今回から数回、兵庫にある楠木正成ゆかりの地をご紹介するなり。。
歴史好きといっても、ほぼ戦国時代一辺倒のぷにゅただが、、
関西に住んでいて、やはり大楠公(だいなんこう)の存在は無視できない、できるはずも無いっ
ってなわけで、いきなりクライマックス、湊川神社から
↓湊川神社_表門
幕末~維新にかけて、楠木正成は勤皇家の理想像として崇敬され、国家による楠社創建の気運が高まる
。
楠木神社は明治天皇の命により、明治5(1872)年に創建された。
↓明治天皇御製碑
「あだ波をふせぎし人をみなと川 神となりてぞ世をまもるらむ」
御製(ぎょせい)とは、天皇が詠んだ歌のこと。
↓湊川神社_案内図
門のすぐ右手に「楠木正成墓碑」、本殿の左奥に「楠木正成公殉節地」がある。
↓従是楠公石碑道
~楠木神社建立までの流れ~
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文禄年間(1592-1596)太閤検地
の際、楠木正成公が葬られている場所を発見
、この地を免租地に。
- 1646(正保3)年 尼崎藩主・青山幸利は、松と梅
を植え、のち五輪の供養塔を建立した(名所図絵や紀行文などにも描かれ
楠公墓所が世に広く認識されるきっかけとなる)。
- 徳川光圀(水戸黄門
)が正成公の墓碑を建立。大人気スポットとなる。
↓徳川光圀公像
さきの副将軍という立場にありながら、楠木正成や石田三成を評価した、大の歴史マニア。
ここ兵庫に銅像があるというのは、意外な感じがする。
↓徳川光圀像_拡大
何か・・・ドラマとイメージ違いすぎます・・・
↓楠木正成墓所
そして、水戸黄門像のすぐ近くに、彼の建てた楠木正成公墓碑がある。
(正確には「助さん」に建てさせたらしいが)
↓楠木正成墓所2
昭和29年、史跡指定を受けたようだ。墓碑は亀の上に乗っている。
↓楠木正成墓碑
「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻む文字は、水戸光圀自らの書だ。。
↓湊川神社の桜
訪問は2021年3月後半、境内の桜も開花を迎えていた。
↓湊川神社本殿
現在の社殿は、戦災によって焼失したものを、昭和27年復興新築したもの。
↓楠木正成公戦没地
そして本殿左奥にあるエリア、「楠木正成公戦没地」だ。
ここに神社が建てられた由縁である場所だ。
↓史蹟 楠木正成公戦歿地碑
神聖な場所として入口は閉ざされ、一般の参拝者は普段は立ち入る事ができない。
↓史蹟 楠木正成戦歿地_説明
↓楠木正成戦歿地_拡大
戦歿地の入口から中をのぞき見る。
明治4年何とやら、の石碑が建っている。
湊川神社が完成したのが明治5年なので、その時にはすでにあった石碑だろう。
奥に見えるのは、尼崎藩主松平氏6代にわたって奉納した燈籠のひとつか。
↓大楠公御一代記
~楠木正成略歴~
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1294(永仁2)年、河内国赤坂村で生まれる
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1331(元弘元)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し旗揚げ(元弘の乱)。正成も笠置山に召し出され、呼応して挙兵する
(赤坂城の戦い)
- 1333(元弘3)年、千早城の戦いで権謀術数の限りを尽くし
、幕府軍を翻弄(千人vs数万人)。→奮戦に勇気を得た各地の武士らが蜂起
。鎌倉幕府たおれる。
- 1336(建武3)年、湊川の戦いにて敗戦。自刃
↓楠木正成公肖像画
こんな顔だったかどうかは、わからない。
↓大楠公墓所_入口
出る時気付いたのだが、表門の右脇に大楠公墓所専用の入口が設けられていた。
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↓会下山_遠望
次は、湊川の戦いで楠木正成が本陣を構えたという会下山(えげやま)に行ってみよう。
茂みのある所が会下山公園。
↓会下山坂上から
公園まではご覧の急坂となっている。
やはりセオリー通りに高地に布陣したということ。
↓会下山公園_案内図
目指すは公園のやや西よりにある最高地点、石碑のある場所。
↓会下山公園の桜_拡大
~湊川の戦いまでの流れ~
建武の新政はじまるも、やがて後醍醐天皇と足利尊氏が対立。
→尊氏は朝敵となり、一時は九州まで逃れる。
→やがて九州で味方を増やした尊氏が、大軍をもって上洛してくる。
→後醍醐天皇は楠木正成・新田義貞に、京より出撃して迎え撃つよう命じる。
→1338(延元元)年、両軍はついに激突。
↓会下山公園のツバキ
つづく。。。