北ノ庄城!!!~2/2 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

北ノ庄城を後にし、自転車自転車で足羽川を渡る。

↓足羽川
足羽川
日野川支流で、福井駅南を流れる足羽川。日野川は、やがて九頭竜川と合流する。・・・つまり、九つの頭龍のうちの一つ、という事か。

北ノ庄城、福井城の南の濠の役割を果たした、と思われる。

↓由利公正像
由利公正像
桜橋のたもとにあった、由利公正像
こんなんあるって知らんかった。

↓由利公正像_拡大
由利公正像_拡大
由利公正(ゆりきみまさ)は幕末・明治の福井の偉人で、横井小楠(よこいしょうなん)のもとで藩政改革を行い、維新後も新政府の改革に参与した。

↓由利公正_説明
由利公正_説明

↓ピンクの薔薇
ピンクの薔薇
左内公園脇に咲いていたバラピンク薔薇

↓橋本左内像
橋本左内像
こちらも、西光寺を目指してて偶然行き着いた左内公園。町名も左内町という。

ここに橋本左内の銅像が建っていた。高い台座と逆光のせいで、お顔はよく見えなかった。見逃したが、公園の隣に墓所があるのだそう。

橋本左内は緒方洪庵に医学予防接種を学び、福井藩の藩政改革に貢献したが、安政の大獄メラメラで処刑されてしまった。当代随一の秀才だったという。

↓西光寺_玄関
西光寺_玄関
目指していた西光寺に着いた。柴田勝家節分と妻・お市の墓がある。

西光寺は朝倉貞景が創建した。

↓西光寺境内に咲く花
西光寺境内に咲く花

↓柴田勝家公愛用の梅
柴田勝家公愛用の梅
墓所遠景。
この大きな梅の木は勝家が生前愛用したと伝わる。先の大戦で焼失メラメラし、2代目となるが焼失後、自然に発芽したという。

↓柴田勝家公愛用の梅_説明
柴田勝家公愛用の梅_説明

↓柴田勝家とお市の方の墓_説明
柴田勝家とお市の方の墓_説明
墓を建てたのは山中長俊という武将。
六角家臣の出で、柴田勝家の家老を努めた。のちに大名となり、豊臣姓を下賜された程の人物だ。
恥ずかしながら知らんかった。

↓柴田勝家の墓_刻字
柴田勝家の墓_刻字
天正3年、越前国主として赴任した勝家は、西光寺を自らの菩提所と定めた。

↓柴田勝家とお市の方の墓
柴田勝家とお市の方の墓
お願い

↓勝家と市の墓_拡大
勝家と市の墓_拡大
勝家、お市、勝豊(勝家の甥)、作次郎(勝家の子)が合祀されている。

5つ見えているが、あと1人はどなたはてなマーク

↓里程元標
里程元標
勝家が半石半木で架けた九十九橋。明治42年鉄筋橋に付け替えた際、橋桁部分を里程元標とした。のちにここに保管される事に。

↓里程元標の由来
里程元標の由来

↓北ノ庄城礎石
北ノ庄城礎石
明治7年、北ノ庄城の内濠跡を整地した際に発掘されたものだとか。

ぷにゅたの影との比較で、その大きさがお分かり頂けようか。

↓丹羽長秀公御墓
丹羽長秀公御墓
あまり有名でないかもしれないが、西光寺からおよそ800mの徒歩圏内、丹羽長秀も福井に眠る。

福井に来たら、ぜひ押さえておきたいスポットキラキラだ。

なんとビックリマーク織田四天王(あと滝川一益、明智光秀)のうち、その2人までがここ左内町におわすとビックリマーク

長秀は勝家死後、若狭・加賀60万石の大大名となったが、そのわずか2年後に死去した。
死因は寄生虫クマムシくんの痛みに堪えかねたから、ともいう。

↓丹羽長秀の墓
丹羽長秀の墓
右が丹羽長秀、左が丹羽長正(長秀の次男)。長正のは顕本寺にあったが、親子一緒の方がよかろう、ゆー事でこちらに改葬された。

兄は丹羽長重、弟は藤堂高吉だ。次男だけ知らなかったなー。


おわり。。。