小諸城!!!~その1. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

松本駅で駅弁お弁当を購入し、11時発各停長野行。
篠ノ井で各停軽井沢行に乗換え。

心配したけど4人席が少しだけあり、空いていたのでそこで弁当を広げた。
やっぱり電車旅といえば駅弁でしょウインク

↓紅葉まつりポスター
紅葉まつりポスター
小諸駅で降りる。
途中の駅に掲示されていたポスター。「紅葉まつり」はてなマークそんなんやってんのはてなマーク

↓微古館?
微古館
知らなかったが、紅葉の名所のようだ。

この写真で注目すべきは、こちら(駅側)よりも地面が低い所にあるという点。

小諸城は、城下町よりもお城が低い地形にある、穴城という全国唯一のスタイルだ。

・・・違うだろっ💢

↓徳川秀忠憩石
徳川秀忠憩石
はてなマークどれが憩石(いこいいし)なのはてなマークっていう感じ。

そうか、ここで足留め食らったんやな~、秀忠。

背後に建つのは牧野公遺徳碑。牧野氏は小諸藩最後の藩主だ。

↓三の門
三の門
重要文化財キラキラの門で、現在は懐古園の入場門として使われている。
1765-6年頃の再建と考えられている。

「懐古園」と書かれた扁額の字は、徳川家達(慶喜の跡継ぎ)の手による。

↓三の門_内側
三の門_内側
両脇の石垣は切込接ぎで、ここだけ城内の野面積みと異なる。

令和2年7月の暴風雨台風で袖塀と基部の石垣が崩落してしまったらしく、この時(2022年11月)は石垣の積み直し完了間近といった所。



↓二の丸石垣
二の丸石垣
懐古園入口付近の石垣の上は、二の丸にあたる。
ここは沖縄のグスクのごとく、石垣がカーブ笑いしている。カーブ、臼杵城にもあったっけかはてなマーク否、佐伯城やったか。



↓二の丸石垣_R部分
二の丸石垣_R部分
斬新な説明板設置方法。
これによるとこの石垣は昭和59年に再現されたもの。

↓二の丸石垣が続く
二の丸石垣が続く
入場料コインたちを払って先へ進もう。

↓二の門跡
二の門跡

↓二の門跡2
二の門跡2
折れ曲がった二の門跡
門の礎石も確認できる。

↓二の丸跡_説明
二の丸跡_説明
二の丸の背後に回り込んだら、二の丸跡へ入る石段があった。

二の丸が正真正銘、徳川秀忠本陣跡であったらしい。
真田昌幸に翻弄され、関ヶ原本戦に間に合わなかったのは有名な話。

↓二の丸への石段
二の丸への石段
こうやって写真を見返してみると、左隅にでっかい石(鏡石)あるやんかビックリマーク
完全に見落としてますな。ぐすん

↓二の丸跡碑
二の丸跡碑
このタイプの石碑は、懐古園開設時に建てられたものか。
「徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際に逗留したところ」と書かれている。

↓二の丸跡
二の丸跡
広い。二の丸跡は落葉で一杯だ。

なお、武田信玄が小諸城を建てるまでは、二の丸を中心とした白鶴城があったという。

↓何の花?
何の花?
シュウメイギクか?

・・・そうか、あの秋明菊賞の。2歳牝馬限定戦、1勝クラス競馬
競馬ありきの発想、やめいっっ!

↓南の丸_二の丸より
南の丸_二の丸より
あっちの南の丸も、紅葉もみじがキレイだ。

二の門を、無事に通過できるもんならやってみな!ニヤリという造り。

↓紅葉
紅葉
二の丸東隅あたりの紅葉が見事おねがいだったので。

↓中仕切門跡
中仕切門跡
説明板にクローズアップし過ぎて、遺構そのものに寄りすぎてしまう城跡アルアルチュー

礎石は何とか写せてはいるが。

↓北の丸跡
北の丸跡
南の丸の反対側は北の丸跡。現在は弓道場となっている。

こっちの曲輪は平坦ですな。

↓南の丸_石段
南の丸_石段
時間無いため、南の丸跡には上がらず。

左端の石碑には鶯石。城主の通行時にウグイスの鳴くような音がしたという。が、鶯石そのものが写っていない。。トホホ汗

↓黒門橋
黒門橋
どんどん先へ進む。
本丸の手前には大きな空堀があり、空堀に架かるこの木橋が黒門橋

↓紅葉谷_南
紅葉谷_南
黒門橋の上は撮影スポットカメラとなっているようだ。
なるほど、紅葉谷というだけあって見事な紅葉っぷりもみじもみじもみじだ。
ただし、空堀が見づらい。

↓紅葉谷_北
紅葉谷_北
反対側を見ると、空堀がよく見えた。

↓黒門跡石垣
黒門跡石垣
黒門橋のすぐ先に、黒門跡の石垣が。
石垣と紅葉の見事なコラボキラキラである。

石垣に根を張っているようで石垣が一部崩れかけている。切り倒すのもアレなんで、悩ましい状態ショボーンと言える。



つづく。。。