北ノ庄城を後にし、自転車
で足羽川を渡る。

↓足羽川

日野川支流で、福井駅南を流れる足羽川。日野川は、やがて九頭竜川と合流する。・・・つまり、九つの頭
のうちの一つ、という事か。

北ノ庄城、福井城の南の濠の役割を果たした、と思われる。

桜橋のたもとにあった、由利公正像。
こんなんあるって知らんかった。
↓由利公正像_拡大

由利公正(ゆりきみまさ)は幕末・明治の福井の偉人で、横井小楠(よこいしょうなん)のもとで藩政改革を行い、維新後も新政府の改革に参与した。
↓由利公正_説明

↓ピンクの薔薇

左内公園脇に咲いていたバラ
。

↓橋本左内像

こちらも、西光寺を目指してて偶然行き着いた左内公園。町名も左内町という。
ここに橋本左内の銅像が建っていた。高い台座と逆光のせいで、お顔はよく見えなかった。見逃したが、公園の隣に墓所があるのだそう。
橋本左内は緒方洪庵に医学
を学び、福井藩の藩政改革に貢献したが、安政の大獄
で処刑されてしまった。当代随一の秀才だったという。


↓西光寺_玄関

目指していた西光寺に着いた。柴田勝家
と妻・お市の墓がある。

西光寺は朝倉貞景が創建した。
↓西光寺境内に咲く花

↓柴田勝家公愛用の梅

墓所遠景。
この大きな梅の木は勝家が生前愛用したと伝わる。先の大戦で焼失
し、2代目となるが焼失後、自然に発芽したという。

↓柴田勝家公愛用の梅_説明

↓柴田勝家とお市の方の墓_説明

墓を建てたのは山中長俊という武将。
六角家臣の出で、柴田勝家の家老を努めた。のちに大名となり、豊臣姓を下賜された程の人物だ。
恥ずかしながら知らんかった。
↓柴田勝家の墓_刻字

天正3年、越前国主として赴任した勝家は、西光寺を自らの菩提所と定めた。
↓柴田勝家とお市の方の墓


↓勝家と市の墓_拡大

勝家、お市、勝豊(勝家の甥)、作次郎(勝家の子)が合祀されている。
5つ見えているが、あと1人はどなた

↓里程元標

勝家が半石半木で架けた九十九橋。明治42年鉄筋橋に付け替えた際、橋桁部分を里程元標とした。のちにここに保管される事に。
↓里程元標の由来

↓北ノ庄城礎石

明治7年、北ノ庄城の内濠跡を整地した際に発掘されたものだとか。
ぷにゅたの影との比較で、その大きさがお分かり頂けようか。
↓丹羽長秀公御墓

おわり。。。