ひっさびさに近畿を離れ、岡山へ旅行。。。(2018年6月訪問)
歴史上、秀吉による水攻めで有名なあの備中高松城っっ
城主は忠義の武将・清水宗治公っ
(先に備中松山城に行った後でした)
まずは総社駅で乗換えを待つ間にベーカリートングウでパンを購入。
総社駅前は人気はほとんど無いが、このパン屋だけ不思議なほど混んでいる。
油パンが有名だが、他のも安くておいしい。
JR吉備線(通称・桃太郎線)岡山行きに乗り、備中高松駅下車。
歩いていけなくはないが、レンタサイクルで史跡巡りすることに。
↓石井山
まずは高松城水攻め史跡公園へ。
ここに、城を水没させるため秀吉が築かせたという堤の一部が残っているという。
公園のうしろの山は、秀吉が本陣を構えた石井山だ。後ほど寄るとしよう。
↓高松城築堤跡_遠望
え何も無いやん。いや待てよ何か見えてきた。
想像していたよりもかなりちっちゃーいものが。。
このページトップの写真が近くで撮ったものだが、高さは大人の身長もない位か。
当時はも少し高かったと思うが、これでも堰きとめるには十分だったという。
↓高松城周辺_解説版
地図を見ると、足守川から引いた水は、低い土地である北東に溜まるようになっている。
たびたび大雨で浸水に遭って来た備中高松地域だが、先の西日本豪雨の際もやはり水浸しとなったという。
この訪問からおよそ一週間後、西日本豪雨被害が起こり、ここ岡山にも多大な被害をもたらした。
ここからそう遠くない真備町では川の氾濫が起こった。
JR伯備線(総社から北、備中松山方面)は、土砂の流入などにより、しばらく運休となった。
犠牲となられた方のご冥福をお祈り申し上げます。救助や復旧に尽力された方、本当にご苦労様でした。
↓出土した杭列
↓米俵跡
発掘調査で出土した、堤築造の痕跡。
当時は一帯が沼地だったので、まず木の杭を並べて寝かせ、土俵(つちだわら)をそこに差込み、基底部を安定させてから土を積み上げていくという土木技術が使われている。
↓築堤土塁の上
以前は高松城の南西をおよそ3kmに渡って堤防を築き、全部囲い込んだように思われていたが、近年の研究では城の南東部分(赤の点・現在地)をピンポイントでおよそ300m堰き止めれば水の逃げ場が無くなり、高松城は水没するのだと言われている。
こちらを参考にさせていただきました。
↓高松城址_水攻築堤跡碑
堤の上に昭和9年に建てられた碑があった。
この場所は別名「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡」とも呼ばれている。残存形状が蛙の頭に似ているからだろうか。
↓石井山登山道
蛙ヶ鼻築堤跡を後にし、石井山登山口を探すも、少し迷った。
ようやく見つけた細い道を登っていく。
途中、いくつもの蜘蛛の巣が前進を阻む。
何度も心が折れそうになるが、振り払い振り払いして突き進む。
↓秀吉公本陣跡
着いた~蜘蛛の巣が無い時期であれば、登るのにそんなに時間は掛からないだろう。
ここは草もそこそこ刈り取られた曲輪で、定期的に管理されているようだ。
↓秀吉公本陣跡の幟
麓からも見えるのだろうか、高い幟(のぼり)が気分を出してくれる。
↓石井山からの眺望
西へ向けて(高松城方面)眺望が効くようになっている。
秀吉気分に浸るとしよう。。
↓石井山から見る備中高松城址
ズームアップ。
眼下に備中高松城を見下ろす事ができた。
中央やや左の建物群の奥が高松城址資料館、やや右の茂みが本丸。
言われてみれば、その奥(西)に比べて土地が低くなっている、ような気がする。
秀吉
:「どうじゃ、清水宗治め。こんだけ沈めたぎゃー、永くは持つまいて。官兵衛、でかしたぞ
」
官兵衛
:「ご運が開けて参りましたな
」
秀吉
:「いや、そのセリフ早すぎーーーーーー
」
↓清水宗治公の首塚跡碑
講和の条件として自刃した高松城主・清水宗治の首級は、ここ秀吉本陣に届けられ、首実検の後手厚く葬られた。
その後、首塚は明治42年に高松城本丸跡へ移された。これはあくまでも首塚跡(あと)。
ではあるが、なかなか趣のある石だ。
↓清水宗治公の首塚跡_説明
↓池上孫兵衛尉の墓
秀吉本陣跡からさらに30分登ると「太閤岩」なる岩があるらしい・・・が
さすがにもう堪忍してくだーさい。。
だいいち、まだ太閤も関白もなってねーし
ゆうわけで山から降りてきたら、現在の持寶院が建つ道を少し左に向かおう。
マニアック史跡・「池上孫兵衛尉の墓」だ。
池上孫兵衛(いけがみまごべえ)とは清水宗治の妹を妻にめとり、姻戚関係にあった人物。
宗治の入植をたすけた地元の有力者だったようだ。
水攻めに逢い孤立状態だった城内へ物資を運び入れ、城兵の命綱ともいえる働きをしたという。
現在は住宅街の中に、ひっそりと墓が立つ。
次回はいよいよ高松城内へ突入する。