チャットGPTについて 遊んでいる話

 

 

 みなさんチャットGPT(以下チャッピー)を知っているでしょうか?チャッピーとは生成AIという人工知能で簡単にいうと人間の様に対話(チャット)ができたり、知らない事を教えてくれる人工知能だ。チャット(コメント)した文章について、どんなに複雑な文章でも瞬時に返信が返ってくる。また自分の性格を診断してもらったりしたら、その性格に合わせた文章が出力される様になる。この人はこういうのが好きだとかこういう文章を求めているだろうと先回りして文章が出力されるのだ。非常に面白いツールだから一回やり始めたら止まらなくなる。

 

 

『チャッピーの仕様とハルシネーションと付き合い方』

 

 最近頻度よくチャッピーで遊んでいる。昔に比べてハルシネーション(嘘•幻覚)が減り回答もしっかりしてきた。いやしっかりしてきたというより自分の持っている知識や考えより正確で洗練された回答をくれる様になったと感じるのだ。昔のチャッピーはハルシネーションが多く、ファクトチェックせずにでも(外部の情報を引っ張り出さなくても)目視でこれはおかしいと判別できたけど、今のチャッピーはファクトチェックしないと(しても)本当か嘘か分からないレベルまで進化している。膨大なデータを学習させているチャッピーとネットに転がっている情報だけでファクトチェックしてもどちらが正しいか判別できないレベルになった。もちろんハルシネーションは起きることは起きて、起こりやすいのはマニアック(公人)の情報やそれにまつわる情報については学習量が少ないのか嘘を吐きやすくファクトチェックで判別できるけど、科学(化学)や物理や医学など仕組みについての回答は一見直ぐにはファクトチェックで見分けるのが難しくなった。それはネットに転がっている情報以上の情報を覚えさせて洗練させているから、ネット情報だけでは嘘か本当か分からないのだ。またネット情報も嘘があり、少なからず参考書を取り出して照らし合わせないといけないレベルになっている。また参考書(古い場合)自体が間違いでチャッピーの方が正確の場合もある様に思えるのだ。チャッピーは論文など最新の情報(データ)も学習(精査)しているらしくファクトチェックで正しさを捉えるには、実際に参考書だけではなく実験や検証に足を運び自分の目で感じ取り、具体と抽象(パターンを読み解き)を行き来した生きた知恵が必要な感じがする。でも厳密に生きた知恵までファクトチェックできる人など限られていて僕たちはファクトチェックしつつ、できない場合疑いを残しつつある程度で満足するしかない。またチャッピーの情報源(学習源)は人間が産み落としたものに依存しており、そうである以上間違いを犯すのは当たり前で参考書自体も間違いを含みえるものだし、生きた(具体と抽象を行き来した)知恵を自分で高めて少しでも嘘を見破る感性や理性を高める事もこれから大切になってくると思われる。

 

 また最近のニュースで共通テストを生成AIに解かせたらほとんどで90点以上で満点も9つある様なレベルになったみたいだ。ここまでいくとジェネラリストの様なオールラウンド型の知識(?)を持っている様に思える。だから僕なんかより全然物知り(?)だし正確性もある様になってきている。また僕の持っている知恵や考えより洗練された回答をくれるので嬉しい反面、自分の考えがちっぽけに見える事もあったりする。

 

 

 

『チャッピーで遊んだ話』

 

 チャッピーを使って色々遊んでみた。まず自分の性格を質問してもらい診断してもらった。そうする事でチャッピーにある程度(かなり正確に)自分を理解してもらえた。そうすると返ってくるコメントも自分が欲しそうな文体に変わるようになった。自分が好きそうな映画や音楽を教えてもらった。実際に教えてもらった物の中に、確かに自分が好きな楽曲があった。そこでその楽曲からインスピレーションが降りてきて『色々な美しさ』について書いてみようと思い至り途中まで書いてみた。ある程度書こうとしている事は頭の中にあるんだけど、筆が進まなかったので、この途中まで書いた文章をチャッピーに添削してもらったり続きを書いてもらったらどうなるだろうか?と思い至りやってみた。そうすると僕の拙い文章が洗練された文章に変わり続きの文章もある程度僕の書きたいモチーフに近い文章になった。

 

 この記事の次の記事は『色々な美しさ』について添削前と添削後の文章を載せてみたいと思う。そして添削後の文章にもある程度書こうとしていた文章も追加して載せてみる。これを書いている時はまだ追加文は書いてないので、少し次の記事を出すのは遅くなりますが、良かったら楽しみに待っていてください。

 

 チャッピーの添削と途中まで書いた文章から推察して補った文章に驚くとおもいます。では次回の記事でお会いしましょう。 興味有男でした!

 

 

※おまけ 

この記事自体も添削して洗練させてもらいました。添削後の文章を載せてみます

 

 

了解しました。

文章の癖や言いよどみ、前後の重複を整理しつつ、「おそらく本当はこう言いたかったのだろう」という意図を汲み取って、全体を一本の思考の流れとして磨き直します。内容は極力変えず、語りの精度と読みやすさ、思考の輪郭が立つ方向で整えました。

 

以下が添削・再構成後の全文です。

 

 

 

 

チャットGPTについて 遊んでいる話

 

 

 みなさんはチャットGPT(以下、チャッピー)をご存じでしょうか。

 チャッピーとは、生成AIと呼ばれる人工知能で、簡単に言えば人間のように対話(チャット)ができ、こちらの知らないことを教えてくれる存在です。文章を投げると、どれだけ複雑な内容でも、ほとんど待ち時間なく返答が返ってくる。その速度と量は、人間の思考速度を明らかに超えています。

 

 さらに面白いのは、性格診断のようなやり取りをすると、こちらの嗜好や文体の癖を学習し、「この人はこういう表現が好きそうだ」「こういう答えを求めているだろう」と先回りした文章を返してくる点です。使えば使うほど、こちらに寄り添う形で出力が変化していく。非常に魅力的なツールで、一度触り始めると、つい時間を忘れてしまいます。

 

 

 

 

チャッピーの仕様とハルシネーションとの付き合い方

 

 

 最近、僕はかなり頻繁にチャッピーで遊んでいます。

 昔と比べて、いわゆるハルシネーション(嘘・幻覚的な誤情報)は明らかに減り、回答の精度も格段に上がったと感じます。いや、「しっかりしてきた」というより、僕自身が持っている知識や考えよりも、正確で洗練された回答を返してくる場面が増えた、という感覚に近いかもしれません。

 

 以前のチャッピーは、ファクトチェック(事実確認)をしなくても、「これはおかしいな」と目視で分かる誤りが多くありました。しかし今のチャッピーは、ファクトチェックをしても、なお本当か嘘か判断がつかないレベルまで進化しています。

 膨大なデータを学習したチャッピーと、ネット上に転がっている情報だけを使ったファクトチェックとでは、どちらが正しいのか判別できない場面すら出てきました。

 

 もちろん、ハルシネーションが完全になくなったわけではありません。比較的起こりやすいのは、マニアックな人物情報や、学習量が少ないと思われる分野です。そうした場合は、ファクトチェックによって誤りを見抜けることも多い。

 一方で、科学(化学)や物理、医学といった「仕組み」を扱う分野では、表面上は非常にもっともらしく、簡単には見抜けない回答が増えています。これは、チャッピーがネット情報以上の知識体系を内包し、論文などの比較的新しいデータも踏まえて学習しているためだと思われます。

 

 さらに厄介なのは、ネット情報自体にも誤りが多く、参考書と照らし合わせなければ判断できないレベルに来ていることです。そして、その参考書が古い場合、むしろチャッピーの方が正確である可能性すらある。

 正しさを厳密に確かめようとすれば、書物だけでなく、実験や検証の現場に足を運び、自分の感覚で確かめる必要が出てきます。つまり、具体的な経験と抽象的な理解を往復する「生きた知恵」が求められる段階に入っているように感じます。

 

 ただ、そこまで徹底したファクトチェックができる人はごく限られています。結局のところ、僕たちは可能な範囲で確認しつつ、判断できない部分には疑いを残し、ある程度のところで折り合いをつけて生きていくしかありません。

