今回はっ、郡山城っっ
あぁ、安芸国で毛利元就の・・・ちゃう、ちゃう
大和郡山・・・ちゃう、ちゃう
かの有名なあの摂津郡山やっっ茨木市にある
シーーーーーーーーーーーーーーン・・・
何それ何かあんの
天守は
石垣は
なーんて言わず、、しばしお付き合いくださいませ。。
↓西国街道
大阪モノレール豊川駅から約9分、西国街道が勝尾寺川を横切る地点。郡山本陣方面を臨む。
西国街道
京(東寺口)から大山崎、高槻など淀川右岸を通り、大阪市内を経ないで西国(下関、九州)へ至る江戸時代の重要な幹線道路。
郡山から西宮までは、国道171号線とよく似た経路をとっている。
郡山城は交通の要衝を押えうる重要な地点だったというわけだ。
↓勝尾寺(かつおじ)川
上流方面。勝運祈願とダルマで有名な箕面の応頂山・勝尾寺あたりから流れてきている。
勝尾寺は桜、紅葉
のスポットとしても有名。
このように調べるうちに、お城から派生して色々な事に興味が湧いてくるのもまた、一興である。
下流は、以前紹介した白井河原の史跡・幣久良山の前を通り、安威川と合流し神崎川へと合流していく。
↓郡山宿(こおりやましゅく)
↓郡山宿_説明
まずは郡山宿本陣(椿の本陣)からスタート。。
享保6(1721)年に再建された建物。建造物が残っているのは稀である。
なお、手前の宿場である芥川宿一里塚は以前訪れた。
↓本頂寺への道
南の本頂寺へは急坂となっており、
その本頂寺にも白井河原合戦時の陣(荒木村重が布陣か)or郡山城の出城があった、とも云われる。
今回はここを登らず、東の茶臼塚(ちゃうすづか)へと向かう。
↓茶臼塚_外観
コンビニの横が小さな丘になっていて(茂みのある所
)
やはり白井河原合戦時の荒木方の砦だという。
行ってみよう。
↓下井愛宕神社(茶臼塚)
コンビニから細い道へと回り込むと、下井愛宕という神社の入口があった。
細い道は車も通るので、このような写真を撮る際はお気をつけて。
↓下井愛宕神社のようす
結構広い。元々正体は古墳だと云われている。ここなら兵が布陣する事も可能かと思える。
↓茶臼塚からの眺望(東)
すぐ目の前には新池という池が広がる。昔からあったのではなく、ため池かと思われる。
宅地開発が進んでいるがここだけ別世界のオアシスだ。
↓馬塚
次に、茶臼塚より徒歩4分、
やはり白井河原合戦の史跡だという馬塚に来た。
こちらは非常に小さい。木の根っこ部分が何か盛り上がってるなーという感じ。
公園の中にあり、小さな子らが滑り台のようにして遊んでいた。
(そこへ怪しいオジサンが構わずカメラ片手にやってきたのでどいてくれた)
雨とかで侵食されたにしても、この大きさでここに陣を置いたとはちょっと考えづらい。
・白井河原で討死した郡山城主・郡兵太夫(こおりへいだゆう)を埋めた塚
・または郡兵太夫の馬を埋めた塚
・では無く、白井河原合戦時に和田惟政が陣を置いた場所
・実は茶臼塚と馬塚は逆である
などの説があるが・・・
↓郡兵太夫の墓?
