堺市散策!!!~後編 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

前回では、七道駅の海船政所跡から千利休屋敷跡まで歩いてきた。→堺市散策!!!~前編

今回は南宗寺がメインとなってくる。

 

↓武野紹鷗(たけのじょうおう)屋敷址

武野紹鷗(たけのじょうおう)屋敷址

 

千利休屋敷跡より徒歩3分。今度は武野紹鷗屋敷址だ。

 

・武野紹鷗

大和出身の豪商だが堺に移り住む。和歌、茶の湯お茶などをする。
茶道ではわび茶を説き、千利休・今井宗久の師匠でもある。

 

↓今井屋敷跡

今井屋敷跡

 

徒歩1分以内。

 

茶の湯を武野紹鷗に学び、女婿となる。

商才を発揮して信長にいち早く接近し摂津五ヶ庄、生野銀山の代官職などを歴任。

信長が堺を従わせるのに一役買った人物だ。

千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え茶の三大宗匠といわれた。

 

屋敷は織田有楽斎(うらくさい)に譲り受けたもの。師匠である紹鷗とご近所さんという事か。

 

 

↓伊東義祐の墓

伊東義祐の墓

 

徒歩3分。慈光寺という寺にある。特にそれとわかるような案内などは無い。

マニアック史跡。堺観光でここを訪れる人はまずほぼいないだろう。

 

義祐は日向の有力大名で、最大版図(伊東四十八城)を築いたが、のち所領をすべて失った人物。えーん

木崎原の戦いに敗れた辺りから、島津家の圧力を受けて徐々に衰退。ダウン

日向国から没落し(伊東崩れ)、大友家を頼るもその大友も島津に耳川耳の戦いに敗れ、河野家を頼って伊予に逃れる。

 

再起を目指す息子・祐兵(すけたか)が秀吉へ仕官した際に、自らは仕官を断り(プライドが邪魔はてなマーク)諸国を流浪し続ける。

やがて病となりゲホゲホ、天正13年(1585)祐兵の屋敷のある堺へ来てこの地で息を引き取る。享年73

 

子・祐兵はその後、日向飫肥藩5万石の大名復帰を果たす。

 

私的には無知のため、てっきり関ヶ原の戦い時に大垣城を守備してて謀殺された人達のうちの一人かなはてなマークとか。

大きな勘違いで大阪と伊東氏を無理やり結びつけていた。しっつ礼しましたっm(_ _)m

 

↓南宗寺の築地塀

南宗寺の築地塀

 

徒歩6分。南宗寺は1557年三好長慶が父元長の菩提を弔うため建立。

大坂夏の陣で焼失後メラメラ、沢庵和尚らが再建。いろいろ有名な寺だ。

 

見事な築地塀が迎えてくれる。

この築地塀は大量の瓦を土で塗り固めたもので、瓦には大坂夏の陣で焼失した建屋のものなどが使用されているという事だ。

 

 

↓甘露門

甘露門

 

1647年建立。重要文化財。禅宗様と和様入り混じった門。

 

 

↓三好長慶公の坐像

三好長慶公の坐像

 

2014年建立。「堺ちくちく会」が中心となってゆかりの深いここ南宗寺に、と寄付を集めた。

 

・・・ていうか私はてなマーク・・・プロフィール画像の出処バレちゃった。(汗タラー

 

↓本源院

本源院

 

中には織田信長・信忠父子の供養塔があるが、一般公開していない。

 

↓仏殿

仏殿

 

1652年建立。重要文化財。天井には狩野信政作「八方睨みの龍」ヘビが描かれている。

一般公開しているので見ておこう。必見の価値あり。撮影禁止。

 

 

↓唐門

唐門

 

17世紀半頃建立。重要文化財。

屋根瓦の紋どころは「三つ葉葵」。徳川の家紋だ。

この唐門は東照宮に通じる門で、江戸時代、門番を立てて警備したという。

その東照宮は、先の大戦時の戦災で焼失メラメラしてしまったらしいが・・・東照宮はてなマーク

 