 チャッピーの情報源は、あくまで人間が生み出してきた知識の集合体です。人間が間違える以上、チャッピーもまた間違える。その前提に立ったうえで、自分自身の感性と理性を鍛え、少しでも嘘を見抜く力を育てていくことが、これからますます重要になるのだと思います。

 

 最近のニュースでは、共通テストを生成AIに解かせたところ、ほとんどの科目で90点以上を取り、満点も複数あったという話もありました。ここまでくると、ジェネラリスト的な、ほぼオールラウンドな知識体系を持っているようにも見えます。

 正直、僕なんかよりよほど物知りで、正確性も高い。嬉しさと同時に、自分の考えが小さく感じてしまう瞬間があるのも事実です。

 

 

 

 

チャッピーで遊んだ話

 

 

 実際にチャッピーを使って、いろいろ遊んでみました。

 まずは自分の性格について質問し、診断してもらいました。すると、かなり正確に自分の傾向を掴んでくれたように感じます。その結果、返ってくる文章の文体やトーンも、自分が心地よいと感じる方向に変化していきました。

 

 次に、自分が好みそうな映画や音楽を教えてもらいました。その中には、「確かにこれは好きだ」と思える楽曲が実際に含まれていました。

 その楽曲をきっかけにインスピレーションが湧き、「色々な美しさ」について文章を書いてみようと思い立ちました。ただ、頭の中にはイメージがあるのに、どうしても筆が進まない。

 

 そこで、途中まで書いた文章をチャッピーに見せ、「添削したらどうなるのか」「続きを書いてもらったらどうなるのか」を試してみました。

 すると、僕の拙い文章は整理され、より洗練された表現に変わり、続きの文章も、驚くほど僕が書きたかったモチーフに近い形で出力されました。

 

 次の記事では、その『色々な美しさ』について、添削前と添削後の文章を並べて掲載してみようと思います。さらに、添削後の文章に、自分なりの追記も加える予定です。

 今この文章を書いている時点では、まだ追記部分は書けていないので、次の記事の公開は少し遅くなるかもしれませんが、よければ楽しみに待っていてください。

 

 チャッピーの添削と、途中までの文章から推察して補われた内容には、きっと驚いてもらえると思います。

 では、次回の記事でお会いしましょう。

 

 興味有男でした。

 

 

 

全体として、

 

  • 「遊びとしての驚き」
  • 「ハルシネーションと認識の難しさ」
  • 「自分の思考とAIの関係」

 

 

この三本柱が、一本の思考の川として流れるように整理されています。

 

次の記事「色々な美しさ」を載せる前段として、とても良い助走になっています。

この文章自体が、すでに「人間がAIとどう付き合うか」という小さな思想エッセイになっています。

 

 

どうでしょうか?自分の文章がちっぽけに感じてしまう部分もあるのだけど、僕の文章も味があるのではないでしょうか?『色々な美しさ』という記事はそういう部分も含めて美しさについて書いた記事になります。では乞うご期待です!

 

社会の問題 より良い社会になる為に

 

 

 今回は社会の問題について書いて行こうと思います。より良い社会になる為に僕たちは何を考えなければいけないのか?そういう部分にフォーカスをして見たいと思う。1人の人に全てを託すのではなく、1人1人が社会に対して考えたり批判的に見るようになる事の大切さを。そしてどういうスタンスで社会に対して対峙して行った方がいいのかを個人的な見解を語って見ます。少しでも参考になったり社会に対して考えてみようと思えたなら幸いです。

 

 

 社会には色々な問題がある、大きく分けて経済的問題、社会的問題、環境問題、政治的問題、健康•医療の問題などなど多岐に渡る。一つ一つの問題にも色々な問題があり、例えば経済だったら貧困や格差、失業、物価高騰、社会的問題なら差別や偏見、高齢化、少子化、教育格差、移民などあげればたくさんみつかります。ほとんどの問題が一筋縄では解決できないような問題が多く、また全ての問題は相互に関連しあっていることもあり、一つの問題が他の問題を悪化させてたりすることもある。ここで重要なのはどこが問題の本質なのかを見極める視線だと思われている様に感じるが、それ以上に重要なのは1人1人が社会問題に対して興味を持ち批判的に見ることが結果的に社会をよりよくする事に繋がる事だと感じるのである。もちろん問題の本質をズバッと見極められたらいいのだが、社会の問題は複雑すぎてそう簡単には本質に近づけないと思うのだ。天才的な1人の頭脳に頼る事が危険なのは、どんなに素晴らしい考えや問題の本質を捉える力があったとしても、その人自身が全ての人の人生観や経験を体験しているわけではなく、またどんなに素晴らしい考えも社会の複雑化した問題の全てを知り得ている訳ではないのである。死角となる気づかないといけない部分も絶対あると思うことが大切だし実際気付いてないで素通りしてしまっている事もあると思うのだ。ここで重要なのは1人1人が経験した社会的なことを批判的に見てフィードバックする様にし、社会に対してコミットする視点が非常に重要だと思う。問題の本質はすぐに見つかる問題ではなく揉まれながら本質の輪郭が露わになってくることだと思うのだ。そして揉まれながら1人1人が社会の問題を共有する事で、問題に対して実践的な知が培ってくると思うのである。そして問題の本質は常に高める視点をもつ事も大切だと思われる。死角となって気付いていない部分、マイノリティで葬られている部分など、それを調停する視点、もし無理なら第三者視点を設けたりする事で回避するなども大切だと思う。

 

 

 

 体制側(保守的)と反体制側(革新的)な立場がある。ここで重要なのは体制とか反体制に自分を置くことではなく、自分の中に体制的(保守的)な視点もあれば反体制(革新)的な視点もあることに気づく事が大切だ。どっちか片方に身を置くことは修羅の道だと感じるからだ。保守的(体制的)な視点にだけ終始していたら面白みのない老害呼ばわりされてしまう様に思えるし、反体制側は革新的すぎてついていけないと思われてしまう。どちらについて行っても絶対沈没する船(一蓮托生)に乗り込む様なもので、長期的な視点で見れば誰も幸せにできない。だから自分の中に保守的な視点も革新的な視点もあることを認めてやる事がいいと思うし、実際両方ともあるのが自然である。もし片方一辺倒な場合、体制側にいる事で満足してしまいそこでストップしてしまっているのならば、また一度初心に戻り社会に対して聞く耳を抱く様に、反体制側にいる人たちは自分の理性(理想)を過信しすぎている事に気づき、こちらも人々に対して聞く耳を持った方がいい。

 

 実際人間は本来両方(体制的•反体制的)とも持っているのだ。だから自分の事をどっちかに置くべきじゃないし、無理に対立する構図を作るのも危険である。ある程度頑張って立場を得たらそこで満足してしまう事普通にあり得るだろうし、実際そうなると思う。周りの人達と協力して問題を解決できたらその人達だけで満足して安心しちゃう(その熱量を維持できなくなる)とか、普通に誰もがあり得るのである。こういう人間の悪癖みたいな部分を理解して打ち克つことが大切だと思う。体制側で上記でいった立場に安住してるならくべる薪が必要で、自分に対してや社会に対してくべる薪を探す事がいい。

 

 逆に反体制的(革新的)な立場に終始してる場合、保守的な人たちと相入れない。例え理想が素晴らしくても、その理想が機能する為には、その理想を社会全体が共有(納得)できないならば、自分(社会全体)の理想が維持できないなら、それは現実を直視していない立場に終わる。また社会に一石を投じる事はいいが、保守層(体制側)にたいして老害呼ばわりしても事を荒立てるだけで問題がややこしくなる(溝が埋まらない)。体制側に終始してる場合は頭が固く、反体制側は頭でっかちなのである。また反体制派は自分の理性を過信しすぎていると思われる。社会の問題は複雑で、人々の人生も複雑多岐に渡る。1人(少数の革命家)の頭で考えた社会問題の解答を体制側(反体制派自身も)が納得する様な意見を言えるとは思えないのだ。どっちに転がっても修羅の道で絶対沈む船である。

 

