今回はっ飯盛山城(いいもりやまじょう)
・・・in河内。。
そう、三好長慶が天下に号令を掛けた城として有名であーる。。
三好長慶の居城は、越水(こしみず)城→芥川(あくたがわ)山城→飯盛山城と移されている。
飯盛山城は、生駒山脈の北西支脈に位置している飯盛山に築かれている。
城の北と西は急峻で、河内平野や遠くは京都まで一望できるため、軍事的に重要な場所であった。
JR学研都市線・四条畷駅で下車。まずは四条畷神社を目指そう。
駅から徒歩4分。四条畷神社の一の鳥居地点に。
↓四条畷神社大鳥居
↓飯盛山城遠景
正面に見える山を目指し、四条畷神社参道をひたすらまっすぐ進む。
↓桜井の別れ石像
神社に着いた。
南北朝時代、四條畷の合戦で足利軍との戦いに敗れた楠木正行(まさつら)を主に祀る神社。
父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)、子の正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれる。
西国街道の桜井駅で楠木正成・正行父子が訣別する逸話。別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死、今生の別れとなった。
↓二ノ丸史蹟碑曲輪
神社までも緩やかな登り坂だったが、ここからが本当の山登り。
途中でハイキングコースをはずれ、ショートカットしようとしたのが失敗だった。
暑さと急斜面のため、体力を相当削られてしまった。。
やっと着いた史蹟碑曲輪(しせきひぐるわ)。眺望が開けて気持ちいい~。
↓飯盛山史蹟碑
大正13年に建てられた碑。文章は右側から旧字体で書かれている。まったく読めない。
飯盛山城の生い立ちが簡単に書いてあるとのこと。
「古くは建武年間にここで大楠公が北条氏残党を討ち、その後の高師直 (こうの もろなお) と小楠公との四條畷の戦いを経て、室町時代には畠山氏が河内を領し、家臣の木沢長政が築城。その後 件の三好長慶が奪取して城を拡張、しかし織田信長の近畿統一により廃城となる。」
↓眺望(南西)
視界は西側の南から北へと大きく開けている。
大阪都心部のビル群。その手前の緑が鶴見緑地、その手前にラクタブドーム。
眺望(北西)
北の方は大阪平野を挟み、芥川山城をはじめとする北摂の山まで見渡せた。
芥川山城もそうだが、近畿各地に睨みを利かせる為には恰好の場所だとわかる。
↓竪堀(たてぼり)か
二ノ丸史蹟碑曲輪から御体塚曲輪へと続く道。
自然の岩をも利用し、斜面は削って大勢で攻めづらくしているのかも。
↓堀切
単に尾根と尾根との境目とは思えない。恐らくここも削っているかと思われる。
↓御体塚曲輪の東面石垣1
御体塚(ごたいづか)曲輪へ入る手前で左に少しそれるとこの石垣が。
左側の方の石は復元されているようにも見えるが・・・
↓御体塚曲輪
三好長慶の没後、この曲輪に3年間もの間、仮埋葬した事から命名。
写真の碑は登山三参百会記念の碑。
まったく個人的なものだが、これもいつかは史蹟となるのだろうか
その下の塚のような盛り上がりは、三好長慶の墓という伝承もある。
近年の発掘調査で、この御体塚曲輪には建物があった可能性が高くなっている。
(礎石・瓦片の発見など)
↓石垣への分岐点
御体塚曲輪を降りて次の本丸倉屋敷曲輪へ向う手前に、写真の脇道がある。
ここでそれて残りの石垣を見に行くとしよう。
↓御体塚曲輪の東面石垣2
近年の発掘調査では、石垣はさらに下に続いてた箇所や、他の場所からも検出されているようだ。
↓本丸倉屋敷曲輪
南北に長い。
この曲輪を過ぎたら、また左の小道へとそれよう。
↓本丸展望台曲輪石垣
土に埋もれかけているが、容易に発見できる。
↓本丸展望台曲輪
またしても眺望が開けた。眺望自体は先程とさして変らないので割愛。
↓大阪眺望之図
眺望の解説板があったのでそちらだけ載せておく。
↓本丸高櫓曲輪を見上げる
ここから見上げた場所がこの城の最高所だ。小楠公の銅像が見える。
その左に立つ鉄塔は、戦前に建てられた国旗掲揚台だそうだ。
↓飯盛城址案内マップ
ここに来ての今さら縄張り解説、センキュー。。
ネットでこちらの画像で予習してから攻城しないと、石垣をたくさん見逃していたところだ。
城は三好長慶が拡張してから、広大な規模を持つように。摂津では五本の指。
最高地点315.9mに高櫓曲輪、南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群を配している。
東西の尾根にも小さな曲輪が広がる。
↓飯盛城址碑
本丸高櫓曲輪。ようやく本丸of本丸に到着だ。
城址碑は真新しいが、これがあるのと無いのとでは、モチベーションが大きく変ってくる。
つづく。。