御土居!!!~市五郎大明神 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

この日(2022年4月)は京都の円町での用事を済ませ、悪天候雨ではあったが散歩がてら、バス停にして2つ分ほど南へテクテク走る人

↓市五郎大明神鳥居
市五郎大明神鳥居
ここに、豊臣秀吉猿が築いた御土居(京市街地の周りにぐるりと巡らせた防塁スター)の一部が残るという。

1591(天正19)年、建設。天下統一を成し遂げ、しばしの平和な時代の事だ。

↓史跡御土居_説明
史跡御土居_説明
御土居の目的としては、
  • うやむやだった洛中と洛外の境界線を確定させる
  • 守るのに脆弱な政務の中心地(聚楽第など)を、外敵から守るいて座用心、
  • 桂川の氾濫波から住民を守る
  • 戦乱の中で蓄積した、短期間土木作業システムのノウハウを活用したかった(個人的にはこれが一番大きかったのでは?)
などが挙げられる。

↓参道鳥居
参道鳥居
プチ伏見稲荷神社の鳥居くぐり。稲荷末社である事は明らかだ。

↓史跡御土居碑
史跡御土居碑
1930(昭和5)年に国の史跡に指定。
この石碑は昭和十二年十一月に建てられたようだ。

↓市五郎大明神の祠
市五郎大明神の祠
「市五郎」とは、かつて御土居に住みついていた狸パンダの事で、祠の中には狸像が祭られている(稲荷なのに狐じゃ無いんだ)。

1890年、岡崎出身の北村利幾子おばあちゃんという人が神託を得て、小祠を創建した。

↓石に刻まれた市五郎大明神
石に刻まれた市五郎大明神
明治時代末期~大正初め頃に流行した賭事(チーハ札束)にご利益があるとされ、一時期多くの参拝者を集めたお願い

↓御土居の上
御土居の上
総延長は22.5kmにも及ぶ土塁を、細川藤孝、前田玄以らに命じて、わずか2ヶ月あまりで完成させたともいう。びっくり驚きだ。

↓御土居をまたいで奥へ
御土居をまたいで奥へ
祠の横から、土塁上に上がる事ができるおねがい

そして土塁をまたいで、東側面に少し降りられるようになっている。写真は少し降りて振り返った所。

↓御土居を少し降りた所
御土居を少し降りた所
少し降りた所にも、小さな祠などがある。
まさに、御土居と一体化された神社といえる。

↓御土居を見上げる
御土居を見上げる
人工的に植樹され、土があまり見えない霧点で、他の場所の御土居とは様相が異なる。

↓南側から見た御土居
南側から見た御土居
神社を後にし、南側へ回り込む。

本来はこちらの方へ続いていたのだろうが、ご覧の通り塀の所でプッツリ土塁が切れてしまってハサミいる。

↓南東から見た御土居
南東から見た御土居
大正13年、市立第一商業学校の移転の際に、御土居の土取りモグラが行われたが、神社付近に及んだ時に事故が相次いだ。そのため祟りを恐れてガーン工事を中止した、という逸話が残る。。

神社が造られていた為に、ここだけ奇跡的に御土居が残ったということだ。大変貴重キラキラである。

↓東から拡大
東から拡大
お、土が見えた。

もっとも、京都市の北の方には、比較的に御土居が残っている場所が多くあるのだが。。
↓ 




つづく。。。