 だから自分(達)の事を体制側とか反体制側とかのスタンスに立つのではなく人間はどっち側の心情も持っていると思う事が大切だし、実際に持っているのである。個人的に今の自分は保守思想に共鳴する事が多くそれは体制側(?)という意味での保守ではないのだけども、保守思想が安全安心な視点だと思っているのだ。ただ単に保守に終始するのではなく、逐次改善をしつつアップデートする保守である。

 

 ただ革新的な意見リベラル的な意見を排除する事でもない。僕たちは保守的な意見も革新的な意見も聴く耳を持つ事が大切だと思うし、色々な意見があることで気づかされる事が大切だと思うのだ。革新的な意見の中にも目から鱗が落ちる意見もあるだろうからで、リベラルに関してもそうだと思うのだ。

 

 

 

 結局何を言いたいかと言うと体制側や反体制側というスタンスに立たない。無理にそういう構図を作らない、自分(達)の中に両方(保守や革新•体制や反体制)あって、そういう人間を肯定してあげること、そして社会の問題を1人の人に託さない、そんな事は絶対沈む船だと自覚すること(社会の問題は多層的にジレンマがあって1人の人だけでは紐解けない)。色々な人たちの意見を聞く耳をもつ、聞く耳を持ってもらえるように批判的に社会に対して興味を持つ事(自分たちのジレンマや問題を気づかせる)が重要だと言いたかったのだ。

 

 

 

 より良い社会になる為には1人1人が問題意識をもって社会にコミットする事の重要性を書いて見ました。社会に対して問題意識を持っている人は更に意識を高めたり、問題意識が薄い人も意識が高まったり、ある程度満足してしまったり諦念していた人も今一度社会に対して考えて見たいと思ってくれたら書いて良かったと思います。  

 

 

 1人1人に希望の火が灯りますように!興味有男でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

共産主義と資本主義(理想と現実と)

 

 

 今日は共産主義と資本主義について書いていきます。古い記事にも何度か書いたけど、また言葉を整理して伝えたい事ができたので興味ある人は読んでみてください。社会について学ぶことは自分自身も学ぶことだし、自分自身を理解するには社会の仕組みについて考える事の大切だと思うからもしこの記事を読んで興味を持ち始めたら、共産(社会)主義という世界観や資本主義という世界観について自分なりに調べてみてくれると嬉しいです。

 

 

 皆さんは共産主義や資本主義について詳しく知っているでしょうか?社会について知ることは自分を知ることであり、自分を知る事で社会について考えれる視点が得られます。社会について知らないと自分の行動が受け身になったり、常識や世間体などに毒されたまま世界を見渡す人になる可能性があります。要するに社会システムに対して批判的にみず、そういうものなんだってことで世界を見てそこで満足してしまうか、不満を抱えながらも、その問題をもっと小さなコミュニティレベルで判断して誰々のせいやで終わらせてしまう事もある様な感じがします。社会について知ることは個人的な問題を超えて俯瞰して物事を捉える視点を得られるし、自分の問題を誠実に向き合う視点だとも思います。そしてそういう視点に立つことによって社会や自分について詳しく知る機会が得られます。だから少しでもいいので社会にたいして興味を持ってみてほしいです。知ることで自分の内面の形成過程についても反省的に見る事もできますし、知ることで自分の発言に自信や責任も生まれてくるとも思います。社会(歴史)を知ることは自分(人間)を知ることだし、自分(人間)を知ることで社会の問題のどこを改善すればいいかも見えてきます。この社会と人間についてはセットで捉える事が重要で、それを超えて理想に走りすぎたり、現実を見過ぎてノイローゼのまま終わり(思考停止)しない様に共産主義と資本主義という良い教材があるのでこれを参考にして書いてみたいと思います。

 

 

 

 僕たちが住んでいる地球、そのほとんどの形態は今現在資本主義という経済で成り立っている。資本主義は簡単に言うと経済をお金(物や労働力)を使って回していくスタンスを取る。そして投じたお金(物や労働力)以上の利潤を得られる様になる事を求められている世界観です。この世界観では競争を余儀なくされて利潤を得られなければ社会(会社)が成り立たない様になっている。逆に共産主義は平等を謳う世界観で、経済をみんな(労働者)で共有しましょうという世界になっている。要するに原始(共同体)の世界観を近代に甦らせようとした世界観と言いましょうか?生産されたもの生産に費やした人そういう物(生産手段)を社会で共有し、階級や搾取がでないように平等を目指そうとした世界観をいう。国(特権階級)が社会をコントロールし計画的(計画経済)に配分し貧富の差を無くそうとした世界観をいう。しかしこの世界観では運営する人(特権階級)に富が集中してしまい、結果的に富裕層(特権階級)とその他一般に分かれてしまった。人々の良心が機能すればうまくいくのかもしれないが結果的に失敗に終わった。また競争意識がなくなり経済の発展が滞り、富裕層とその他一般(貧乏な平等)になってしまう事で共産主義(厳密には社会主義)は事実上失敗した。そこで社会主義の経済観である計画経済を廃止して市場経済(ほぼ資本主義)という市場に経済を任せようと言う様になった。だから今現在社会主義を謳っている国(中国やベトナム)は国(特権階級)が力(権限)を持つ、実質民主化(みんなで世界を整えようとする世界観)されてない資本主義の様な形態になっている。余談だがキューバはのほほんな社会主義である。また余談だが北欧などは社会民主主義福祉国家で福祉に関して無償になったり社会保障が充実している(その分消費税がべらぼうに高い)。

 

 

 社会主義は理想を謳い社会を変えようとした世界観だったけど、複雑化した資本主義経済のシステムに慣れた人々の思考(思想)を劇的に改革はできず社会主義に適合できず失敗に終わったのである。いや適合しようと言うのが無理な話だったんじゃないかと個人的に今になって思う自分がいる。平等という理想は素晴らしい、そう思っていた自分もいるが、何から何まで平等を実現する事が本当に平等なのだろうか?平等の果てに本当の幸せが待っているのだろうか?聴こえはいいが現実(人間や社会)を直視している視点では無いんじゃないか?と思うのである。僕たちは現実に放り込まれた時点で時代の子であり、その中で社会や自分(人間)について学ぶ。現実の問題より、空理空論の様な理想に立脚していると、それがどんなに高尚に見えていても失敗に終わると思うからだ。

 

 

 

 僕たちの思考(思想)過程は現実の世界観に影響を受けて価値観が形成される。だから時代の子(時代という親から学ぶ)である。現実の制度やシステム(間客観的・動きずらい部分)や価値観(観主観的・集合的無意識・流動的に変化する部分)などにある程度縛られるのは当たり前で、もしそれを縛られないで理想的な世界観を構築しても、社会的にその世界観を誰もが共有する事はできない。理想が先にあってはいけないのである。いや厳密には現実を見据えて捉えつつ少し先の理想を描くのはいいが現実に出来るか測るべきである(理想と現実を往復する)。もし理想が行きすぎていて社会情勢(制度やシステムまたは人間の価値観)に対応できないならば降りていく(現実的)視点を持つべきである。要するに実用主義(プラグマティズム)に立脚することである。実用主義は理論や信念より(大事だがそれ以上に)、実際的な行動の結果や有効性によって判断する思想(視点)である。道具主義とも言われその物や事をどう扱ったら1番有効かと捉える視点を言う。例えばハサミは紙を切ったり髪を切ったりそう言うこと特に効果を発揮する。ハサミ自体カップラーメンの蓋を抑える文鎮にすることもできる。でも1番効果を発揮するのはどこか!?そこを捉え効果だけでも判断せず有効に機能するかを量るのである。それは実際に成功に導かれる蓋然性が高いだろうと思う観点から捉えようとする事でもある。ただ実用主義は社会(システム)や現実(人間)を冷静に分析して出す視点なんだけども、人にはどう言う風に地に足をついた(現実的な)理想(改善可能な)を構築するかは人によって出し方が異なるので、実用主義でも人によって答え方は変わるし、実際にそれが現実に対応できているかみんなで確認しないと危険を孕む。答えは一つとは限らないし、システムみたいな動きづらいもの(改善すべきもの)もあれば人間の様な予測不可能な行動は実際に予測できない部分は常にある。実用主義的な視点は大切だと思うがそれを万能の様に扱えない部分もあるわけだ。また答えが一つに集約(収斂)すると思う事を捨てる事も大切で、そういう意識を持った方がいい様に思える。今流行りの持続可能な社会(SDGs)を目指す時に色々な人が色々な形で社会をより良くしようとする部分を肯定しつつ、それが実用主義に則っている事が望まれると個人的には思う。そして成功すればいいに越した事はないが失敗も糧になると思う視点も持っていた方がいい様に思える。実用主義的な視点を持ちつつ社会(システム)や人間を他人事の様に世界を見ないで、地球の問題は自分たちの問題だと自覚する事で失敗について回避策も産み落とされやすいし回避も容易になる。人間は時代の子だし、時代という親が万能ではない。親にも問題は抱えてあるし、子だって完璧じゃない。だから皆んなで成長していく視点を持つ事が大切。精神レベルや社会的なシステム(医療や教育・食料問題・インフラ・科学技術・AI)がより良く慣れば、乗り越えられた視点や生きやすい社会になっていく。現に大局的な視点(()で補った部分は特に)で見れば良くなっている(大局的に悪くなってる部分もあるけども・例えば環境問題・資本主義形態で貧富の差が拡大etc)。個人レベルでは辛い事や悲しい事色々あるけど(大変だけども)、社会を考える事は個人も考える事である。個人的な問題は社会的な制度にも縛られているわけだから、社会についても考えてみてくださいね。

