川中島の戦い!!!~その1. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

松本で一泊。
ホテルは枕が合わず、今日も寝不足真顔。。

朝食バイキングナイフとフォークは、ボーっとしてて説明を聞いてなかった、箸入セットでまず場所取りするとは・・・

ビジネスマンの席、奪ってもた。。お願い

気を取り直して、信州旅行いざ二日目ビックリマークグー

↓犀川
犀川
天候はご覧の通り快晴に晴れ
上田城はまたの機会に、真田郷・砥石城とかとセットで行けばいいか。

松本から長野駅まで出て、バスバスで南下。
バスから見えた犀川
この川を見る機会はもう無いので。

川中島は犀川と千曲川が合流する地点で、第二次合戦では、武田軍と上杉軍は、犀川を挟んで対峙キョロキョロした。

↓旧松代駅
旧松代駅
旧松代駅で降り、レンタサイクル自転車する。

松代駅は長野電鉄屋代線の駅だったが、平成24年廃線となってしまった。

長野⇔松代バス、片道600円って高ないびっくりはてなマーク

本来なら、交通クーポン1000円をここで当てる予定だったが、支給されなかった、トホホ泣くうさぎ

↓寺尾城跡
寺尾城跡
電動アシスト付は予約フルということで、普通のチャリでスタート。まず、町柴・寺尾方面へ。

途中、寺尾城跡と思われる山があったが、違うかも。
寺尾氏は、途中で武田氏に鞍替えしたが、砥石崩れナイフで武田が敗れたのち、村上義清・高梨連合軍に攻められ落城したという。

↓コスモス
コスモス
すっかり秋ですねぇコスモス。←去年のなっビックリマーク

↓大鋒寺標柱
大鋒寺標柱
大鋒寺ゆう所に、真田信之の墓がある。

川中島の戦いと関係ないけど、大物なので必見である。

↓大鋒寺
大鋒寺
大鋒寺は真田信之の隠居所だったのを、信之死後(1658年)墓所にしたものだ。

↓真田信之霊屋へ
真田信之霊屋へ
名は信幸とも。真田信之は父・昌幸と弟・幸村(信繁)が西軍につくなか、徳川家康の東軍につき、真田家存続させた人物。

意外な事に、石田三成とは懇意にしていたという。

上田藩から加増転封され、13万石で松代藩主となった(沼田領は引き続き)。

信之は「真田丸カブト」で大泉洋さんが演じ、一定の注目を集めた事は記憶に新しい。

↓真田信之霊屋_説明
真田信之霊屋_説明
真田信之は病がちではありながらも、実に93歳まで長生きした。温泉をよく好んだ温泉という。

幕府に対し、再三にわたって隠居おじいちゃんを願い出たが認められず、嫡男の死もあって、結局91歳まで出仕させられた。

↓真田信之霊屋
真田信之霊屋
霊廟には信之画像などが収蔵されている。

↓真田信之の墓_説明
真田信之の墓_説明
なぬビックリマーク霊廟とは別に、お墓があるのかビックリマーク
知らんかった。。

↓真田信之の墓へ
真田信之の墓へ

↓真田信之の墓
真田信之の墓
立派なお墓である。お願い

↓真田信之の墓_拡大
真田信之の墓_拡大
戒名の「大鋒寺殿徹厳一当大居士」と刻まれている。

↓墓入口の六文銭
墓入口の六文銭

↓山本勘助の墓へ
山本勘助の墓へ
大泉洋の、じゃなかった真田信之の墓より1分。山本勘助の墓は屋外にある。

↓山本勘助の墓
山本勘助の墓
山本勘助は一時期、実在を疑われた事もあったが、文献にはっきり名前が残っている。

あとはどの程度の存在だったかが焦点となろう。軍師はてなマーク間者手裏剣はてなマークそれとも小物はてなマーク

↓山本勘助の墓_拡大
山本勘助の墓_拡大
甲陽軍鑑によれば、1561年の第四次川中島の戦いにおいて、信玄に啄木鳥戦法セキセイインコ黃を献策。それを上杉謙信に看破され、本陣を襲われた。

責任を強く感じた勘助は味方の危機を救うため、自ら討って出て討死した。

↓山本勘助墓_説明
山本勘助墓_説明
大河ドラマでは、内野聖陽さんもよかったが、個人的感想では西田敏行さんのイメージが強い(古っビックリマーク)。

↓広瀬の渡しへの道
広瀬の渡しへの道
内野聖陽の墓、じゃなく山本勘助の墓は、元々もう少し南東にあったが、荒廃していたのを柴阿弥陀堂(現在地)に移した。その後柴阿弥陀堂が移転し、墓だけここに残った。

↓広瀬の渡し方面
広瀬の渡し方面
広瀬の渡しとは、長野ICから松代大橋付近の浅瀬の事で、武田軍本軍はこの浅瀬を渡って布陣した。

↓千曲川
千曲川
更殖大橋より。ここから橋を渡って八幡原方面へ向かう。

↓諸角豊後守之墓_遠景
諸角豊後守之墓_遠景
12分かけ、諸角豊後守の墓まで北上してきた。



つづく。。。