さて前回、湊川神社から会下山公園へと歩いてやってきた。そのつづきである。
↓会下山からの眺望(東南東方面)
会下山(えげやま)は標高85mで、神戸らしい眺望景観50選に選ばれている。
兵庫港・兵庫城跡方面。
目立つ赤白の塔は、新開地にあるNTTコミュニケーションズの電波塔。
↓大楠公湊川陣之遺蹟の碑
会下山公園東広場の前に建つ立派な碑。「大楠公湊川陣之遺蹟」碑。
湊川の戦いの折、楠木正成がこの山に陣を敷いたということで、昭和5年に建立された。
阪神淡路大震災で台座ごと倒れて折損したが、平成12年に修復工事が行われた。
↓大楠公湊川陣之遺蹟の碑2
碑文を揮毫(きもう)したのは東郷平八郎。
昭和5年7月とあるが、昭和5年といえば日露戦争でバルチック艦隊を敗った年だ。
↓会下山からの眺望(東方面)
碑のバックには海も見えている。
海の向こうはポートアイランドか。
↓会下山からの眺望(神戸ポートタワー)
湊川神社、湊川公園のある方面。
神戸ポートタワーが辛うじて確認できた。
言わずと知れた神戸のランドマーク。
↓会下山からの眺望(西方面)
背後にわずかに見える山を撮ったが、山の正体が判らない。
* * * * *
さて、無理ゲーと知りつつ、兵わずか700旗ばかりで会下山に陣取った楠木正成。
西の陸・海から足利方の大軍が攻め寄せる。
戦いはまず海軍の攻勢により、味方の新田義貞軍が後退、孤立する。
10万あまり(諸説あり)の足利直義軍めがけて、特攻を繰り返す楠木軍。
兵は次第に疲弊し、70騎ばかりとなる。
「・・・もはや、これまで」
最期は弟の正氏と刺し違えて散る。42歳(諸説あり)。
↓北広場
会下山公園北広場。
すぐ東に湊川の碑があるほか、海員萬霊塔(写真は無い)などがある。
戦後かと思いきや、恐らく日露戦争での物故者の魂を鎮めるため、1930(昭和5)年に建てられたものか。
揮毫はやはり東郷平八郎。
↓東広場へ
北広場から、一段低い東広場へ抜ける階段。
その左右に尖った白い花がいっぱい咲き乱れていた。
ゆきやなぎか
↓会下山公園の満開の桜
北西にある道から公園を降りたが、これが大正解。
この辺の桜がもっとも見頃を迎えていた。
なお、平業盛の墓のある善光寺が会下山の麓にある。併せて訪ねてみる手もあるだろう。
↓湊川隧道
公園を降りてから徒歩4分、「湊川隧道」(みなとがわずいどう)。
湊川改修事業に伴い、湊川の流路を付替えるために構築された。
標高85mの会下山をくり抜く、わが国最初の近代河川トンネルとして1901(明治34)年に竣工。
当時の高度な土木技術で造られた貴重な土木遺産として、平成31年に登録有形文化財に登録された。
↓湊川隧道と新湊川トンネル
トンネルの上にトンネルがある、という何これ珍百景。。
新湊川トンネル(写真下)は平成12年より新しい河川トンネルとして機能。
平成7年の阪神淡路大震災による被害を契機として、河川改修が実施された。
その結果、新旧2つのトンネルが上下に見られる状態となったようだ。
↓湊川公園プレート
湊川隧道から徒歩7分、次に湊川公園へやってきた。
近くにある願成寺(=平通盛・小宰相の墓がある)を、お参りしてから来るのもよいだろう。
↓湊川公園
会下山の下にトンネルが掘られ、湊川はルートを変更され、新湊川となった。
この時のルート変更により生まれた旧流路を埋め立て造られたのが、新開地や湊川公園だ。
↓湊川公園の立地
公園下の道路との落差。6~7mほどか。
この下には幹線道路を通す湊川トンネル、地下には神戸電鉄の湊川公園駅がある。
トンネルの上に公園を造ったのではなく、公園の下をくりぬいて道を通したようだ。
天井川だった旧湊川の堤防が、創り出した高低差といえるかもしれない。
↓鳩だらけ
↓兵庫港旧絵図
旧湊川の河川跡地は湊川新開地と呼ばれ、映画館や芝居小屋が集中する繁華街として発展。
大正~昭和にかけ、大いに賑わった。
↓現在の兵庫港
↓カリヨン時計塔
湊川公園には、昔は水族館や神戸タワーなどがあったという。
カリヨン時計塔は、神戸タワーの跡地に造られた。
↓大楠公像(楠木正成像)
そして、いよいよ湊川公園の主役、「楠木正成像」。
1935(昭和10)年の大楠公600年祭の一環として、神戸新聞社の呼びかけで造られた。
↓大楠公像
楠木正成と言えば、その頭脳とゲリラ戦でどんな劣勢でも敵と互角以上に戦ってきたチート武将。
では、楠木正成とはいったい何者
・河内のならず者説
河内の豪族で、近年では貴族から「悪党」と呼ばれた輩とする説。
大阪府堺市にあった寺領を襲い、年貢を収奪した事実が悪党とする根拠となった。
今で言う悪党とはニュアンスが違うとはいえ・・・
・元御家人説
あまり知られていないが天皇につく前は、幕府の命で畿内を転戦。
この事から御家人か執権・北条氏の家臣で、何代か前に河内へ所領をあたえられ移り住んだという説。
これは従来あまり言われてこなかった考え(天皇の忠臣がもと幕府方だった→美談とするのに都合が悪かったから)。
↓大楠公像2
かっけーーーー
移設前と比べると台座は低くなっているものの、お顔がよく見えないのが難点だ。
↓大楠公像(補正版)
というわけで無理やり補正してみた。。。端正なお顔立ちのようだ。
右手に弓を携えている。
でも馬がこの竿立ち状態では、焦点が定まりませんから~、・・・残念っ
おわり。。。