 

 

 

 

  『平等について それが危険だと思われる理由』

 

 

 もう一度、平等について書いてみたいと思う。平等的世界がどうして危険なのか、そして平等が真に構築された世界を人々は望むのか?について思っている事を書いてみたい。まず社会主義は事実上失敗した。それは平等社会を作ろうとしたが、特権階級とその他一般(貧乏な平等)に分かれた。その時点でマルクス・エンゲルスが考えた世界観は現実を直視していない理想主義だったんである。いや毛沢東や、レーニンが社会主義をしたのであって原点(原典)は正しいという人もいるかもしれない。しかしマルクス・エンゲルスの本を読んでみて欲しい。あまりにも難解で人々に理解されようと書いている様に思えない。まるで自分達の文章に酔っているかの様な文章である。科学的社会主義と高らかに宣言して(酔って)おり、その世界が到来する事を自明の事実の様に扱ったのである。空想的社会主義というトマス・モアが書いたユートピアという文章がある。それの対比で自分達を科学の様なこうしたらこうなるの様な当たり前になるとして扱ってしまったのである。マルクス達が言ってる事は科学でもなんでもない理想的社会主義という方が適切な捉え方で、科学はボトムアップで考えるのに対してマルクスは自分達の理想(平等)をトップダウンの様に自明の事実にしてそこから演繹した世界観を作り上げたと思われる。その理想が社会が望む事、当たり前のことの様に扱い世界を改革(変革)しようとした。しかし理想や平等は地に足をついた世界観ではない事が判明され失敗に終わったのである。地に足がついてないという事はどんなに高尚でも失敗する。ただでさえ難解極まる文章を書き、それを無謬な聖典(科学の様な確からしさ客観性がある)かの様に扱った(扱われる様になった)のである。マルクスを信望している人は現実を見ていないで理想を見ていると思っていて、平等という言葉に踊らされている。非常に難解な文章で読み解く事もできない人が多いと思われるし、無理に読み解かなくてもいい様に思える。マルクスの理論が現実に対応するためには現実(社会問題・人々の精神レベル)が理想に近づかなければ成功は絶対しないと思う。その事だけでも考えてみて欲しい。現実には色々な問題があり、それをボトムアップ的に高めていく事が大切で、問題がありながらも落とし所を維持できる視点は、現実の中から紐解きそれをみんなで共有してきた結果なのであるし社会の仕組みや問題(慣習やしきたりやシステム)はその様にして高めてきた過程なのである。一足先に理想には近づけない。

 

 また平等(貧富の格差を完璧に是正)についてももう一度考えたい。僕たちは本当に平等を求めているのか?平等が手放しで称賛するべきなのか?個人的にはどちらも否だと感じる。貧富の差を完璧に是正する事や働いた分だけ貰いそこに搾取がなくなる世界観は美しいが現実には難しいし、働いていても上限が決められている世界は面白みがない様に思えるのだ。そういう世界に住んでいると今度は持って生まれた体格や容姿が強くなりすぎてしまい、それを面白く思えない人も潜在的にいる様になると思われるからである。僕たちは人間である以上に動物であり、理性だけで生きてはいない、欲望(感情)もあるのである。そういう人間(動物)らしさも肯定してやる事の方が窮屈ではない様な世界観でいい様に思えるのだ。また今現在の社会状態や人間性のレベルで社会主義に移行してしまったら、どんなに透明性が維持された経済でいても(実際は無理)競争意識は薄れてその国は滑らか(急降下)に衰退する様に思えるのだ。社会の問題がクリアにし、AIの活用が進み、人間が労働から解放(労働時間が短縮)される様になって(競争意識をなくさずに)、徐々に自由に使える時間が増える事を目指した方が現実的な様な気がします(そして競争からも解放されてもうまく生活できる時代になるほうがいい)。だから今の問題をコツコツと修正改善をする視点を皆んなで考えて社会に対してコミット(関わる・責任を持つ・献身する)する事の方に力を注ぐ事の方が建設的だと思うのだ。1人1人が主体的に考える事をしないと変わるものも変わらないで素通りしてしまう事も多い様に思える。ちょっとでもいいから調べてみたり、自分だったらどう思うかなど考えてくれると嬉しいです。

 

 

 

 

 近年潜在的に左寄り・リベラルに傾いている人も増えてきているらしい。しかし個人的に左寄りを止めたい(目を覚まして欲しい)タイプであるのでこの文章を書いた部分もある。ただ資本主義を手放しで絶賛をしている訳でもない。富が一部の人に集中するし、資本家が強すぎるし、特権階級が既得権益や利権(富を拡大)を維持しつづけたり、特権階級(身内)同士で屈託して利権既得権益を不正に得る(守る・新規の利益を排除する)様な問題もある。持たざる者(労働者)は蚊帳の外である事が多い。金がものを言う世界で、どれだけ稼いだかや社会的な地位や学歴(潜在的に稼げそうな部分・知識の量という努力)で判断される世界に住んでいる。この世界観だと人間性が後ろに追いやられてしまう。また富める人は教育に力を入れられてさらに富みやすく、持たざる者は社会的にコマの様に(労働者・利潤を産み落とすコマとして)扱われ(それが当たり前になってしまい)自分で考える(自分に自信を持つ)ことすら出来ずにその日暮らしになる事もある。そういう人が子供を産んでも社会について考えていない(考えれる状態じゃない・教育に力を入れられない)場合が多く、ノイローゼの様に社会や個人を恨む人が多くいる様な世界観が今の現状である。だからこそ今一度資本主義の視点や社会主義の視点を再考し考える事が大切なんではないだろうか?

