今回はっ
誰もが知る、世にも名高い「久米田の戦い」

・・・
はい、そこのポカンとしている貴方、とにかく参りましょうか。。
天王寺駅からJR阪和線に乗り27分。久米田駅で下車。
久米田駅から徒歩10分。貝吹山(かいぶきやま)古墳に到着。
(岸和田駅からバス
を使って22分という手もあり。岸和田城とセットで巡るのもオススメ)
↓貝吹山古墳の周濠
築造は古墳時代前期後半にあたるとみられるが、細かな年代はわかっていない。
橘諸兄(たちばなのもろえ)の墓といわれているが、はっきりしない。
貝吹山城とよばれることも。
周濠は円墳の周囲の南側を中心に残されている。
↓貝吹山古墳の頭頂部を見上げる
円墳部分を下から見上げると、かなりの高さがあるのがわかる。
古墳は16世紀に、陣城として改造・利用され、陣貝を吹いた事から現在の名前がついた、と考えられる。
↓後円より前方方面を見る
古墳マニアの方、お待たせしました
典型的な「ザ・前方後円墳」。。
といっても空撮でもしない限り、全貌が捉えにくいのが、古墳の悩ましいところだが・・・
↓貝吹山古墳からの眺望
そこそこ大きい割りに、このように自由に立ち入れるのは素晴らしい。
全国の古墳も、立ち入れるようにしてもらえないものか。
このように眺望も効くので、陣城としてもうってつけだったろう。
布陣したのは三好実休(義賢)。そう、三好長慶の弟のうち一番上の人物だ。
↓頭頂部の様子
円墳部分だけでもなかなか広い。とはいっても、
河内・淡路・阿波より7千人が来援した、というが、さすがに本陣以外は篭れそうにない。
↓前方より後円方面を見る
久米田の戦いは、新興勢力である三好が畿内の覇権を確立していく過程において、
畠山・六角連合軍に一旦は敗れた、という戦い。
2ヶ月後の「教興寺の戦い」へとつながっていく。
久米田の戦い
細川晴元を幽閉し、完全に中央政権を握った三好長慶に対し、畠山氏と六角氏は反撃の時を待っていた。
そんな折、「鬼十河」と恐れられた長慶の3番目の弟・十河一存(そごうかずなが)が病で死亡。
これを好機ととらえ、畠山は岸和田城を囲み、六角は京をうかがうべく将軍地蔵山に布陣した。
岸和田城の援軍として高屋城主の三好実休が貝吹山城に入り、河内・淡路・阿波衆7千人をも呼び集めた。
小競り合いがあったが、長対陣となった。
あけて永禄5(1562)年、畠山勢がついに貝吹山城へと攻め入った。。。
↓久米田池
大阪府内最大のため池。
聖武天皇が命じ、行基上人が14年をかけ、天平十(738)年、完成された。
つまり、戦国時代にはもうあったことになり、三好実休も眺めたんだろーなー(シミジミ)
毎年、牛滝川から水を入れ始め、4月上旬に満水となる
(訪問したのは2018年5月)
12月には完全に水を抜く。→水が抜かれた久米田池
大陸を飛来する鳥類にとっては、無くてはならないオアシス
。
(年間100種類以上、数千羽が飛来するという)
↓三基の石造五輪塔
久米田寺は池のすぐ傍らにある。
カーッカッカッカ。
さて、お参りしましょうか、とその前に。あ、ドシタ
門へ至る手前にある、この五輪塔を見逃してはいなかった。。
伝承によると、左から光明皇后、聖武天皇、亀山天皇の五輪塔であるとされている。
鎌倉時代に、亀山天皇が崩御された折に、併せて弔ったのではないか、といわれる。
↓久米田寺境内案内図
久米田寺境内案内図でござそうろうだ、アッパレ。
久米田池を維持管理するため、池の傍に隆池院(りゅうちいん)が建てられた。これが久米田寺のおこり。
広い。。全部は周れんな、こりゃ。。
↓久米田寺_説明
奈良時代から平安時代にかけての侍史はよくわかっていない。
鎌倉時代に安東蓮聖(あんどうれんしょう)なる武将が再興し、繁栄。
戦国時代に三好実休が陣のひとつとしたため、戦火によって堂塔の大半を焼失したようだ。
1751~72年にかけ順次修理・再建が行われた。現存する主な堂舎はこの頃に建立されたもの。
↓大門
宝永3(1706)年再建。奥に金堂が見えている。
↓金堂
明和7(1770)年再建。正面に掲げられた扁額に「隆池院」とある。久米田寺草創期の名前だ。
寛政の改革で知られる松平定信の筆と伝わる。
↓多宝塔
平成15(2003)年再建。ひときわ目を引く美しい建物だ。古墳からでもその姿は見えた。
↓裏参道
寺の裏手へは、このような狭い道となっている。何だか秘密の通路みたいでワクワクする。
裏手にある光明皇后塚を見にいってみよう。。
つづく。。。