さて、鬼子母神像に鬼形と天女形があることを前回書きました。
その造形が余りにも異なっていることから、日本において鬼子母神がどのような変遷を辿って来たのか興味が湧いてきました。
何故、天女形の慈母神から鬼形の畏怖神が発生したのか?
『岩波仏教辞典』等を調べると、江戸時代、日蓮宗において有角・裂口・憤怒相の鬼形像が造形されて、破邪調伏の修法本尊として用いられたことに始まると説明されています。
しかしそれは庶民の信仰が盛んになる戦国から江戸時代にかけて、真言・天台宗に比べて祈祷や修法が貧弱であった日蓮宗が編み出した苦肉の策に他なりません。
確かに人間の子供を食べるという夜叉の経歴はあるものの、大陸から密教とともに伝わった平安時代には、釈迦に帰依した子供を護る善神(訶梨帝)と見做されていたようです。
ならば、誰が、何故、過去の悪行を蒸し返して、『鬼』という文字を用いて鬼子母神と名づけたのか・・それを考えて行きたいと思います。
まずは平安期から鎌倉期、善神時代の訶梨帝を見て行きましょう。
最も古い訶梨帝像は良くわからないのですが、滋賀県三井寺におわす護法善神立像は平安時代のもので重文に指定されています。
この立像は第五代天台座主智証大師円珍が自刻した神像とも言われ、円珍の故郷讃岐は金倉寺から移されたご尊格であるとされています。
金倉寺(香川県善通寺市)には今も訶梨帝堂があり、「訶梨帝母日本最初出現之地」とされ、地元の人々に「おかるてんさん」として信仰されているようです。
一見すると吉祥天と見紛うお姿ですが、左手にザクロを持ち、足許には幼い赤子が縋るように見上げていることから訶梨帝像(正式には護法善神立像)であると識別出来ます。
そして同じく重文である鎌倉時代の訶梨帝母倚像も三井寺の人気ご尊格です。
(『古寺行こう』31号:三井寺石山寺編より)
右手にザクロを頂き、懐中に赤子を抱く母の尊さが滲み出ています。
実に鎌倉らしいリアリティと美しい装飾であり、そのご尊顔は既にご紹介した江島神社の八臂弁才天とも良く似ていると感じています。
昨年、美月と三井寺は参詣しているのですが、残念ながら一番お会いしたかったこの二尊格を拝観することは出来ませんでした。
お会いしたら絶対に泣いてしまうと思います。
さてこのように鎌倉時代までは護法善神或いは訶梨帝(母)と呼ばれ、天女形の慈母神として、子授け・安産・子供の息災を願う祈祷の本尊として貴族の間で信仰されてきました。
鎌倉時代に作成された仏像の公式説明書である『諸尊図像集』天部にも、訶梨帝として同様の慈母神たるお姿で描かれています。
(『ほとけのずかん』神奈川県立金沢文庫より)
どうしてこの慈しみ溢れるご尊格から鬼形の鬼子母神が生ずることになったのか・・それは次回日蓮の大曼荼羅から読み解くことにしましょう。