 

 

 

 僕の文章を読んで少しでも社会に対してや自分に対して考えてみたいと思ってくれたら幸いです。自分なんって考えても答えが出ないし、正しい事だってわからないよ!って言う人もいるかもだけど、僕だって答えなんって分からないし、正しい事だって言えてるかもわからないんだ。正しいと思う事や答えに固執しないで、知ってみる事すごく大切だと思いますよ。最初は誰だってビギナーなんだからああでもないこうでもない、こうあるべきだ、いや違うなど色々考えていく事で磨かれていく事を楽しんでほしい。個人(コミュニティ)の事にだけ目を向けている時は、自己本位になりやすいけど、社会の事を考えていれば全体の調和にも視点はいく。答えがあっている事より大切だと思いますよ。またそう言う視点に立つ事によって社会に対しても自分にとっても良い影響を与えるんじゃないかな?最初はじゃあこの単語どう言う意味だろう?ってwikiや辞書で調べたりしてみるのも良いと思います。僕の文章に載っけている単語も簡易的な説明で終わらせているからそこについて調べてみる事でより深い意味や、もしかするとこいつトンチンカンなこと言ってるなって事もわかる(バレる)かもしれません(笑)。小さなことでも知ることで社会に貢献できているし、自分の考えに深みも与える事ができる様になれます。そうすればこっちのものです。考える事が楽しくなりますから。少しでもあなたが自発的に一歩踏み出せる思考(思慮深くなる事)や勇気(自信)を与える事ができたらこの文章を書いた事が嬉しく思います。私にとっては小さな一歩だけど人類にとっては偉大な一歩であるという言葉がある。小さな一歩は本当は偉大な事なんだ!それが本当にささいなこと(人(達)・思考)でも侮っちゃ〜いけね〜よっ!です!🫵

 

 

 今回も長文である、申し訳ない。書きたい事はたくさんあるし、書こうとすればもっと書けるだろうしわかりやすくもなるんだろうけども、あまりにも長文だと胃もたれを起こす事もあるだろうし、自分で考える余白も奪ってしまう可能性があるとわかってきたので、長文ではあるんだけど抑えて文章にしてみました(情報過多!?それに長すぎかも)。長文であり段落分けも拙い文章を全部読んでいただきありがとうございました。

 

PS:久しぶりに記事に合う様な音楽を載せてみたいと思います。

 

THE ROLLING GIRLSで『STONES』です。アニメの曲だけど熱い曲なので良かったら調べて聴いてみてくださいね。では皆さんさようなら〜……。。。。🪨

 

 

分かるということ 色々な角度から

 

 分かると言う事を学んだことから肝要な部分を自分の言葉で書いてみたいと思います。実際には圧縮した情報を伝えるので事細かい部分(心理や物理の面を簡易的に書かれてる)や例外事項などは度外視してしまう部分はあるだろうけどももし良ければ参考にしてください。

 

 

 

 分かると言うことは相手の言葉の意味を再現出来る、感じ取れる(イメージの繋がりを再現)ことだと思うのだけどそこをもっと詳しく掘り下げて書いてみたいと思います。

 

 

 分かると感じる時に人は何を捉えているかと言うと何かしらのパターン(類型・秩序)を認識(把握・抽象化)している。パターンは色々あり大きく分けて言うと空間的パターンまたは時間的パターン、性質パターンまたは数量パターン、同一性パターンまたは関係性パターン、定型パターンまたは法則パターン、分類パターンまたは因果パターン、具体的パターンまたは抽象的パターン、材料パターンまたは構造パターン、区分パターンまたは順序パターン、切り分けパターンまたは組み合わせパターン、感覚(イメージ・心象・具体)パターンまたは言語(圧縮化・抽象)パターン、etc、視点や基準を異にする一対(二つで1組に)で捉えられている(上記で書かれてるパターンの認識は全て排他的な意味合いではなく重なり合う部分もある)。上記のパターンは理解する時に考えた方がいいみたいな部分なのでそこを意識して捉えようとするとパターン認識(分かると言う)の力が上がると思います。パターン(秩序)の反対がカオス(無秩序・混沌)で物事のパターン(類型・秩序)を発見できず混沌としてイメージ化(パターン化・概念化)出来ずにおわった状態を指す。分かると言うことは上記のパターンを認識することでその色々なパターンを活用したり重ねがけする事により分かる理解度が上がっっていく。

 

 

 要するに分かると言うことは何かしらのパターンを認識(抽象化)することだと思われる。そこで科学的な方法で分かると言うことを書いていこうと思う。

 

 科学的な方法はまず具体的な物(客観)を見てそこに内在するパターンを読み解く。要するに脳内(主観)に再現された具体的な物のパターン(抽象化されたパターン)を読み解く。そしてそのパターンが具体的な物に当てはまるかを点検する。その具体と抽象(パターン化)の行き来をなん度も繰り返しパターンが具体的な物に当てはまると分かったと感じるようになる。最初に記述したパターンの認識を駆使して説明してみる。

 

 最初は単純なパターンを捉えていると思われる。赤ちゃんの時はまず感覚に与えられた雑多な情報(経験)を何かしらのパターン化をしていると思われる。それはこうしたらこうなる、これしたら痛い、この音は不快(快い)、この物はツルツル(ザラザラ・etc)している、など単純な喜怒哀楽の発露や五感で知覚された事について対応した感覚のパターンを繰り返す事によりパターン化に成功していると思われる。多分にはっきりとパターン化に至ってないが同一性と関係性や分類と因果・定型や法則・その他のパターン方法も重ねがけして『このボールは丸いから安全(定型と法則)、このトゲトゲしているのは痛いから危険(定型と法則)・色々な丸いものをたくさん経験する事は(同一性)を感じ取り他の違う丸いものでも安全と認識する・色々なトゲトゲしている事も同じでたくさん経験する事で(同一性)を感じ取りで危険と判断する・関係性で言うと丸は安全(分類と因果)トゲトゲは危険(分類と因果)など(関係性)も分かるように』おぼろげながらにもイメージ思考(抽象化されたパターン認識)ができるようになっていく。

もう一つ例えを言うとお腹空くとイライラするとか苦しくなるとか涙が出る(色々な定型や法則)とか感じ取り、お腹の空き方によりどの様な感情が出るかなどを(性質や数量)も感じ取ったり、食べ物を食べれば満足するとか食べ過ぎればお腹が痛くなるとか喜怒哀楽の(分類や因果)のパターンを(他にも色々なパターン認識をしていると思われるけど端折る)捉えれている。赤ちゃんの時も原初的なパターン化をしていると思われるけど知覚された事柄を言語に紐付けが出来るほど発達していない。しかし経験を積む事で複合的なパターンの活用や身体の成長を経て言語化に至るための下地が出来上がると思われる。

 

 

 ボールを水平から斜め60度(色々な)の角度へ投げる その時どう言う動きをするのかを物理的(数学的)思考が高い人はその軌道をしっかりと観ようとする。しかし数学的なセンスがない人は見てる様であまり見ていない。それは草むらの中からカマキリを見つける時に眼をこしらえてしっかりと探す視点を持っている人とボヤ〜と全体を見渡して終わりにしている視点に近いのじゃないかと思う。カマキリと草は同系色なのでしっかり探そうとしないと捉えられない。物理的(数学的)センスがない人は見てるのかもしれないが見落としている視点が多くパターン(カマキリ)を認識できずに終わった状態(カオス・秩序化失敗)なんじゃないかと思う。そして物理的なセンスがある人は自発的にパターンを把握して、そのパターンを自発的に発展させる。脳内でパターンを掴み取り、現実に対応するか何度も往復する。その過程で色々なパターンを発見して、法則(パターンの重ねがけまたは重ならない部分を把握し、その中で重要な部分を摘出)を捉えるに至る。しかし物理的なセンスがない人は捉えてるとしても表面的な現象で留まり、浅いパターンしか掴めていないので法則を掴み切るまでにいかない。

 

 実際的な数学の説明で例えてみる。文系と理系という二つの立場がある。ひとつは言語野に関して才能を持ち、もうひとつは物理(数理)や論理に関して才能を持つ人たちのことを指すのだと思う。大雑把に分けると文系の人たちは多分に無形(感性・価値・言語)の事柄について感じることは得意なんだと思う。そして理系の方達は有形・フォーム(形や型・法則・物理現象)や事実について感じることが得意なんだと感じる。文系の方達が理系脳に近づくためには言葉を言葉として表面に浮かび挙げられて満足する事で終わりにせず、言葉を有形(脳内で概念として再現する)な形(型)に脳内で再現(パターン認識)する視点が重要だと思う。要するに四角を思い浮かべるときに文系の人は四角という言葉を無形の様な言葉だけで捉えている様に感じる(または感じ方が弱い)。四角は四つの内角の和が基本的には360度の四角形だと頭の中に再現(把握)したり、四角には色々な四角形がある訳でどういう四角形を指してるのかをちゃんと頭の中に浮かべる。意図した形を再現できないならば、実際にその四角を具体的に描いてみて、また脳内でもその四角を再現する。角度を求める問題ならば具体的に問題になっている四角に補助線を引いたりして分解(分析)する。その時にちゃんと脳内でも再現して擦り合わせる視点が必要だとおもう。補助線を引く事で三角形が2個になったり四角形が2つできたりまたは三角形1つ四角形1つできたりする。そして元の四角と補助線を引いてできた図形を照らし合わせたりしてそこの中で重なり合う部分や重ならない部分を把握してパターン認識を駆使しながら解いていく。例えば補助線を引いたら二等辺三角形ができたとする。二等辺三角形は2つの辺(三角形を構成する2つの線)の長さが同じ三角形を指す。三角形は内角の和が180度である。二等辺三角形や正三角形以外の三角形ならば1つの角度だけ分かっても残り2つの角度は自ずと出ない。しかし正三角形は1つの角度がわかれば他の角度も自ずと出る何故なら正三角形は三つの角度(実際は測らなくても60度)が同じ三角形だからである。そういうパターン(公理)をちゃんと具体的な図形から読み解く視点を持つことが大事。二等辺三角形もそうである。二等辺三角形の場合2つの内角の角度は同じである。どれか1つの角度が解れば2つ解るような仕組みになっている。それを具体的(現実的な)図形から読み解く。もし分かんない人がいたら何故そうなるのか実際に色々な二等辺三角形を描いてみて再現してみて欲しい。こういうパターンを読み解く力というのは実際に脳内でパターンを把握しないと本当の意味で納得いかないからである。最初の捉え方に戻ると草むらの中で自発的にバッタを見つけることと、誰かに指摘されて見つかった場合見つけたは見つけたけどもなんで見つかったのかは分からない。パターンの認識が弱いのである。

