前編では、貝吹山古墳を見た後、久米田池、久米田寺を散策。
つづいて久米田寺の奥にある光明塚古墳へ。
↓光明塚古墳
光明皇后の遺髪が埋葬されたとの伝承がある。
↓無名塚古墳
行基の墓の場所がわからなかったので、久米田寺を離れ、貝吹山古墳の南に隣接する久米田公園へ。
ここにも小ぶりながら古墳があった。こちらは円墳の形状。
無名塚という名の通り、長い間古墳の名称がなかったのだろうか。
↓久米田古墳群_地図
公園内にある案内によると、ここらは久米田古墳群といわれる古墳の密集地帯だと判明した。
↓久米田古墳群_説明
解説版には、久米田合戦についての記述も見られる。
↓風吹山古墳
これまた帆立貝形という違った形状。。色んな種類の古墳が楽しめる所だな~
世界遺産登録、オナシャス
↓風吹山古墳_頭頂部のようす
杭は打ってあるが、番線は取れている。
確かにこれぐらいの高さなら危険性はあまり無いと思うし、線とかに引っかかる方が危険かも。
見晴らしもなかなかに良く、小さな子供には自分基地のようでいい公園かも。
↓風吹山古墳_方墳を見下ろす
↓女郎塚古墳
これは女郎塚古墳。中学校の裏庭がこんもりしている。
通う生徒たちはここが古墳と知っているのだろうか。
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畠山軍が魚鱗の陣形で貝吹山城に攻め込む。
第一陣・・・安見宗房(直政)、第二陣・・・遊佐信教、第三陣・・・湯川直光
これに対する実休軍は、
前衛・・・篠原長房、右翼・・・三好康長(笑岩)、左翼・・・三好政康、中堅・・・三好盛政、本陣・・・三好実休
↓春木川
花田池より一段低い土地に春木川が流れている。流路は削られててさらに低い。
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畠山軍がこの春木川を渡河したところを、実休軍が一斉に矢を放って開戦、両軍激しい死闘に。
畠山軍は春木川を背に背水の陣で臨んだが、第一陣・第二陣と崩れを見せる。
しかし、三好軍前衛の篠原隊と他隊との距離がひらいた隙をみて、畠山の第三陣が春木川上流より篠原隊の背後に回り込もうとする。
↓花田池
東へ徒歩5分。花田池という池がある。
久米田池に比べると大分小さいが、それでもそこそこある。
岸和田にはこのように大小の池が400近く()もあるんだとか。。
池が密集する湿地帯。戦場として見れば、戦略に大きな影響を及ぼした事だろう。
ひょっとすると湯川直光(第三陣)は、この花田池を迂回して篠原長房の背後に出たのではないか
(個人的推測です)
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篠原隊を助けるべく、三好軍は前線に右翼・左翼・中堅の兵力を突入させる。
結果、実休の本陣が手薄となってしまう。。
突然、本陣の後方(久米田池方面)から銃声が。根来衆が久米田池を迂回し、この時を狙っていたのだ
根来衆に突っ込もうとするも、実休は馬廻り衆もろとも討ちとられてしまった。。。
↓三好実休戦没地碑
細い道に面した住宅と住宅の間にポツネンと佇む石碑。
非常にわかりにくい場所にある。
↓三好実休戦没地碑
享年37という若さ。鉄砲で討ち取られた日本初の武将、という説もある。
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総大将が討ち取られると三好軍は総崩れとなり、堺へ逃走しそのまま阿波に帰国した。
戦死者は両軍あわせて2千ともいわれる激しいものだった。
岸和田城城主の安宅冬康も脱出し、淡路へ帰国。高屋城の守備兵は畠山高政に城を明け渡し、飯盛山城へ逃亡した。
この合戦の結果、畠山高政は和泉・南河内を取り戻した。
また、この敗戦を受け、京の守備をしていた三好軍は勝竜寺城まで撤退したため、六角氏はやすやすと洛中を掌握した。
六角義賢:「上洛果たしたでわしの天下じゃwwwwww
」
↓三好実休戦没地碑
こちらは上の写真で一番奥に写っている古い石碑。左側に回り込んで撮影。
なお、三好実休の墓は南宗寺のほか、付近の妙泉寺、阿波・勝端城跡地にある見性寺にもある。
意気盛んとなった畠山勢は4月、三好長慶の本拠・飯盛山城を包囲、総攻撃を行うまでに。。
しかし三好は反撃に向け着々と態勢を整え、5月に両軍は最終決戦(教興寺合戦)に向っていくことになる。
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特に史跡碑などは無かったけど、古墳、池、寺、川と目に見える遺構が残っていた今回。
戦国時代に思いを馳せる事は充分できた。