前後、武田信玄の命で山本勘助が設計し、海津城を築城。上杉謙信の襲来に備える
  • 高坂昌信が城代を務める
  • 1582年(天正10)武田家滅亡。信長の臣・森長可の居城となる
  • 同年、本能寺の変メラメラ森長可、信濃を放棄。上杉景勝が空白地帯の川中島を占領
  • 1598年(慶長3)上杉氏、会津へ転封させられる。秀吉蔵入地となり、田丸直昌が城主に
  • 1600年(慶長5)森忠政、兄の所縁の地に入封。※この頃「待城」と改名
  • 1603年(慶長8)松平忠輝が入封
  • 1616年(元和2)松平忠輝は改易。松平忠昌が入封。※その後「松城」と改名
  • 1619年(元和5)酒井忠勝。
  • 1622年(元和8)真田信之が城主に。以降、維新まで真田氏。
  • 1711年(正徳元)「松代城」と改名。

↓太鼓門前橋
太鼓門前橋
写真は2022年11月時点。
この橋は2023年から修復工事レンチにかかっているようだ。橋を渡った先には橋詰門

↓別角度より
別角度より
明治維新以降、城としての景観が大きく損なわれていたが、平成16年に大改修が完了。
1717年(享保2)の火災以降に建てられた松代城を再現した。

↓太鼓門
太鼓門
橋を渡って、枡形内より太鼓門櫓
橋詰門と太鼓門とで、枡形を形成している。

↓本丸内
本丸内
まあまあ広い本丸。本丸御殿が建っていた。

↓東不明門
東不明門
本丸内より東を見る。
太鼓門前橋工事中は、こちらの門から入城するようになっている。

↓東不明門前橋
東不明門前橋
東側の玄関口。こちらにも堀を渡る橋が架けられている。橋を渡った所が二の丸跡のようだ。

復元土塁も見えている。

↓東内堀
東内堀
その橋から見る堀。
水は干からびかけているネガティブ

↓海津城址之碑
海津城址之碑
本丸内に戻り、北上。

大正10年建てられた海津城址之碑
松代城ではなく、なぜか「海津城」となっている。

↓雁木
雁木
 石碑の奥に、北西隅へ登れる階段がある。
この雁木は登れないが。

↓天守台
天守台
天守と言ってるが、この上には二重の戌亥隅櫓が建っていた。
天守相当の建物は近世初頭には失われ、その姿は謎?である。

↓北不明門枡形
北不明門枡形
写真右端が北不明門
ここからだと、枡形の構造がよくわかる。

↓天守石垣
天守石垣
松代城は本丸のみ、石垣で囲まれていた。

野面積み。
どこまでが積み直されたものなのか判然としないが、天守台についてはほぼ古い時代のもの、という事だ。

↓西復元土塁
西復元土塁
天守台にビタ付けされてる西の土塁。まだここより落差があるものの、敵兵が土塁の上から攻めやすくなってないかはてなマーク

土塁がクビれている部分があるが、その下は埋門(復元)となっており、土塁の内外に往き来できる。

↓大イチョウの木
大イチョウの木
イチョウ

↓南面石垣と南内堀
南面石垣と南内堀
始めに撮り忘れたんで。太鼓門前橋より。

↓南内堀の西側
南内堀の西側
同じく。
堀は、明治維新後に埋め立てられ、全く失くなっていたそうだ。復元工事乙。

↓旧松代駅舎構内
旧松代駅舎構内
自転車自転車を返却し、バスを待つ。
ギリギリだったが、バスバスの到着は遅れているようだ。

↓旧松代駅ホーム
旧松代駅ホーム
 なぜ廃線にしてしまったのかはてなマーク
電車移動だったら楽だったのにぃ。。

↓小松姫イラスト
小松姫イラスト
松代駅に掲げられていた看板。

大河ドラマ「真田丸」では、吉田羊さん羊

うーん、も少し若ければピッタリなんだが・・・


おわり。。。