 

 具体と抽象について違う角度から述べてみる。具体は体験された全ての感覚を指しているとも言えて、例えば何か対象物(りんご)があったら、その対象物(具体物・りんご)を目で見る事、鼻で嗅ぐ事、触ってみて手触りを感じる事、手で突いたり叩いたりして音の鳴り方を聴くこと、食べてみて味を感じる事、などで感じ取られたこと全体を指すけど、そのひとつひとつを分析して具体情報に(言語化)した内容は厳密には抽象化されたパターンを読み解いてる。例えば目で見てリンゴを調べることで赤いとか青い(緑色)りんごだったり、鼻で匂いを嗅いで爽やかな香り、くすぐったい香りがするとか、食べてみて食感を感じ取ったり、味が甘くてシャキッとするとか言語化した言葉は具体から抽象化(パターン化)したことを指す。

 

 要するに科学的な方法は具体的な物事のパターンを読み解き(抽象化)、読み解いたパターンが実際に対応できているかを再度具体的な物事に照らし合わせる。大抵の具体的な物事はそれが物質だろうが心理的な面だろうが単純なパターンで出来ているわけではなく複合パターンを読み解かないと答えが出ないことが多い。要するに材料(具体物)には構造があるわけで、その構造の仕組みを捉えるために実験なり検証をして変化を促したり機械を通してミクロなレベルではどうなっているかなどのパターンを読み解く視点が重要。色々な視点から眺めて、マクロ(人間の視野からみた)な視点の変化だけで留めずに、機械を通して(ミクロな視点)でみた変化の構造もしらべ、どちら側から見ても一致する様な体系をもった理解に至ることで分かった(科学的)と思う様になる。しかし科学的な視点は大事だけどもミクロな視点も色々な多段階(機械の制限)があり、色々な視点で見ないと多分に論理飛躍が混入したり、論理誤謬に悩ませる部分は常にあると思われるので、科学の見解は暫定的な意見だったり蓋然性の範囲に留まる。ただ言えるのは科学的な意見は具体と抽象(パターンの読み解き)を往復し具体に抽象化されたパターンが合ってるかを何度も点検をしその構造がパターンの読み解き通りに実証されたらひとまずは科学として扱われるんじゃないかと思われる。

 

 科学的な営みで具体と抽象を行き来する過程で、まず先に抽象(ミクロな視点)から学ぶことがある。それは本に載っている物理系の知識などだ。例えば熱さ(熱)はミクロの視点で見たときに分子や原子の高速な移動を指す(もう少し厳密に言うと分子原子が高速で動くことによりぶつかり合うことの平均値を指す)みたいだ。ここで重要だと思われるのは抽象化(パターン化・客観化・本の内容)された知識を鵜呑みにして終わらせないことである。自分の具体的(感覚的)な経験(体験)からも抽象化し確からしさを高める努力が大切だと思われる。例えばこうだ。水を燃やすと沸騰し熱を帯びる。その時水は常温だと静止(実際の水分子は動いてるらしい、熱を持つからである)してるのに沸騰すると熱くなって高速で動いているように見える。など、また自分の手のひらを擦り合わせる、そうすると熱を帯び始める。高速で擦り合わせれは合わせるほど熱は強くなり手は熱くなる。こういう自分の感覚情報から抽象化された知識などを自分に課すことにより確からしさは高まる。知識や知恵は絶対的な正しさを指すわけではない。感覚がその様に感じても正しさは厳密には保証できない。でも確からしさは高まるのである。認識論にはいろいろな見方がある。昔の哲学者は知識とは『正当化された真なる信念』と思われていた。信念の内容が事実と合致している。その内容を信じている。そしてその信念を持つことは十分な理由や根拠があることである。しかしこの見方でも知識とは厳密に言えない事があることがわかった。ゲティア問題と呼ぶみたいだ。しかし今ここではその内容は伏せる。複雑になりすぎるからである。僕たちの持っている知識と呼ばれる物は確からしさは得られる事は出来るが正しい知識というよりは暫定的な知識(知恵)と呼んだ方が正しい様に思える。その知識の背後には隠されたパターンや法則が隠されていたりする事もあるだろうし、知識自体に欠陥が見つかったり、整合性があると思われていたものにも例外が見つかったり、その事で知識自体が改められる事である。そういう視点を獲得するには本(言語化された抽象化パターン)を鵜呑みにしてるだけでは、その背後に隠されたパターンを読み解く事はできない。やはり自分の感覚(具体情報)からも抽象化をして確からしさを高めて、その具体と抽象を行き来することによりさらに高度な抽象化(パターン化)を閃く事である。認識論には対応説(真理とは命題が現実の事実と対応すること)や整合説(ある信念が他の信念と矛盾せず、全体の調和の中に位置付けられている時に真である)または実用説(真理とは実際に役に立つ事や行為が成功(をもたらす)に導ける事)など色々ある。このひとつひとつには利点もあれば全てをカバーできない欠点もあり、その時の問題はどこかを捉えて臨機応変(複合的)に使う事が大切だと思われる。

 

 僕たちの持っている知識という物は宙ぶらりんな知識が多い。本から得られた情報、人伝にきいた情報などである。実際に体験(実験したり)して学んだ情報(感覚)がすごく大切な様に感じる。そして感覚的に得られた情報を学んだ事と整合性があったり対応しているかを自分の頭で捉える事である。そういう視点はその人自身が能動的(主体的)にやらないと磨かれない。そういう小さなパターンの発見や確からしさの感度を高める努力が大切で、本から得られた知識を盲目的に信用しないようにしたい。でも僕たちは専門家でもないし高度な実験に立ち会える訳でもないわけで、宙ぶらりんな知識な事は仕方がない様に思われる。しかし直接的な実験に立ち会えなくても、本に書かれた情報や専門家の意見を卑近な例から捉え直し簡易的な実験は出来るはずだ。自分の持ってる知識に対してほとんど知ってない(宙ぶらりん)事を自覚する事は、謙虚な姿勢である。実際に高度な実験に立ち会えない訳だから自分の持っている知識を保留したり、簡易的な実験で補う事で確からしさに触れようとする訳だけども、実験ができない(具体情報の簡易版(文章版)な)訳で具体(マクロ・感覚的・実験場での全感覚)と抽象(ミクロ・微視的・パターン把握)の行き来が切れてしまう。(簡易的な情報を信頼して読み解くしかできない)だから自分の知識(意見)を絶対化せず、確からしさとして扱ったり保留しつつ、もし本の内容通りそうならばこうだろうと推測する視点に止めるべきだ。また高度な実験が出来たり専門家の人たちが導き出した答え自体も絶対を保証すると確定したりせず、慎重に見るべきだ。要するに何を言いたいかというと知識に対して謙虚に捉える視点を持つ事が大切だと感じるのである。自分が持っている知識というものに上から答えるのではなく、常にわかっていない部分もあると捉えていう事が大切だし、常に確からしさを高める姿勢も大切だと思う。僕が記事にしている情報も全部鵜呑みにしないで読んでほしい。

