飯盛山城では近年、次々と新たな石垣が新発見され、今や歴史家・専門家からも熱い視線
を送られている。
石垣の範囲や規模が、想像以上に広かったのである。。
これは、石留めや土塁固めといったレベルでは無い、大規模な石垣を山城に積極的に用いている事を意味する。
信長の小牧山城にも先駆けた、全国でも最初の城だ、という可能性が出てきたからだ
・・・天下人・三好長慶の凄さ、思い知るがいい。。
ささ、前回の続きっと。
↓楠木正行公之像
逆光&台座が高過ぎなので、表情はまったくわからなかった。
昭和12年建立。銅像は戦時中に金属供出され、昭和47年に再建された。
三好長慶では無く、小楠公が四条畷のシンボルということらしい。
南朝方の天皇に尽くして命を散らした事が、時代性から見てうってつけだったのだろう。
しかし、後になってそれを結局は供出してしまう所が、なんだかなー、ってなる。
↓本丸高櫓曲輪の東側石垣へ
来訪したこの時点では、一番の石垣の見どころポイントへ。
高櫓曲輪のすぐ脇かと思いきや、意外に下まで降りなければならない。
ここだけご丁寧に案内看板までついている。
↓本丸高櫓曲輪の東側石垣1
わお、野面積み五段くらいはあろうか。範囲も広い。
間近で見る事ができるし、山城においては感動もの。
↓本丸高櫓曲輪の東側石垣2
さらに奥へ進むと、こちらは石の表面を切り揃えた、打込ハギ。
三好時代に積んだものだとしたら、最先端技術だから驚きだが・・・果たして
↓楠公(なんこう)寺
楠公寺は湊川の戦いで散った楠木正行と兵らの菩提を弔うため建立。
境内は馬場跡と云われている。馬を調練した場所なのだろう。
↓本丸千畳敷曲輪
千畳敷曲輪まで来た。この曲輪の削平地はかなり広く、往時はここに居住スペースがあったものと考えられている。
一段高いところにはNHK、FM OSAKA電波塔が建てられている。
↓千畳敷曲輪の南虎口
南側の出口。緩やかなカーブを描いているのがわかる。
当時はもっと折れ曲がっていたのだろうか。
飯盛山城は、大量出土した石垣の公開が待たれるところだ。
↓竹林コース
そのまま野崎側へ下山して野崎観音を目指す。途中の竹林コース。
↓野崎観音ルート案内図
途中、分岐があるが、迷わず野崎城跡経由で。
↓野崎城址_本丸
千畳敷曲輪から降りること30分弱。野崎城址。
↓野崎城址碑
築城者など不明な点が多い。
1348年、四条畷の戦において、縣(あがた)下野守が楠木正行の来襲に備え陣を構えた。
畠山氏の内紛の時、戦闘があった。
畠山氏配下の遊佐氏の管轄で、若江城の支城だったようだ。
飯盛城が山頂に築かれるまでは、街道を掌握し易いこちらの城が重要拠点だった。
築かれてからも、飯盛城の出城として機能した。
↓野崎城址案内マップ
本丸もさほど広くは無く、他に4つの小さな曲輪から成るのみだ。
↓野崎城址からの眺望
まだまだ高台にいるようだ。眼下には深北公園。
↓西出曲輪
本丸のすぐ下に見える。腰曲輪と言ってもいいかも知れない。
野崎城はここらにして、野崎観音(慈眼寺)へ。
↓修験道
↓吊り橋
自然の岩盤に挟まれた極狭の道に、吊り橋。。
なかなか飽きさせないハイキングコース。
↓石造九重層塔
1294年に造られたもので、大東市の有形文化財。
↓楼門(竜宮門)
楼門は竜宮造りという非常に珍しい形式。
野崎観音は通称で、正式には慈眼寺という。
開山は行基。中興の祖は江口の君。
落語や人形浄瑠璃の舞台としても「野崎参り」は有名。
↓飯盛山城_遠景
野崎駅付近まで降り切った。
振り返ると飯盛山城が。
よく見ると、山頂の左の方にNHK電波塔が見える。
さらにその左に小楠公銅像、展望台が・・・見えないか
↓楠木正行公御墓所
あの後、三箇城跡を周って四条畷駅近くまで戻ってきた。
楠木正行御墓所へお参り行かねばなるまい。。
墓所の前の道は狭く、車通りも多いので行くときは注意してね。。
↓楠木正行公御墓所
↓楠木正行之墓
やんごとなき人の墓はなかなか直接には拝めないもの。
囲いの隙間から、南無・・・
山登りした後にも結構ウロウロ。
結構疲れたし、かなり足が痛いww
おわり。。