備中高松城!!!~後編 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

さて、前編では秀吉が水攻めした痕跡である築堤跡、本陣を構えた石井山を見てきた。

 

そしていよいよ高松城内へ攻め入る。ナイフ

 

築城時期ははっきりしないが、備中守護代であり、三村氏家臣でもある石川氏が築いた。

天正3(1575)年、石川氏が三村氏とともに毛利氏により滅亡(備中兵乱)、清水宗治が城主に。

 

清水宗治は石川氏の娘婿・重臣でありながら毛利氏に加担したという。びっくり

忠義の鑑(かがみ)だという後世のイメージとちょっと違う・・・

 

↓三の丸跡_説明

三の丸跡_説明

 

城跡といっても特にこれといった遺構は無い。

高松城址公園として整備され、資料館学校が三の丸に建っている。

 

ここで雨雨が強くなってきたこともあり、資料館で一休み。。

 

 

↓三の丸跡から二の丸跡へ

三の丸跡から二の丸へ

 

このように曲輪の周りは蓮池カエルとなっていて、そこに橋が架かっている。

この地形と蓮(はす)は、当時からある数少ない遺構といえるかもしれない。

 

 

 

↓清水宗治公辞世の句碑

清水宗治公辞世の句碑

 

「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」

 

↓高松の苔

高松の苔

 

この苔に残したのかはてなマーク

湿地帯ゆえ、苔は現在でも生えている。

 

 

↓清水宗治公首塚

清水宗治公首塚

 

こちらが石井山より本丸へ移された首塚。こんもりした塚の上に五輪塔が乗っている。

 

 

↓清水宗治公首塚_拡大

清水宗治公首塚_拡大

 

 

備前と備中の国境に位置し、毛利軍の重要な防衛ライン「境目七城」。

(宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)

これらの城は次々に落とされ、いよいよ主城である備中高松城も標的となる。

 

備中高松城は、低湿地に位置する沼城スライムで、秀吉軍は攻め手を欠いていた。

 

毛利氏の援軍が駆けつける前に、何としても備中高松城を落とさねばならない。
黒田官兵衛:「水によって苦しめられ城が落ちないのなら、逆に水によって攻めたらよいのではないでしょうか―」

この策を受け入れた秀吉は、蛙ヶ鼻に堤防を築きドリル、足守川の水を引き込む。

折しも梅雨雨雨の時期で水かさは増し、たちまち備中高松城は水の中に取り残された浮城と化す。

援軍に駆け付けた毛利氏側の武将、小早川隆景・吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかった・・・

 

 

 

↓高松城水攻之図

高松城水攻之図

 

そんな最中、秀吉の陣になんと主君の信長が本能寺メラメラに討たれる、の知らせが飛び込む。電話

悲嘆にくれる(ふりをするはてなマーク)秀吉を、官兵衛が励ます。「明智を討ち破れば、天下が取れましょうぞビックリマーク

 

毛利は織田に6ヶ国をよこせ、を3ヶ国に譲歩。あと、清水宗治が切腹すれば、城兵の命は全て助ける。

 

この条件で毛利と清水宗治は承知し、宗治は船上船で見事な最期ナイフを遂げた。

 

切腹を見届けた後、秀吉は堤を切って波から、姫路へとワープ。(中国大返し)

 

毛利が本能寺の変を知ったのは、秀吉撤退の翌日のこと。

だまされたと知って追撃しようにも、周辺は水浸しで困難だったとか。タラー

 

 

↓清水宗治公胴塚

清水宗治公胴塚

 

備中高松城址の本丸を出て北へ約50m、民家の庭みたいなところに、胴塚がある。

本丸を見て満足したところなので、見落とし注意注意だ。

 

介錯をした武士は、宗治の首を秀吉家臣に渡し、首の無い遺体を乗せた舟を返し、城内に埋めた。

そして自分もその中に首を掻き切って倒れ込んだという。
  

↓妙玄寺への道

妙玄寺への道

 

城址資料館まで戻り、そこから東へ50mほど進む。

 

 

↓ごうやぶ遺跡

ごうやぶ遺跡

 

田んぼの方を見ると、ポツンと立つ木やしの木が。

ごうやぶ遺跡。

家臣が清水宗治の舟を追い、「一足お先に三途の川で待っています」と言って刺し違えたという場所。

 

↓清水宗治公自刃の地碑

清水宗治公自刃の地碑

 

ごうやぶ遺跡が見える場所のすぐ脇に自刃の地がある。

 

このあたりに浮かんだ船の上で果てたのか。

なるほど、秀吉本陣・石井山からもよく見える方角だ。

 

首塚跡、首塚、胴塚、自刃の地とたくさん手を合わせられる拍手宗治公は、あの世では果報者なのかも知れない。

 

 

↓妙玄寺を示す碑

妙玄寺を示す碑

 

妙玄寺は、訪問時には存在しなかったと思う(工事中はてなマーク

再建に向けて動いていたらしく、今では無事落慶なったベルとか。

 

入口だったであろう箇所に、石柱のみ残っていた。

その裏側に「花房家菩提所」の文字が見える。

 

秀吉vs毛利の後、高松城は宇喜多領となり、花房(はなふさ)正成が城主に。

 

関ヶ原の戦いの後は、宇喜多氏の旧臣であった花房助兵衛職秀(職之)が城主となった。

この時期に城も整備されたが、職秀の死後、一国一城令で廃城となったようだ。

 

宇喜多家では関ヶ原より前にお家騒動メラメラがあり、助兵衛は家康側に組み込まれた人物。

正幸は鳩子(いとこの子供同士)にあたる。

 

境内には職秀の墓もあるに違いないが、どれだかよくわからないらしい。

 

 

↓史跡舟橋

史跡舟橋

 

駅へ帰る途中、通る史跡。

 

船を数隻、裏向けに置いて、その上を通行できるようにしていた、という場所。

非常時には船をどければ通れなくなる。

 

現在は小さな川に架かる普通の橋。

ここだけが舟橋だったわけでは無かっただろうから、城址公園内でその状況を再現して欲しかった。

 

↓鼓山(つづみやま)砦_遠望

鼓山砦_遠望

 

鼓山は、秀吉の弟・羽柴秀長が布陣した山。

天気がよくて時間があれば、鼓山ふもとにある藤田伝八郎の塚(通称:めくら塚)にチャレンジしたかった所だが、ややこしい場所(線路すぐ脇)にあるらしく、今回は断念手。。(写真は備中高松駅ホームより)

 

明智光秀が本能寺で目的を達した事を、毛利に報せるべく密使手紙を送った。

盲人に扮したその密偵は、不運にも敵の羽柴陣営付近で捕縛されてしまった。

その密使の墓という事なので、歴史的大転換を生んだエピソード。。

 

大河ドラマにあわせて現在は整備されているかもしれないが、果たして・・・

 

 

おわり。