東照宮といえば徳川家康の墓所である日光東照宮を代表として、各地にあるが。

ここのは単なる「東照宮」・・・総本山はてなマーク

 

↓徳川家康之墓

徳川家康之墓

 

唐門のスキマから見える「徳川家康の伝説の墓」。

写真のは松下電器産業創業者・松下幸之助氏らが建立したもの。

 

さ、堺に徳川家康の墓ぁ~!?はぁ~はてなマーク

 

拝観料400円を払い入場すると、小さな無銘の墓があり、それこそ家康の墓だという。

 

「南宗寺史」には「(家康が)大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠(かご)で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との伝説が紹介されている。

 

伝説の根拠

・二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が将軍宣下の直後に相次いで南宗寺を訪れ、長滞在したという記録が残っている。

・無銘の墓は寺の極めて重要な場所で発見された。

・「東照宮」という名前

・斜め後ろに、幕末の幕臣だった山岡鉄舟の筆という「この無名塔を家康の墓と認める」内容の碑文が刻まれた石板が立つ。

 

疑問点

・そもそも後藤又兵衛は、前日に討死しているはず。

・寺は大坂夏の陣の前哨戦で、西軍により焼かれ、1619年にそれまでと違う場所に再建したはず。

・じゃあ日光東照宮に埋められているのは誰はてなマーク(影武者!?

 

ありえねー、とはいえ観光ガイドの方は大真面目に話してくださった。面白い話を有難うございます。お願い

 

↓堺都市周濠遺跡

堺都市周濠遺跡

 

南宗寺には他にも三好一門の墓、千家一門の碑、古田織部好みの「枯山水の庭」、千利休好みの茶室「実相庵」など見どころがたくさんあった。写真は撮れないので紹介できないが・・・。

 

南宗寺から南に出ると、すぐ土居川が。江戸時代に拡張した周濠の名残だ。

殆どの周濠(環濠)は埋め立てられてしまったが、南側だけは残っている。

ここが近世まで堺の南端だったわけだ。

 

↓チンチン電車

チンチン電車

 

大道筋を走る路面電車の阪堺(はんかい)電車電車。通称「チンチン電車」

今回の訪問では乗らなかった。

 

大道通りからバスを使って堺駅へ。

 

↓天誅組義士上陸遺蹟碑

天誅組義士上陸遺蹟碑

 

堺駅から海へ向って徒歩2分。天誅組義士上陸遺蹟碑。

天誅組は吉村寅太郎ら尊皇攘夷派の志士たちが結成した、反幕府の過激な組織。

淀川を下り堺のこの地に上陸し、作戦を開始したらしい。

結局失敗しているけれども。

 

堺事件(→前回の妙国寺参照)発祥の地でもある。

 

 

↓呂宋助左衛門之像

呂宋助左衛門之像

 

徒歩2分。本名は納屋(なや)助左衛門。堺出身の貿易商で巨万の富札束を得る。

秀吉にルソン壷など珍品を献上し、保護を得る。

 

のち豪奢すぎる生活のため目を付けられ、ルソンへ逃亡。

その後カンボジアでも豪商となったという。

 

大河ドラマで、松本幸四郎が38年の時を経て、同じ役を演じた事でも有名。

 

↓堺旧港

堺旧港

 

松本幸四郎、じゃなかった呂宋助左衛門像が見ている景色。

遠い異国の地に思いを馳せているのだろうか。

 

龍女神像が目立つ。

中世に繁栄した堺港は衰退。江戸時代に建設・改変されたのがこの堺旧港。

現在ではマリーナ事業でわずかに港の役割を持つ。

 

現在、漁港としてはここより少し南の出島・石津港が機能しているが、国際貿易港は存在しない。

 

 

探せば、他にもまだまだ見どころがありそうな堺。一度行ってみる事をおすすめする。ウインク

 

おわり。。。