この日は大分駅前を出発して、朝から岡城→延岡城→臼杵城とめぐり、大分まで戻ってきた。
現在15時48分。レンタカーを返す時間
も気になりつつ、できたばかりの大友氏館跡へ。
↓大友氏館跡_看板
JR大分駅の東1.3km。線路沿い大分市顕徳町。
かつては大友氏の居館は、より南に位置する上原館(うえのはるやかた)が中心と考えられていたが、
ここ20年ほどで発掘調査が進み、こちらに広大な大友氏館があった事が分かってきた。
↓大友氏館跡_工事中
2019年6月現在、庭園復元整備工事が進んでいる真っ最中だ。
2020年にはもう完成しているはずだ。
↓大友宗麟公_胸像
施設の名前は「南蛮BVNGO(ぶんご)交流館」。
「宗麟の生きた時代を体感できる施設」をコンセプトに、大友氏遺跡や大友宗麟の功績について、展示や映像等で紹介している。入館無料。
↓庭園_工事中
敷地面積は約8千㎡。事業費は4億6846万円。
よくぞ駅近のこの場所を商業開発しなかったもンだ、無料開放の英断に拍手
↓庭園池_工事中
東西67m、南北30mの池があったらしく、当時の有力な大名の中でも最大級だった。
写真の池はちっさいな。これから広げるのか、完全復元しないのか
↓ありし日の府内城_説明
時刻は16時半、取り急ぎ府内城へ。
車で本丸までいけちゃうお城。
東口から入れ、本丸が駐車場となっている。
- 1597(慶長2)年 福原直高が築城開始
- 1599(慶長4)年 早川長敏が府内藩主に
- 1601(慶長6)年 竹中重利が府内藩主に
- 1634(寛永11)年 日根野吉明が府内藩主に
- 1658(万治元)年 松平(大給)忠昭(おぎゅうただあきら)が府内藩主に
- 1743(寛保3)年 大火
により天守閣はじめ諸施設消失
- 1945(昭和20)年 米軍空襲
により着到櫓など消失
- 1965(昭和40)年 着到櫓などを再建
・・・あれ大友氏
は関係無い城なんだ。
本丸、東丸、西丸とその周りの堀、山里曲輪が形として残っている。
本丸、東丸、西丸を隔てていた内堀は埋め立てられ、一体化している。
江戸時代の遺構として人質櫓、宗門櫓が現存する。
↓北二重櫓台
駐車場から北の方角を見やると、早くも天守石垣とそれにつながった石垣がある。
向かって左側が北二重櫓台。かつて北二重櫓があった。
荒々しい野面積みだ。1600年頃のものと思われる。
↓天守台
カメラを右に回すと天守台。
この上に四重の天守が建っていたようだが、形式などは不明。
↓天守台石垣
こちらも野面、隅石に矢穴の跡も見られる。よく見ると軽石状に見える石も。
↓天守上の様子
天守へ至る階段と、天守上には柵が設けられている。
なかなか広い。四重ぐらいは、らくらく建てられそうな面積だ。
↓二重櫓を天守台より
南東方向には二重の櫓が再建されている。
昔の地図にちゃんと東丸に記載されてはいる。
かつてはあの手前に堀と東大門があったが、埋め立てられて今はここと陸続きだ。
↓人質櫓を天守台より
北を向くと、現存の人質櫓(ひとじちやぐら)。
1743(寛保3)年の大火で燃えてしまったが、1861(文久元)年に再建された。
↓天守台へ登る道
写真奥が北二重櫓跡。天守と渡り廊下で結ばれていた。
現在はかなり石が崩れされてしまっており、いびつな道だ。
それでも何とかここまで登れるようにしてくれている。
調べてみると、石垣は今でこそ北側だけだが、かつては本丸内にぐるりとあって、「天守丸」なる一段高いエリアが存在した、という事だ。
天守に直接入る事はできない造りで、天守に取り付く櫓や門があった所(天守丸)は、石垣がひときわ高く造られていた。
姫路城などと同じような連立式の構造だった。
小藩の割には、凄い城造ったんだね~。。
では北二重櫓跡の上にも行ってみよう。
↓人質櫓を北二重櫓より
ここからだと人質櫓の見え方がかなり変わる。
天守の北側を、しっかり守ってくれている。
↓廊下橋を北二重櫓より
西を見ると、1995(平成7)年に復元された廊下橋。
意匠は大手門前に架かっていた廊下橋を元にしている。
北(写真奥)の山里曲輪と本丸とを結んでいる。
↓廊下橋
石垣を降り、堀沿いの道へ出た。
もう一度廊下橋を見る。
堀は、鳥たちの憩いの場となっているようだ。
つづく。。。