重要文化財であり、現存12天守のひとつ
日本三大山城(他に高取城、岩村城)のひとつにも数えられ、山城で残された唯一無二の天守
近年、「天空の山城」としても有名な、備中松山城へキタサンブラック
。。(古いか)
・・・訪問は2018年6月だから、いっか。
あと、備中松山城といえば、日本一標高が高い所にある現存天守。。
城主・三村元親の父・家親といえば、戦争以外でスナイパーにより射殺された、初の日本人。
などが思いつくが、、さそーく登ってみよう、山城に。
他の山へ登って「雲海に浮かぶ松山城」は、また別の機会に。
↓備中松山城俯瞰(ふかん)図
訪問時、季節により運行している駅や城見橋からのバスがなかった。
したがって備中高梁駅から、素敵な選タクシーで(タイムスリップしたわけでは無いが・・・)
ふいご峠(地図上の赤の現在地)まで。
登るといっても、車でここまで来れればかなり楽チンかも。
↓中太鼓櫓(なかたいこやぐら)跡
登り始めて7分程度。早くも石垣が見えてきた。中太鼓櫓だ。ふいご峠には下太鼓櫓跡もあったが藪ってたので見に行かず。
昔は太鼓を打ち鳴らす櫓があり、下太鼓櫓と経由して大事を麓(ふもと)の屋敷まで伝達できるようになっていた。
石垣の頂上付近はまずまず広い削平地となっていた。中太鼓曲輪(ぐるわ)とでも呼ぶのだろうか。
↓大手門北より石垣を見上げる
そこから約3分。早くも松山城のインスタ映えスポット、キターーーーーーー。。
大河ドラマ「真田丸」オープニング映像でも使われた、有名な場所。。
当日はあいにくの雨で煙ってしまっているが、自然の岩盤の上に石垣を積んでいる。
ここは大手門のある手前の登城路で、これから先にある三の丸、さらにその上の厩曲輪の石垣までが見えている。。
どうだといわんばかりに来る物を威圧してくる。入口ですでに敵の戦意をくじく。スゲーお城。
↓大手門北より石垣を見上げる2
こちらは降りしなに、天候が回復してきてから撮った一枚。
岩盤と石垣の、コラボレーションやーーー(彦摩呂?)
↓松山城_主要部分の案内
映えるスポット近くに、この先の松山城縄張り図があった。
赤矢印←が、真田丸で使われた箇所という事か。。
写真にすると「字が小さすぎて読めないっ」
ので、加工してみた。。
この写真をクッリクすると別ウインドウで開くようにしたので、横に並べて見てもらう事ができるというわけだ。。
↓大手櫓跡
まずはすぐ近くの大手櫓跡。
真田丸オープニングでは、この上に土塀の櫓がCGで建っていた。
↓三の平櫓(さんのだいらやぐら)東土塀(どべい)
見どころその2。重要文化財の現存土塀。
矢狭間の□と□の間に縦のスジがある。スジより手前が現存土塀だ。
↓二の平櫓跡
現存土塀の左側にあるので見落とし注意だ。
といっても石碑があるだけだが・・・
↓三の平櫓跡
延応2(1240)年に秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)が臥牛山に築城。
その後、元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。
城主は上野氏、庄氏、三村氏とうつる。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。
↓足軽番所(あしがるばんしょ)跡
元亀元(1570)年、元親が留守にしたスキを突いて、宇喜多直家と通じた庄高資(しょうたかすけ)・勝資親子に松山城を占拠された。
が、翌年に穂井田(毛利)元清の協力で庄高資を討ち、松山城を奪還した。
天正2(1574)年、毛利が仇敵・宇喜多(父は宇喜多により暗殺された)と結んだため、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。
翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続いていく事となる(備中兵乱)。
↓二の丸石垣
見どころその3。
三の丸より見上げる厩曲輪(うまやぐるわ)、二の丸へ到る通路、二の丸の石垣。。
石垣の、段々ばたけやーーー
こちらの写真も、降りしなに撮ったもの。
↓厩曲輪(うまやぐるわ)
↓四の平櫓跡
↓御前棚(ごぜんだな)跡
↓二の丸石垣
この辺も見事な石垣が見れる。真ん中らへんは後から補強してるのだろうか石の色が違う。
↓二の丸石垣
上の写真から曲がってすぐの所。ダイナミックに積まれている。
石の表(見える)面のみ、平らに加工しているだろうか。
石の、ジグソーパズルやーーー。(しつこい)
後編へ、つづく。。。