久米田の戦い!!!~後編 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

前編では、貝吹山古墳を見た目後、久米田池、久米田寺を散策。

 

つづいて久米田寺の奥にある光明塚古墳へ。

 

↓光明塚古墳

光明塚古墳

 

光明皇后の遺髪美容院が埋葬されたとの伝承がある。

 

↓無名塚古墳

無名塚古墳

 

行基の墓の場所がわからなかったので、久米田寺を離れ、貝吹山古墳の南に隣接する久米田公園へ。

 

ここにも小ぶりながら古墳があった。こちらは円墳浮き輪の形状。

無名塚という名の通り、長い間古墳の名称がなかったのだろうか。

 

↓久米田古墳群_地図

久米田古墳群_地図

 

公園内にある案内によると、ここらは久米田古墳群といわれる古墳の密集地帯だと判明した。

 

↓久米田古墳群_説明

久米田古墳群_説明

 

解説版には、久米田合戦ナイフについての記述も見られる。

 

↓風吹山古墳

風吹山古墳

 

これまた帆立貝形という違った形状。。色んな種類の古墳が楽しめる所だな~

世界遺産登録メモ、オナシャスビックリマーク

 

↓風吹山古墳_頭頂部のようす

風吹山古墳_頭頂部のようす

 

杭は打ってあるが、番線は取れている。

確かにこれぐらいの高さなら危険性注意はあまり無いと思うし、線とかに引っかかる方が危険かも。

 

見晴らしもなかなかに良く、小さな子供女の子男の子には自分基地のようでいい公園かも。

 

↓風吹山古墳_方墳を見下ろす

風吹山古墳_方墳を見下ろす

 

 

↓女郎塚古墳

女郎塚古墳

 

これは女郎塚古墳。中学校学校の裏庭がこんもりしている。

通う生徒たちはここが古墳と知っているのだろうか。

 

 

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畠山軍が魚鱗魚あたまの陣形で貝吹山城に攻め込む。

第一陣・・・安見宗房(直政)、第二陣・・・遊佐信教、第三陣・・・湯川直光

 

これに対する実休軍は、

前衛・・・篠原長房、右翼・・・三好康長(笑岩)、左翼・・・三好政康、中堅・・・三好盛政、本陣・・・三好実休

 

 

↓春木川

春木川

 

花田池より一段低い土地に春木川が流れている。流路は削られててさらに低い。

 

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畠山軍がこの春木川を渡河したところを、実休軍が一斉に矢を放って開戦、両軍激しい死闘に。

畠山軍は春木川を背に背水の陣で臨んだが、第一陣・第二陣と崩れを見せる。

 

 

しかし、三好軍前衛の篠原隊と他隊との距離がひらいた隙をみて、畠山の第三陣が春木川上流より篠原隊の背後に回り込もうとする。

 

↓花田池

花田池

 

東へ徒歩5分。花田池という池がある。

 

久米田池に比べると大分小さいが、それでもそこそこある。

岸和田にはこのように大小の池が400近く(ビックリマーク)もあるんだとか。。

池が密集する湿地帯スライム。戦場として見れば、戦略に大きな影響を及ぼした事だろう。

 

ひょっとすると湯川直光(第三陣)は、この花田池を迂回して篠原長房の背後に出たのではないかはてなマーク

(個人的推測です)

 

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篠原隊を助けるべく、三好軍は前線に右翼・左翼・中堅の兵力を突入させる。
結果、実休の本陣が手薄となってしまう。。

 

突然、本陣の後方(久米田池方面)から銃声ドンッが。根来衆が久米田池を迂回し、この時を狙っていたのだビックリマーク

根来衆に突っ込もうとするも、実休は馬廻り衆もろとも討ちとられてしまったチーン。。。

 

 

↓三好実休戦没地碑

三好実休戦没地碑

 

細い道に面した住宅と住宅の間にポツネンと佇む石碑。

非常にわかりにくい場所にある。

 

↓三好実休戦没地碑

三好実休戦没地碑

 

享年37という若さ。鉄砲銃で討ち取られた日本初の武将、という説もある。

 

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総大将が討ち取られると三好軍は総崩れとなり、堺へ逃走しそのまま阿波に帰国した。

戦死者は両軍あわせて2千ともいわれる激しいものだった。

 

岸和田城城主の安宅冬康も脱出し、淡路へ帰国。高屋城の守備兵は畠山高政に城を明け渡し、飯盛山城へ逃亡した。

この合戦の結果、畠山高政は和泉・南河内を取り戻した。

 

また、この敗戦を受け、京の守備をしていた三好軍は勝竜寺城まで撤退したため、六角氏はやすやすと洛中を掌握した。

 

 

六角義賢:「上洛果たしたでビックリマークわしの天下じゃwwwwwwビックリマーク

 

 

↓三好実休戦没地碑

三好実休戦没地碑

 

こちらは上の写真で一番奥に写っている古い石碑。左側に回り込んで撮影カメラ

 

なお、三好実休の墓は南宗寺のほか、付近の妙泉寺、阿波・勝端城跡地にある見性寺にもある。

 

 

意気盛んとなった畠山勢は4月、三好長慶の本拠・飯盛山城を包囲、総攻撃を行うまでに。。

しかし三好は反撃に向け着々と態勢を整え、5月に両軍は最終決戦(教興寺合戦)に向っていくことになる。

 

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特に史跡碑などは無かったけど、古墳、池、寺、川と目に見える遺構が残っていた今回。

戦国時代に思いを馳せる事は充分できた。