さて、訶梨帝(慈母)から鬼子母神(鬼形)信仰への変化は、日蓮宗の布教拡大によるところが大きいものと考えられます。
これは東京都豊島区雑司ヶ谷の法明寺にある鬼子母神像で、西日本では更に恐ろしい鬼形像が多いようですが、東日本ではこの総髪老婆の鬼形が一般的とされています。
天台宗伝教大師最澄の教えを継ぐ法華経行者と自覚した日蓮は、大曼荼羅(この文字による曼荼羅が日蓮系宗派のご本尊)に諸神仏を勧請しました。
論文類を読むと、ご尊格を文字で表現する方法は日蓮以前にもあったようですが、それを本尊として護法神仏とともに配置(曼荼羅)したのは特異であると考えられます。
それを門弟壇越に配ったことを考えれば、法華経経典の代用を意図したものであり、決して初期の日蓮教団(六老僧)に絵が描ける人が居なかったわけではないと思います。
う~ん・・でも居なかったのかもしれません・・人材が薄かったようですから。
日朗上人の自筆曼荼羅を見ると字も下手です・・料理は上手だったようですが・・
(日朗上人筆 曼荼羅本尊 池上本門寺蔵)
前回お示しした大曼荼羅を拡大すると、そこに鬼子母神と十人の鬼女である十羅刹女の名前が記されています。
(日蓮上人ご真筆 平賀本土寺蔵)
法華経陀羅尼品に鬼子母神が十羅刹女とともに法華経信者を守護するとあることから、日蓮は護法神仏の中でも特にこの二神を尊崇したようです。
迫害続きの日蓮であり、特に母親である梅菊に苦労をかけてきた申し訳無さから、鬼子母神に許しと救いを求めていたのかもしれません。
そして日蓮入滅後、十羅刹女を子供(鬼子)に見立てて、本来の訶梨帝(母)をその母親に位置づけたことで鬼子母神への信仰が盛んになったと言われています。
慈母だった訶梨帝(母)を法華経行者の守護鬼に変えたのは日蓮だと結論づけたいところですが、既に日蓮は大曼荼羅の中で鬼子母神と書いているではありませんか。
日蓮は優秀な行者ではあったものの、その性格は偏執的までに頑固であり、訶梨帝(母)を鬼子母神と呼び変える想像力は無かったと思われます。
すると日蓮以前から訶梨帝(母)は鬼子母神と別称されていたことになります。
さて、そこで偶然出会ったのが中国の張靖敏という女性の論文で、シルクロードを伝って来た訶梨帝(母)が中国で民間信仰の「九子母」になったと推論されているのを読みました。
「九子母」像は9人の子供が女神を取り巻く図像で表現され、『楚辞』天問編に登場する女岐であり、これが鬼子母神の原型ではないかと考えるようになりました。
と言うのも、No.2でご紹介した仏像の公式説明書である『諸尊図像集』天部に、もう一枚訶梨帝(母)の図像が存在するのです。
(『ほとけのずかん』神奈川県立金沢文庫より)
ちょっと見にくいのですが、訶梨帝(母)の左右に4人ずつ、そして懐に1人、合わせて9人の子供が描かれています。
つまり平安時代に、「九子母」がその性格から鬼子母として中国から移入されたのではないかと私は想像を膨らませています。
是非、専門家の方にご批判頂ければ有難く思います。