茨木城!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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今回の城跡はっビックリマーク

 

い・ば・ら・きっ。・・・関東の茨城県じゃない方の上差し・・・

大阪駅から電車電車で16分にあるやつ。

 

 

↓片桐且元像

片桐且元像

 

まず手始めに、茨木市役所南館内にこっそり安置されている、片桐且元公に会いに行こう。。

 

歴史ファンなら訪れておくべしっっビックリマーク

 

片桐且元は言わずと知れた賤ヶ岳七本槍の一人として活躍した人物で、関ヶ原の戦いの翌年、茨木城主となった。

いや、大阪の陣の直前に両陣営の板挟み叫びになり、家康に寝返った人物としての方が有名か。

 

元よりあった茨木城城域を拡張し、茨木繁栄の礎を築いた人物として顕彰しようという事だろう。

 

片桐且元の没後、まもなく江戸幕府が一国一城令を出したため、茨木城は廃城となった。

 

 

↓茨木城搦手門

茨木城搦手門

 

茨木市役所南館より徒歩5分、走る人茨木神社神社

 

ここに茨木城から移築したとされる搦手(からめて)門が神社の東門として今なお存在している。

 

当時の痕跡がほぼ無い茨木城にあって、貴重な存在だ。

 

 

↓茨木城櫓門(復元)

茨木城櫓門(復元)

 

茨木神社より徒歩5分、走る人茨木小学校に着いた。

 

ほば茨木城のあったとされる場所にあるため、茨木城を探訪する人はこの門がメインとなっている。

 

小学校の正門は、大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城の櫓門を、原寸大の木造瓦葺きで復元したもの。

 

でも通用門はすぐ横にあるので、子供らが毎日この門をくぐっているわけでは無さそうだ。

 

 

↓茨木城櫓門について

茨木城櫓門について

 

茨木城主としては中川清秀と片桐且元が有名だ。

 

だが、在地の国人領主であり、「茨木」姓を持つ茨木氏の方が世に知られるべきだろう。

 

中でも茨木長隆は、不安定ながらも一時的に天下(といっても畿内だが)を取った細川晴元に抜擢された人物。

 

・細川晴元配下で、摂津国人衆(池田氏、伊丹などふたご座)のリーダー的ポジションおーっ!、さらに京都代官をも務めた。

・本願寺とのツテを使って、一向宗を晴元の味方に付けるのに成功、恩人のはずの三好元長を陥れ、死に追いやった。ニヤ

・その後暴徒化した一向宗を制御できず攻められ笑い泣き、今度は法華宗を味方につけたのも長隆。ニヤ

・因果は巡り、三好元長の孫の三好長慶に敗北、没落していった笑い泣き

 

 

↓茨木城址碑

茨木城址碑

 

通用門から学校内に入る(一応断って入ろうか)。

 

城址碑が、櫓門の内側に目立たずに建っているので見落とし注意だ。。

 

↓茨木城本丸跡

茨木城本丸跡

 

正確には、小学校のすぐ北の、畑が広がる辺りが本丸だったんじゃないか、とされている。

 

 

↓佐介桶跡

佐介桶跡

 

城跡の西側はかつて茨木川が南北に流れていた流路に沿って公園となっている。

 

推測するに当時は安威川と茨木川の中州のような土地に城があったんじゃないだろうか。

 

公園内に「佐介桶跡」と書かれた石碑が建つ。他に「旧佐介屋敷跡」石碑があるらしいが、見落とした。

 

何の石碑かはてなマークと思ったら、佐介とは「へうげもの」こと古田織部の事。中川清秀の配下だった(義理の弟なので)頃に茨木に住んでいて、川から自分の屋敷まで桶で水を曳いた場所、という事らしい。茶人お茶だけに、水スライムにこだわったのだろうか。

 

 

↓田中のまるまた

田中のまるまた

 

公園に沿って北へ歩き5分、走る人明治9年頃に造られた、いまなお現役の隧道(トンネル)ドリル

 

上をJR電車が通っている。レンガ造りで堅牢そうな見事な仕事っぷりだ。

 