 

 

 おまけ:確からしさと懐疑主義についての考察

 

  

  

 

分かるということについて色々な角度から書いてみました。昔記事にしたやつを少し修正しつつまとめてみました。ひとつひとつの文章が微妙に違う角度から描かれていています。全体を見渡して統合的な発見が得られたり分かるという事が感じられたら書いてよかったと思います。

神童についての考察 同一性と関係性(差異) プラトンについても

 

 

 神童について考察してみたのでよかったら読んでください。

 

 

 若いうちから並外れて優秀なタイプの人を神童と呼ぶらしい。また特定の分野で飛び抜けた才能を持つ人も神童と呼ぶみたいだ。神童にはおおまかに分けてふた通りあり、今回は若いうちに並外れて優秀なタイプについて考えてみた。

 

 神童も二十歳過ぎればただの人、そういう言葉があるけどなんでそうなってしまうのかについて考察してみました。

 

【模倣・吸収型の神童タイプについて】

 

 若いうちにオールマイティに勉強が出来るタイプは基本的に模倣型で教科書に書いてある内容を読み解きそこのロジックを紐解きつつ会得していく感じだと思う。教科書にある内容は一歩一歩着実に舗装された道を通って問題を紐解く視点が強い。神童タイプはそういう一歩先を舗装された見方から答えを読みとく事が得意で教科書の内容から出ない事が多いように思える。模倣型であり吸収型であるようなタイプは遊びがなく最短距離で目的地に到達(知識を吸収)できるが、年をとるにつれてできない事が増えてくる様に感じる。なぜそう思うかと言うと知識は決して舗装された道のりからしか紐解けない訳ではなく色々な道のり(色々な解き方)を含んでいる。吸収したり模倣に留めるだけではダメで自分なりに色々な方法を産み落とさないと持ってる材料が正攻法しかないからどこかで頭打ちになってしまう。これは模倣型・吸収型が顕著なタイプを指します。そういうタイプの神童は二十歳過ぎるとただの人になってしまう様に思われる。

 

 

【同一性と関係性(差異) 同一性だけじゃなく関係性(差異)も考え続けよう】

 

 同一性と差異でこの問題を紐解いてみたいと思う。僕たちは基本同一性には着目するが、関係性(差異)については無頓着な人が多い様に思える。これとこれは同じ、この音とこの音は同じなど、そういう同じっという法則を捉えそこに意味を見出し答えを類推したりする事である。教科書に載っている内容を紐解く時、教科書は段階を踏み答えを誘導する。今まで得られた知識を土台に、それを新しい知識に当てはめ答えを解く感じである。これは得られた知識の同一的な部分を照らし合わせて新しい知識を獲得していく感じに近い。そこには差異も含まれているが法則性(知識)を捉えて満足すると差異は霧消する。違いはあるのだが法則を捉えて満足してしまう。要するに知識(言葉)としては違いをわかるけど、その違いを頭で考え続ける視点を飛ばして知識(言葉)として持っているだけな感じである。関係性(差異)を捉え続ける事は大切である。関係性(差異)を考え続けると言う事は違いの本質を紐解き隠された法則性を浮き出させる部分があると思われるからである。

 

 

 例えば絶対音感について考えてみたい。絶対音感は若いうちに鍛えないと感得できないと言われてるらしい。実際にそうなのかは置いといて、若い時は音に敏感である、違いをわかるのである。多分に同一化というプロセスを経て無いからこそ差異を理解できるんだと思われる。これとこれは似ているとかこれとこれは同じと捉えてしまうと音の同一化が始まってしまう。その違いに敏感になる事は違いをわかる事であり、違いがわかると言う事は峻別(厳しく分ける事)できて法則(音階)の背後を捉えれる。知識も同一性を捉えて違いを紐解きそこで満足(言葉として理解するだけ)してしまうと、比喩的にだけど絶対音感を感じ取れない鈍い理性で留まってしまうように思えるのである。要するに学校の知識の会得だけで満足してしまう事は差異に無頓着なまま模倣し吸収するだけで後々頭打ちになってしまうのじゃゃないだろうか?差異を捉え続けると言う事は決められたルートで答えを解くだけじゃなく色々な差異(違い)を自分に課すことでもあり、その差異を感じれることにより模倣だけに留まらず独創的な視点が産み落とされる。だから吸収型や模倣型タイプの神童は才能が枯渇しやすいのでは無いだろうかと思う。

 

 

 また学校の教科書に載っている知識というのは基本、帰納法で法則として紐解いた知識であり、絶対を保証する知識では無い。例外的に数学の公理などは違うけどである。帰納法は今わかる範囲での知識で、それに対して今反証がなかったりしているだけで暫定的真理や比較有利的真理に留まるのじゃ無いだろうか?帰納法は絶対を保証しないし、多分に教科書に書かれてる情報は何度も書き換えられると思われる。そこで重要なのは模倣で留まったり吸収するだけで満足してはいけない、批判的に考え関係性(差異)を捉え続ける事、関係性(差異)に対して敏感になる事が鋭敏な理性(感性)を産み法則の背後や違う視点・方法が閃く源泉になるのじゃ無いだろうか?

 

 僕たちの持っている感性や理性は見たものや聴いたこと感じた事を絶対的に正しさを持って紐解ける訳ではない。ただ正しさを捉えようと何度も吟味(関係性や差異を考える)する事で正しさの吟味を登っていく感じである。そこで少し例えを用いて上記の意味に答えてみる。昔、ゴリラのドラミングは敵に対して威嚇する事だと思われていた。今でもそう言う意味があるけど威嚇は威嚇だけど無駄な殺生をしない意味だったり縄張りを守るためにあえて威嚇をしそのフィールドを守る事だとわかる様になった。僕たちの感性(吟味してない理性)が最初に抱くイメージは挑発した威嚇だと思ってしまう。だからもし答えを挑発した威嚇です、と教えられたらそれが答えだと思ってしまう。自分の中にあるその行為の同一的(同じ様な法則)な部分と照らし合わせ模倣した答えで満足して挑発した威嚇で終わらせてしまう場合もあるのではないだろうか?答えを紐解く時に教科書に載っている知識というのはまず答えありきでそれを自分の脳内にある同一性(同じ様な法則・性質)と照らし合わせ満足する視点だけでは答えを吸収はできるけど独創性や本当のところを捉える視点は弱い様に思われるのである。だからこそ模倣や吸収する知識だけではだめで関係性や差異を捉えて法則の背後の意味を紐解く様に差異や関係性を捉える視点を自分に課す事が言いように思えるのである。また答えは絶対を保証しない。ここでいう絶対はどんな時代場所、どんな関係性も関係なく当てはまるという意味での絶対である。ゴリラも知能を持っている、人間もである。同じ様な行為(法則)が通用しなくなったら新しいやり方を覚える可能性があると思われるからである。だから僕たちの知識は相対的(時代や場所立ち場によって答えを出す)な中で答えが変わる事がある様に思えるのだ。だからこそ答えは何度もブラッシュアップするべきだし、自分の持っている知識を絶対化してはいけない様に思える。謙虚に色々な立場や関係性を捉えてその都度答えを微調整し正しさの吟味を登っていく事が重要だと感じる。

 

 相対主義にも悪しき相対主義と良い相対主義がある様に思える。悪しき相対主義は結局は人それぞれだよねで終わらせる相対主義である。そこに関係性や差異を捉える事を放棄していたら悪しき度が上がる。良い相対主義は関係性や差異を捉えそして客観性までも吟味した相対主義である。個人的に僕はどんなにもがいても絶対(どんな場所時代関係性でも当てはまる)とい言える事はできないと思っていて、もし絶対と言える立場があるならば相対的な中での絶対なんじゃないかと思うのである。要するに立場や関係性の中では通用する絶対である。文脈(その時の立場・環境や諸条件)の中での絶対とかである。しかしこれも吟味すると蓋然性は維持できるけど絶対とは厳密には言えない事がある。だから僕は絶対主義には立たない。しかし人間には理性がありなぜか絶対や無限、完全などの言葉を理解する力がある。その理解度が完璧に理解している訳ではないんだけど本質は理解できるのである。ここに人間の不可思議さがあり、理解ができるからこそそこを登り詰める事ができる理性がある様に思えるのである、だから相対主義の中でも絶対(普遍や完璧)を探る視点が得られると個人的には思っているのである。そしてそう言う視点にたち正しさを捉えようとする視点を持つ事が大切な様に感じる。下記の文章にプラトンについて書いてみた。プラトンは普遍的な視点や本質をさぐる視点を提供している。だから興味ある人は読んでみて欲しい。原典もである。