馬塚の上には墓石があり、石仏がいくつか並んでいた。
墓石に刻まれた文字が読めれば何かわかるかも知れないが・・・むりっ
私的には、ここは戦後に荒木方の手で埋められた、郡兵太夫らの塚だという気がする。
それにしても、最近公園行くと子供が多いなー
これじゃあ3密は避けられてない(密閉空間ではないけれど)
*2020年3月に訪れました
↓郡山城跡その1_外観
馬塚を後にして徒歩5分。
ついに郡山城に、きっ・た・-・-・ー・ー・ー・ーコレ
ネットでよく見る場所やん、浪速少年院の門前にあるっていうんで何となしに行きづらかった。
(写真の左の細い道を挟んですぐ門がある)
↓郡山城跡その1
近寄って見る。石碑と案内看板の下に、刻印が彫られた大きな岩が。
大正11年、浪速少年院の建設中に大量の石垣が発見された。これはその一つらしい。
この事から、浪速少年院のある場所はほとんど郡山城跡地と考えられている。
↓郡山城跡_説明
城について現在わかっている事は少ない。
築城者や築城時期も不明。あった場所さえもはっきりしない。
白井河原の戦いの起こった時、城主は郡兵太夫正信で、高槻城主・和田惟政の与力だった。
和田惟政は信長の臣として知られているが、幕臣でもある。
攻め手の池田城主・荒木村重はこの時はまだ信長に仕える前。
中河原の地侍である中川清秀を味方につけ、まず郡山城を落としたものと考えられる。
郡兵太夫は城を抜け出し(捨て?)、和田軍に合流。「味方の援軍を待つべし」との進言が聞き入れられず。
本戦ではやむなく先鋒としてライバル・中川と雌雄を決しようとした→中川に討ち取られた。
・・・あくまで私見のストーリーでした。。。
↓郡山周辺_関連史跡マップ
地図部分を拡大。どちらが馬塚か茶臼塚(郡山古墳と記載されてる)か判っていないが、
いずれにせよ荒木方が布陣したとすれば、敵の城である郡山城を背後にしてしまっている。
なので郡山城は白井河原で戦う前に落城していた、と考えたわけだ。
↓中池(郡山城その1_遠望)
中池を挟んで北から見たところ。
少年院遠景=郡山城遠景。
↓郡山城その2
城探訪はこれでは終わらない。締めくくりは「郡山城跡 候補地その2」
中池から徒歩5分。茨木郡山住宅B9棟の付近の駐車場にきた。
旧字(あざ)名「城ノ内」などが根拠。こちらの方が標高も高い。
・郡山城は少年院からここまでの範囲と広かった説。
・時は少し流れ、信長が荒木村重攻め(有岡城の戦い)の際に郡山砦に立ち寄った、との記録。その城跡がここという説。
↓郡山城その2_説明
上の写真の急坂手前に、簡単な案内板ができていた。
事前の下調べでは説明板などは把握してなかったので、発見した喜び
ひとしお。
城はここだ、と断言する一方で、ザックリした説明。。自分なりに補足を考えてみた。
これから荒木村重のこもる有岡城を攻めるにあたって、元あった郡山城は廃れていたので、秀吉が構築(修築?)を担当。
→最高所に信長御座所(ござどころ)的な城を造った。
→信長が激励に訪れた。
→津田信澄(信長弟)が在番して有岡城包囲網の後方基地として機能した。
こんなストーリーじゃなかろうか
↓郡山城その2_高低差
なるほど、駐車場手前から特に高くなっている。
↓郡山城その2からの眺望(北東)
おぉ、糠塚(ぬかづか)(幣久良山)が見える
ここからなら位置関係がよくわかる。
秀吉:「上様、あれに見えまするが白井河原にござりまするっ」
信長:「・・・で、アルカ。」
↓郡山城その2からの眺望(東)
登ってきた方向を振り返ると、浪速少年院は中央やや右手の茂みの向こう。
見下ろす位置関係となっている。
秀吉:「上様、あれに見えまするが郡兵太夫が城にござりましたっ」
信長:「・・・是非にオヨバズ。」
↓郡山城その2_遠望
郡山城その2の西へ降りてきた。
こちらからだと、西側はさらに切り立っているのがわかる。
秀吉:「上様の御座所に、うってつけにござりまするなっ」
信長:「誰がうつけ者かっ
(足蹴り)」
編集者:「オチがちょっと強引かな~~」
ぷにゅた:「てへペロ。。。」
おわり。