今回レンタサイクルするにあたっての新兵器、首に掛けるビニール製のスマホ
入れれるケース投入。。(決済で使う時と上下反対に使う必要があるため)

入れたまま地図スクロール
も出来るしな。。

漕ぎながらスマホだけは、止めましょう。
↓屋代源吾の墓

板垣信方の墓よりチャリ
2分。

畠の端っこにポツンと、村上軍の武将の墓がある。
いいねー♪こういう佇まい、好き。。
よくぞ今まで残してくれた。

上田駅に来る途中、屋代駅というのがあったが、その近くに屋代城跡がある。そこの城主・屋代正国(信長の野望では政国
)の子が、この屋代源吾基綱だ。

村上義清が窮地に陥った時、身代わりとなって討死にしたという。
↓小嶋権兵衛の墓

屋代源吾からすぐ1分。小嶋権兵衛の墓。
この大嶋さんは(小嶋だよ
)、

川中島北部の豪族で、高梨、須田、島津、小田切、井上氏らとともに村上軍に加わり、討死にした。
↓小嶋権兵衛の墓_説明

この辺りが、まさに激戦
が行われた中心地だそうだ。

武田方と村上方の将、双方の討死場所が指呼の間
にある事から、乱戦であった事が伺えた。

↓葛尾城方面

畠から北西の方を見ると、左右から山が迫った地形となっている。村上家の本拠・葛尾城のある方角で、村上軍はあちらから進軍してきたという事になる。
ちなみに、右手の山には和合城跡というのがある。
↓観音寺入口

ズズズイッと5分南下した所に、上田原合戦の案内プレートがある。
ここ観音寺には、無名の戦死者らを安置している。
なお、合戦での戦死者は1千人とも6千人とも云われている
。

・・・凄まじ過ぎる
。。

↓上田原合戦の地_説明

交戦戦力は武田軍8千に対し、村上軍5千人(緒説あり。このプレートでは合わせて1万7千人となっている)。戦死者の割合からして、いかに双方の被害が大きかったかが分かる。
↓上田原合戦前後_説明

緒戦の勝ちに驕った
板垣信方は、敵前にも関わらず、その場で首実検を始めたところ、村上軍の逆襲を受けたという。

晴信を差し於いて、先陣の将が首実検なんて聞いた事ない。創作じゃねーの

大将の武田晴信は手傷を負いながらも一歩も退かず、陣を立て直した。
武田晴信は、この2年後に砥石城(といしじょう)を攻めた時
にも村上氏に敗北し(砥石崩れ)、以降は調略による切り崩しに戦術を変えていった。

↓上田原古戦場石碑

案内プレートよりさらに南下1分。
石久摩神社
境内に上田原古戦場の碑が建つ。

↓石久摩神社本堂

神社は合戦の際に焼失
してしまったため、創建など由来は不明である。その後再建され、本堂や大銀杏
などは200年以上が経過している。


↓雨宮刑部の墓

もう日が暮れてきた
ので、省こうかと思っていた雨宮刑部の墓だが、帰り道、偶然にも案内表示を見つけたので。。

場所的には先ほどの観音寺の裏手にあるのだが、ぐるっと回り込まないと辿り着けない。
↓雨宮刑部の墓_看板

雨宮(あめのみや)刑部正利は、信濃唐崎城主。村上軍の犠牲者としては一番の大物と言えるだろうか。
唐崎(山)城は、川中島の戦いで有名な雨宮の渡しの近くにある山城である。
いま調べるまで「あまみや」と読んでました。
冷し中華、始めません。。
↓上田城西櫓_ライトアップ

さて、これから松本にあるホテルまで戻らないと。秋は日が暮れるのが早いな~

上田城跡まで戻ってきた頃には、ご覧の通り辺りはもう真っ暗。。
でもそのお陰で、ライトアップされた櫓と崖の様子を見る事ができ、これはこれで見応えあり。。
↓西櫓と尼ヶ淵
