堺市の諸城を巡る!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

今回は見どころのあまり無い(!?)小城をまとめて攻めるぜっビックリマーク

 

てゆー事で、複数回れそうなルートを予習鉛筆し、いざ堺方面へ。。。

 

 

↓城岸寺城跡

城岸寺城跡

 

梅田から大阪メトロ・御堂筋線地下鉄で南下して約30分。。

 

新金岡駅(そんな駅あったんだー)から、バスバスの美原金岡線にのって16分。。

 

大饗(おわい)というバス停下車、すぐ。。城岸寺城跡に到着ビックリマーク

 

 

↓城岸寺城跡_説明

城岸寺城跡_説明

 

・・・といっても、解説版があるのみで特に遺構は無い。。

 

別名・大饗城。南北朝期、楠木氏と行動をともにした和田氏の本拠地と伝わる。

(あの岸和田祭の地名についてる和田氏のこと)

 

昭和56年までは池・堀スライムが存在したが、発掘調査後全て埋め立てられてしまった。えーん

 

 

↓城岸寺_本堂

城岸寺_本堂

 

門から中へ入れないので、隙間からパチリカメラ

 

城岸寺境内に、発掘された室町期の礎石があるとの事だが、どれかよくわからない。

 

 

 

大饗バス停から、今度はバスバス北野田行に乗り、15分。

 

↓野田城跡本丸

野田城跡本丸

 

北野田駅前で降りて、線路沿いに南へ徒歩4分。

 

南野田すかしゆり公園にとうちゃく。。

 

ご覧のとおり、線路のすぐ脇に立派な城址碑がある。線路を挟んだ向こうの木々の所も、城域だったと推定される。

 

 

↓野田城址碑

野田城址碑

 

鎌倉時代末期に、楠木正成配下の地頭・野田正勝により築城された。

 

野田氏は楠木正成と戦い、負けて配下となったようだ。その後、正成とともに湊川の戦いで戦死した。

 

↓野田城_説明

野田城_説明

 

城の東側は西除川(にしよけがわ)で守られている。石碑のある本丸は、城の南端にあたるようだ。

 

 

↓野田城二の曲輪

野田城二の曲輪

 

公園の北東側は一段低くなっている。この高低差こそが、現代も残っている城の名残だろうか。

 

現在はすべり台として活用しているようだ。

 

 

↓西除川

西除川

 

公園から見下ろすと、川はだいぶん下の方に流れている。

城より南東方面は切り立った地形で守られていると感じる。

 

にしても城からすると東の災いを取り除いているのに、何故「西除川」なんだろうはてなマーク

 

調べてみると、行基上人が溜池の狭山池を造った時に、あふれた水を排水するため造られた川で、

東除川もここより東にあるのだと知った。。

 

 

↓陶器城跡

陶器城跡

 

お次は北野田駅から深井駅行のバスバスに乗って「福町」下車、徒歩7分。

 

和泉・陶器城址を攻略。。

 

東陶器公園の南側に、フェンスに囲まれた一角がある。

 

↓東陶器公園

東陶器公園

 

北条氏の家臣で南北朝時代の武将・陶器左衛門尉の居城。

 

だが野田城の野田氏と同時期に、楠木正成に攻められ、陶器氏は滅亡。

 

1351年には南朝方の和田助氏・助重が、北朝方の篭る陶器城を攻めている。

 

 

時は流れ、関ヶ原の戦いで徳川についた小出秀家がこの地を得、陣屋を構えた。(陶器藩陣屋)

明治維新まで陣屋は存在した。

 

↓陶器城_縄張図

陶器城_縄張図

 

土居(土塁)は良好に残っている、との事だがフェンスの中に立ち入る事はできない。

 

また、現在の地図を載せていないので、位置関係が掴み切れない。

 

フェンスの中に土塁に囲まれた本丸があるのだろうか。

 

 

↓陶器城_土塁

陶器城_土塁

 

フェンス越しに覗いてみる。結構高くて2~3mといったところか。

 

 

再び深井駅行きのバスに乗り、深井駅前下車。

さらに津久野行きのバスに乗り換える。

 

↓家原城址碑

家原城

 

「平岡西」下車徒歩2分。家原城跡の真新しいプレートがお出迎え。

 

「えばらじょう」と読むようだ。

 

 

↓家原城_説明

家原城_説明

 

松永久秀が築城したとも。

 

三好長慶の死後、三好三人衆と対立、松永方の和泉衆が立て篭もる。

 

松永方は城を出て上野芝で戦ってメラメラ三好義継の軍に敗れ、岸和田城へと退いた。

 

その後(信長上洛後)三好義継の家臣・寺町左衛門大夫、雀部治兵衛尉らが守る家原城が、

 

京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ(昨日の味方は今日の敵ビックリマーク)落城したという記録が残っている。

この様子は反・信長勢力を糾合する目的で、上杉謙信にも伝えられた(上杉家文書)

 

 

↓家原大池

家原大池

 

 

大幅に地形は改変されていて、遺構らしきものは無い。

 

が、家原大池は当時からあったようだ。

 

↓家原城_高台

家原城_高台

 

城跡広場の北側の団地が建つ辺りはやや高台となっており、当時の名残かもしれない。

 

 

ここまではバス旅かビックリマークってくらいバスバスでの移動。しまいには蛭子さん出てくるわビックリマーク

次は歩きで津久野駅方向へと向う。

 

↓踞尾神社への道

踞尾神社への道

 

駅をくぐり、さらに北東の踞尾神社を目指す。

 

ってゆーか道が・・・せ、狭い。このような道は城や寺の近くによくある。

 

右手には築地塀をわざわざ残し、正面には山車小屋が。

この風景は、萌える。ラブ

 

↓踞尾(つくの)神社の高まり

踞尾神社の高まり

 

駅からは結構急な坂道を登った。

 

踞尾神社はこの辺では最高所にあるのか、神社の裏手へ続く道は下っているように見える。

 

 

↓踞尾八幡神社(踞尾城跡)

踞尾八幡神社(踞尾城跡)

 

築城年代や築城者は不明。槇嶋重利の居城。

 

彼は足利義昭が京から追放されたバイバイ際にもつき従い、のちに秀吉に仕えた。

 

神社の起源は850年以前とあるので、戦国期には城域の中に取り込んだのだろう。

 

「義経腰かけ石」というのが境内にあるらしいので、見てみよう。

 

 

↓義経腰かけ石

義経腰かけ石

 

屋島への渡海船に失敗した義経一行は、再度のチャレンジを期し、この地で海上安全を祈願お願いしたのだという。

 

確かに、丁度いい感じで座れそうな石ではある。。

 

 

↓ご神木

ご神木

 

樹齢850年。境内には他にも700年の楠も立っていた。

 

パワーをもらって帰るとしよう。。お願い

 

 

 

 

本日もお疲れ様でした。。。