樫井の戦い!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

さーて、、やっと浜松編を終え、ブログタイトル通りの近畿へと帰って来やしたw。。新幹線

 

JR阪和線電車の新家駅より徒歩16分。走る人

 

ようやく下写真の樫井川へと辿りつく。

 

↓樫井川

樫井川


 

↓樫井川の鳥たち

樫井川の鳥たち

 

ひと気が少なく、鳥たち鳥の憩いの場コーヒーとなっている様子。

 

↓樫井古戦場碑(遠目)

樫井古戦場碑(遠目)

 

樫井川沿いに歩く走る人こと、さらに9分、、川の土手の傍らにその石碑は、建つ。。

 

↓樫井古戦場碑

樫井古戦場跡碑

 

立派な石碑だ。ここ樫井で、大坂夏の陣のうち、最初の戦闘が行われたのだ。。上差し

 

 

↓樫井古戦場碑(説明)

樫井古戦場碑(説明)

 

家康の謀略ニヤによって大坂城の堀を埋められてしまった大坂方ムキーッは、城から出撃するほか無かった。

 

元和元(1615)年四月二十九日、大坂方は先手を取るべく、和歌山城主・浅野長昴を標的とし、岸和田を通過して和歌山城へ向った。

 

しかし、塙(ばん)団右衛門と岡部則綱の間で先陣争いが起き、両者は軍から突出してしまう形に。

 

やがて岡部は敗走、塙団右衛門と淡輪(たんのわ)六郎兵衛は敵中に孤立ゲッソリしてしまう。

 

 

↓淡輪六郎兵衛の墓

淡輪六郎兵衛の墓

 

塙団右衛門は割と有名だが(真田丸でも出てた)、淡輪はあまり知られていない(某ゲームにも登場しない)。

 

ここから少し和歌山方面に「淡輪」という駅があるが、どーやらその地を治めていた豪族だったようだ。

 

六郎兵衛の姉は、豊臣秀次の側室・お督の局だったようで、そうすると彼女は秀次事件に巻き込まれて処刑されてしまったのだろうかはてなマーク

 

 

淡輪六郎兵衛の墓

 

六郎兵衛の墓は、最初に川に着いた地点に戻って、少し北に入った所にある。

 

左奥にある古そうなこの墓碑は、1639年建立とあるから、幕府が鎖国した年にはもう建てた事になる。

 

 

 

↓奥家住宅

奥家住宅

 

ここから熊野街道沿いに東進して、塙団右衛門の碑を目指すのだが、道中にあったのでついでに紹介する。。

 

1600年頃のものとされる住宅。「食い違い」の4室を主体とした泉州地方の農家住宅としてはもっとも古い。母屋(奥座敷を除く)のほか、長屋門・土蔵・土塀が重要文化財に指定されている。中は見れないのだが・・・

 

 

↓附近の住宅

附近の住宅

 

熊野街道沿いを歩いていると、珍しい屋根の形状をしている家が多く見受けられた。

 

錣葺(しころぶ)き屋根 っていうのかなはてなマーク

 

破風も内側が丸まってるし。。

 

 

↓樫井古戦場

樫井古戦場

 

奥家住宅の裏手辺りから北の方を見てみた。。

 

樫井近辺は当時、カエル池・湿地帯とかげが広がっていたという。

 

浅野勢(幕府方)の亀田高綱は、わざとモタモタ進軍牛しっぽ牛からだ牛あたまし、巧みに少数での迎撃に適したこの地まで大坂方を引き込んだようだ。

 

 

ここいらで激しい戦闘が行われたのであろうか・・・

 

 

↓塙団右衛門の五輪塔

塙団右衛門の五輪塔

 

淡輪さんから徒歩4分程で着く。犬犬に吠えられるので注意。。

 

塙直之ははじめ加藤嘉明に仕えていたが浪人し、大坂の役が起こると大坂城に入城した。

 

↓塙団右衛門の五輪塔

塙団右衛門五輪塔

 

こちらは1631年建立。淡輪さんよりもわずかに古い。

 

 

↓塙団右衛門参上

塙団右衛門参上

 

ふと視線を落とすと、彼が名刺代わりに配りまくっていた「塙団右衛門参上」と書かれた木札がビックリマーク

 

たしか真田丸でも、大坂城内で配ってるシーンあったっけ。

 

しかし誰が置いたんだろうか・・・はてなマーク 1個じゃない所がとてもいい。100点

 

 

帰りは北上し、南海電車の吉見ヶ里駅を目指す。。

が、これが失敗だった!普段ここを歩く人もいないのか、歩道がほぼ無く、車通りは結構あるのでヒジョーに危ない。。。

 

電車で訪れる際には、新家駅からをオススメする!

 

 

おしまい。