旧松代駅でレンタサイクル
し、真田信之の墓→山本勘助の墓ときて、北上し→諸角さんの墓へ。

↓諸角豊後守之墓
35号線から少し西に入った所に、松の木と植込みに守られた一角がある。
諸角豊後守の墓である。
↓諸角豊後守の墓_説明
通説では、啄木鳥戦法を採用し(軍を二手に分け)た武田軍の策を見破った謙信が、夜陰に紛れて妻女山を降り、武田本陣に突っ込んだ。
前半は上杉優勢、妻女山に向かった別動隊が救援に駆けつけた後半は武田優勢となった、と云われている。

両雄の一騎討ちは実際にあったのか
信玄が手傷を負った
のは事実であり、謙信が普段から自ら先頭に立ち陣頭指揮をとるタイプなのも事実だ。

答えはNOだ。
あっても不思議ではなかったが、無かったようである
。

実際には、武田本陣も崩れたち、信玄自身も刀を取っての乱戦
となり、荒川伊豆守いう武将に斬りつけられ負傷した、というのが真相のようである。

↓謙信の像

武田方としては「大将が本陣を捨て、逃げながら無名の武士に傷つけられた」
とあっては外聞が悪い。そこで、

- 信玄は「斬りつけられたのは影武者じゃ
」と言ったり、
- 家臣の子孫は「本陣でどっしり座ったまま、軍扇で受け止め」「相手は謙信では無かったか」などと書いたり
↓信玄の像



大将を囲んで円形に兵を配置
、グルグル廻りながら
新手を次々にぶつけていく・・・そんなやり方、却って不利では



このイメージは明治時代以降に造られたもので、現実的ではない。
いまなお謎であり、車懸りの陣は陣形ではなく、戦術の名前である可能性が高い。

それまでの横列隊形
中心から、鉄砲
を前面に置いた縦型隊形
からの、左右に開いて後続が順次攻撃(その後普遍的になった)。これが車懸りの戦術、という考えがある。



村上義清が初めて上田原の戦いで実践し、謙信に伝授、謙信が規模を広げて実践、これに対抗して武田、北条、豊臣軍も取り入れ広がっていった、という。
ただ、それでは面白くない。
キングダムにおける輪動
、もしくは斜陣がけ
みたいな戦法であってほしい。


↓首塚