土台の石垣部分は、高槻城のものが使われている、という噂が。

 

 

↓和田惟政供養塔

和田惟政供養塔

 

トンネルをくぐり、公園をさらに北へ10分走る人でかつて茨木川が安威川と合流した地点に出る。

 

そこからは現在流れる茨木川に沿って西へ。また10分ほどで川の上を名神高速が走る地点に。

 

ちょっと北へ道を入る。和田惟政供養塔を発見。

注>ただ現在は台風で崩壊し、撤去されているようだ。(行ったのはだいぶ前)

 

 

和田家は近江・六角氏の旧臣で、惟政は幕臣だった。

 

明智光秀、細川藤孝らと共に、足利義昭を将軍雛人形につけるため奔走、織田信長との橋渡しをしてこれを実現させた。

 

高槻城主となり、キリシタンを保護。ルイスフロイスを信長に引き合わせたりした。

 

 

だが、池田城を下克上で手中にした荒木村重の勢力と対立。白井河原で両軍は激突する事となる。

 

 

↓白井河原合戦跡_説明

白井河原合戦跡_説明

 

和田惟政供養塔からさらに茨木川を北上すること徒歩8分で、白井河原合戦跡地なるものがある。

 

元亀2(1571)年 白井河原の戦い

この頃はまだ信長の敵だった荒木村重が、摂津を飲み込んだ戦い。

和田惟政はこの一戦で討死し、先程の場所に埋められた(戦死地かはてなマーク)と思われる。

 

そう、ここ(私の住まう)摂津でも、風雲の嵐雷は吹き荒れていたのだビックリマーク

 

↓幣久良(へいくら)山

幣久良(へいくら)山

 

説明看板のある場所の背後の小山が、和田・茨木軍が布陣した糠塚(幣久良山)だ。

 

写真のお墓の道では無く、耳原公園側から回り込んで登ってみる。

 

↓白井河原合戦場跡

白井河原合戦場跡

 

頂上近くまで登ると、わずかに南側を見通せる場所を発見ビックリマーク

先刻見上げた場所と、幣久良橋(手前)、茨木川と、遠くに名神高速も見える。

 

大将が二人とも討死し、和田・茨木連合軍はほぼ全滅えーんしたという(凄惨な・・・)

合戦後はこの川も白井という名に反して、血で赤く染まったという。

 

俯瞰(ふかん)で白井河原を紹介しているサイトは他では見ないので、この写真をアップしてみた。。

 

 

↓耳原大池

耳原大池

 

耳原公園に沿ってさらに4分北上、ここに糠塚(ぬかづか)の説明板があるとの事だが、人が邪魔で写真カメラが撮れず。

 

仕方無く背後の池をパシャリ。。

 

糠塚そのものは現在は失われているという事だが、こんな平坦な場所に軍が布陣する理由が無い。

実際には、幣久良山のことが糠塚と思われていたのだろう。

 

 

 

↓中川清秀由緒地碑

中川清秀由緒地碑

 

白井河原合戦で荒木村重らが布陣した馬塚については、またの機会に訪れようっと。

白井河原説明板へ戻り、さらに徒歩5分・・・さすがに歩き疲れたショボーン。。汗

 

 

バス停の中河原から帰るんだが、最期に中川清秀由緒地碑が近くにあるので。。

「中河原」→「中川」となったみたいで、ここらが生誕地だったようだ。

 

中川清秀は、荒木村重軍の主戦力として白井河原の戦では和田惟政を討ち取る活躍を見せた。

荒木軍は戦後、勢いに乗って茨木城を攻略、その後高槻城、伊丹城も勢力化に加えた。

その功もあって中川は切り取った茨木城の城主を任される。

 

時は巡って天正7(1579)年、荒木村重が信長を裏切って、やがて形勢不利となった際には、信長に寝返っている。

 

信長没後、秀吉に味方して、彼が天下人へ駆け昇るのに重要な役割を果たした。

天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政に攻められ討死した。

 

 

 

おしまい。。。