バス停・文殊からバス
で移動しようと思っていたが、時間が合わず。天橋立駅から丹後鉄道
(艦これ)で宮津へ。


↓宮津城二の丸_説明

宮津駅から徒歩3分、関西電力前に二の丸発掘調査についての説明が掲示されている。
ここは、Google Map
の地点よりやや西にある。

なんでも、暗渠(あんきょ)や内堀の石組、土橋などが確認されたようだ。
映り込みが激し過ぎて自分が写りかねないため
、写真はこの一枚のみで。

↓宮津城跡

関西電力前から徒歩3分。178号線に出て西へ。宮津武田病院
の前に大きな石が。

↓宮津城跡_説明

説明板を見てみよう
。場所は二の丸地内か。

大きな石は本丸入口くろがね門の袖石垣、その前のくぼみのある石は大手橋橋脚の礎石、その左横の波状の石柱は北側波止場の船つなぎ石だ。
ほんのいくつかしか無い遺構を、ここへかき集めた、という感じか。
↓宮津城_略歴

- 1580(天正8)年、信長
の命で細川藤孝
が勝龍寺城より移封、宮津城を築城。
- 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦い
で西軍が押し寄せたため、細川幽斎は宮津城を焼き払って
田辺城へ。
- 1601(慶長6)年、京極高知が入封。のちに宮津城を修復し、田辺城より移り居城とす。
- 1666(寛文6)年、京極氏が改易、天領に。
- 1669(寛文9)年、永井尚征が入封。
- 1680(延宝8)年、永井尚長のとき、将軍家綱の法会の席で内藤忠勝に刺殺される。
- 1681(延宝9)年、阿部氏が入封。
- 1697(元禄10)年、奥平氏。
- 1717(享保2)年、青山氏。
- 1758(宝暦8)年、本庄氏。以降明治維新まで本庄氏。
↓宮津城跡_標識

大きな石より徒歩3分。一色稲荷神社
という場所へ。1924(大正13)年に神社として整備されたというから、およそ100年前だ。

↓史跡 一色義清自刃の地標柱

でかくて目立つ標柱。マイナー武将のマイナー史跡だと思っていただけに、むしろうれしい温度差
。

↓一色稲荷神社

一色(吉原)義清は、一色家最後の当主。
斎藤龍興の母・深芳野
のパパである一色左京太夫義清とは別人。混同注意
。。


↓一色義清自刃地碑

~この一色義清とは~
父は一色義幸、兄は一色義道、甥は一色義定。
信長の野望では、大体政治力40前後、武勇は60前後である。吉原城主として兄を、兄の死後は甥を支える。
↓一色稲荷神社_説明

本能寺の変後、義定(または満信)は明智光秀についたため、親戚だった細川忠興に謀殺
されてしまう。

一色義清は弓木城にてお家再興を果たすも、細川の追討軍により落城。彼は細川本陣に斬り込み
、下宮津の海岸(ここ)で壮絶な最期を遂げた。

敵将でありながら、宮津城の要地にこの墓(供養塔)があるのは、後世の人が祟り
を恐れたからに違いない。。

↓石垣の一部?

すぐ近くの商工会議所の前にも、「甲子道」と刻まれた大きな石が。これは

大正13年甲子の年、鉄道の開通に合わせて駅から直線に伸びた道をひらいた記念に置かれた。
宮津城石垣の遺構を使った可能性無いか
→無いでしょ。

↓宮津城本丸跡

この写真の左手が本丸エリアか。
↓大手川沿いの石垣・再現土塀

大手橋まで西へ出てきた。大手川の護岸として古い石垣が使われているという。貴重な宮津城の遺構だ。
↓大手橋
