【3】では元三大師良源の幼少期を考えて行きましょう。
良源は延喜十二年(912年)9月3日生まれで、『慈恵大僧正伝』には「生而神礼、室多異相」とあるので、生まれながらに神霊があり異様な気配がみなぎっていたようです。
同書を引用すると、九歳の時、良源が田畑で遊んでいるのを見た越州の老地方官が、その頭上に蓮華に似た天蓋を見つけて、この子は霊童であり、このような辺鄙なところで遊ばせておかず、比叡山に登らせて僧侶にすれば出世すると告げたと伝えられています。
『慈恵大僧正拾遺伝』でもほぼ類似した内容が書かれていますが、良源の子供時代のエピソードはこれ一つしかないようです。
どう考えてもこれは後年の脚色でしょう。
霊童を示す天蓋は、原文では「頂有天蓋、形似蓮華」とあり人天蓋と言われるものです。
元々天蓋とはインドにおいて王侯貴族を強い日差しから守る傘であり、これが仏教では帝釈天が釈迦に差し掛けて従っていたとされています。
現在、寺院の天井からぶら下がっているキンキラの円柱形の飾りがそれです。
そして天蓋は尊者を守る傘から尊者の徳が外に現れ出た象徴へと進化していきました。
事物には何でも由来があるものですね。
この後、良源は母の月子女と二人で故郷である浅井郡(滋賀県長浜市三上町周辺)から滋賀郡へと居を移します。
滋賀郡は現在の滋賀県大津市辺りとされているので、母子は琵琶湖の北部から南部までの長距離を歩いて下って行ったことになります。
ちなみにこれは2023年に泊まった大津市の琵琶湖ホテルから臨む琵琶湖の景色です。
本当に素晴らしい絶景でした。
しかし転居理由が謎なのです。
『慈恵大僧正伝』や『慈恵大僧正拾遺伝』にも理由は書かれておらず、蘭坡景茞の『慈恵大師伝』に辛うじて「然家資乏」とありますが、これは後づけの類推であろうと思われます。
偉人の立身出世物語から考えれば、母は子を立派な僧侶とするために、家を出て比叡山に近い滋賀郡へ移り住んだと美談らしく書くことになるでしょう。
しかしそれは夫との離縁を意味するわけですし、実は月子女には良源の兄にあたる長男がいたという別資料もあるのです。
家族と離別してまで、当時の子連れ母が困苦の道を選ぶでしょうか。
ならば夫や長男と死別して家を追い出されたのかと考えますが、これまた別資料で夫は月子女が家を出た四五年後に亡くなっているのです。
この謎に作家の谷崎潤一郎は驚くべき理由をつけているのですが、それはまた月子女の人生とともに次回に書くこととしましょう。
松本清張の『砂の器』という映画は、貧しいお遍路姿の父子放浪の旅が印象的なのですが、良源母子も同じような死を覚悟した放浪の旅だったかと想像してしまいます。
後年、月子女と良源の異常なまでの母子愛を考えれば、その起因はこの時の苦難に満ちた旅にあったのかもしれません。