延命地蔵菩薩和讃(一)【1】始めに | 遊行聖の寺社巡り三昧                            Yugyohijiri no Jishameguri Zanmai

♪二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが

さいの河原に集まりて 苦患(くげん)を受くるぞ悲しけれ

娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さえ

無ければ涙の絶え間無し 河原に明け暮れ野宿して

西に向いて父恋し 東に向いて母恋し

恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり

悲しさ骨身を通すなり

ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び

これにて回向の塔を積む

手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく

からだを朱に染めなして 一重つんでは幼子が

紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む

二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する

三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと

礼拝回向ぞしおらしや

昼は各々遊べども 日も入相のその頃に

地獄の鬼が現れて 幼き者の側に寄り

やれ汝らは何をする 娑婆と思うて甘えるな

ここは冥土の旅なるぞ 娑婆に残りし父母は

今日は初七日、二七日 四十九日や百箇日

追善供養のその暇に

ただ明け暮れに汝らの 形見に残せし手遊びの

太鼓人形風車 着物を見ては泣き嘆き

達者な子供を見るにつけ なぜに我が子は死んだかと

酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの

責め苦を受くる種となる

必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて

積んだる塔を押し崩し

汝らが積むこの塔は ゆがみがちにて見苦しく

かくては功徳になりがたし とくとくこれを積み直し

成仏願えと責めかける♪

(賽の河原「地蔵和讃」より一部抽出)

 

ブログをお読み頂いている方ならば説明不要の地蔵和讃です。

これほど哀しい歌があるでしょうか・・私は最初に聴いた時、号泣しました。

(今も書きながら泣いています)

これは幼くして亡くなった子供達を救う地蔵菩薩を讃える歌ですが、この歳に至ってこそ「延命」地蔵菩薩和讃があって然るべきかと考えるようになりました。

この章は、寺院に散見する延命地蔵をご紹介しながら、人間の老いと病魔との対峙、生命への執着について、理路整然とせず感傷的に考えて行きたいと思います。