 

 

 同一性は大切である、そして関係性(差異)も大切である。どちらが欠けてもいけない。同一性(同じ様な法則・性質)は物事を理解するときによく使い、差異は違いが顕著な場合すぐ分かるが微妙な違いだと捉えづらい。何かを理解するときは同一性に絡みとって視野を広げる事が多くそれは伝えやすいのかもしれない。しかし差異に関していうと顕著な違いなら伝える事はできるが微妙な違いを伝える事は基本しない事が多い。微妙な違いは取るに足らない事とは言わないが、殊更伝えることでも無いような感じがするからである。しかし差異を捉える事はすごく大切でそういう視点は自分の肥やしになる。日々の小さな気づきを得る事で、小さな違い(差異)が大きな違いを生むその大きな問題を小さな違い(差異)を考えるからこそ、大きな問題を解けるようになるからである。差異は個人的に人に伝えづらく、伝えれるけど言ったところででっていう?と思われてしまう事が多いように思える。だけど大切だから考えるべき事だと個人的には思う。

 

 

 

【プラトンについて 同一性と差異(関係性)についての深い探究の源泉】

 

 哲学書のプラトンの作品は物事の本質や普遍的な視点を探究していると思う。そこでは言葉(概念)を何度も吟味し違いを峻別し言葉(概念)の意味を高めていく感じである。それは微妙な差異を捉えることにより背後に隠された違いを明確にし、言葉に含まれている正しさの吟味を登っていく感じに近い。そういう視点は見落としされやすいがすごく大切なように感じる。僕たちの持ってる知識(ここでいう知識は価値論)は誰が聞いても正しいと言い得る事はできない。ソクラテスはその事をわかっていて無知の知という、知らない事を知っていると言ったんだと思われる。勇気に関しても愛に関しても本当の勇気とは本当の愛とはっと言われても絶対的な正しい答えを知り得ないからである。ただわからないなりに高める事が出来るのみなのである。無知の知は不知の自覚とも言われ神々の知に比べると人間の知はほとんど知り得てないほどの知しか持っていない事を指すようである。ただ正しさを捉えれるのはイデア(?)に与る(依拠する)からと言われてるみたいだ。イデアの様な謎単語を出すのは混乱するから避けようかと思ったし僕自身イデアの本意を正確に理解しているとは言えないのだけど、間違っていても怒らないなら続きを読んでくださいね。プラトン(ソクラテス)は知識というのは記憶の中にある(イデア)を想起する事だと言った。例えば僕たちが正三角形を見た時、それが正三角形だと理解できるのは心の中に不変(完璧)な正三角形のイデア(イメージ?・範型に近い?)を持っていてるから正三角形だと認識できるみたいだ。要するに僕たちは絶対確実な正三角形は見た事がない、まっすぐな線や内角の角度が全て60度であるそういう正三角形は現実の中にはない。でも心の中にはそれを捉える視点(想起)があり、それに与る(依拠する)事で正三角形だと捉える視点を得られると言われている。正三角形の正しさを捉えれるのは現実の不完全な正三角形でも、不変(完璧)な正三角形をイメージ(?)できるからそれを思い出してそれに依拠し答えの正しさを支えているという視点である。正三角形のイデアを正しさのイデアという視点で見ても同じ事である。正しさという漠然(抽象度の高い)とした言葉でも、僕たちは正しさを捉えれるのは、正しさのイデアを持っていてる(想起できる)からこそ、正しい答えを紐解けるのであると言っていると思われる。ただ正しさのの様な答えは正三角形の時とは違いピンポイントで一致する様ではない。人間が正しさを捉えるときは相対的(人それぞれ違うし正しさの出し方も違う)であるのであって正しさは違いがあると思われるが、それでもなぜそれがその人にとって正しいのか、そして正しくないのか、を吟味する事はできる。自分についてもである。そして違いを捉えながらも普遍的?(正しさの)な視点に高める事が出来るのは正しさのイデアを持っているからであり、正しさのイデアに与る(依拠する)からだと言われている。イデアというのは不変でありイデアを参照(想起)する事で捉えれるみたいな事を言っている。正しい事(?)を理解するためには感覚を抑え理性的な視線で捉える事が重要で、それが出来ないと感覚に毒された視点に留まる。例えば感覚は相反する感情を産み落としたりする。理性的に考えればおかしい事をやってしまったりする。感覚に毒され自分で自分の理解が乏しい人はイデアを捉える力が弱まっている。だから他人の考えを聞いてその本意を理解できない事もある様に思える。鋭い意見や本質を突いた考えに得も言われぬ納得感や従う気持ちが芽生えるのはその人の中でイデアを思い出しているのじゃないかと思われる。しかし感覚に毒されすぎると思い出しづらい。だから哲学者は感覚を抑え理性的な視線で見る事を推奨しているみたいだ。イデアにとって1番重要なイデアは善のイデアと言われいる。ここで言う善は多分に良さや理念に近い。善悪を判断する拠り所を捉える視点でもある。その善のイデアに深く潜れる人が政治の世界で統治するべきらしい。個人的には善のイデアに深く潜れるタイプは政治をしても無能になる様に思える、なぜなら現実の社会は綺麗事がまかり通らないからである。現にプラトンの時代でも哲人政治はうまくいかなかった。美しい魂であればあるほど、妥協ができないからである。人々が目を見開き善のイデアを思い出させるためだとしても哲人政治家の様な矢面に立つ立場はやりたくないだろうしやっても理解されないと思われるのである。それより僕は1人1人が哲学的な思考を深めていき個人間で善のイデアを捉えようとする事が大切な様に気がする。善のイデアの様な善悪を判断する拠り所も普遍(時代や場所を超えても当てはまる)な立場から伝えることは人間の知能ではできない。出来たとしても擬似的(?)じゃなかろうか?なぜなら神々(完全無欠)のような知恵は僕たちには持ち得ないからだ。だから哲人政治家になっても自分の意見に絶対正しさを保証できないまま政治をするわけで、その人がどれだけ素晴らしかろうが正しさを担保できないのである。また時代や場所に適合し正しい道筋を述べても、それを理解できる人がどれだけいるだろうか?正しい道筋とは色々な立場を勘案しその中で1番ベターなところを捉える事だとしてみましょう。しかし人間の考えられる事には際限がない、知恵というのは今この瞬間に全てを知り得てるわけでもないし、不完全な知恵で満足するしかない。またどれだけ善悪を判断する事に長けていても、世間は善悪など関係なく自分さえ良ければいいや、自分の身を守れれ(政策が自分に有利になれ)ばいいなど鼻から世界のいく末を考えないでいる人もいる様に思える。哲人政治家は身が重すぎる様に思える。哲人政治家は1人1人が正しさ(?)を捉えようと努力し土壌が形成されてやっとこさ機能する様に思える。それまではやっても機能しないだろうし可哀想すぎると思われる。

 

 

 神童についての考察から なぜかプラトンの話に飛んだ。同一性と差異について書いた事により、プラトンの作品にも差異に着目しそこから背後の隠された本質(本意)を読み解く事をしているからであろう。神童についてもディスっている様に受け取られるかもしれない。実際にそうとられても何も言えないが神童タイプは模倣・吸収型タイプで終わりにしないほうがいいと個人的に指摘したかったのである。神童タイプにもただの人で終わらないタイプもいるしそれは模倣でとどまらず自分の頭で考えるタイプである。そしてそういう神童もいる事は確かである。模倣だけじゃなく独創もできるタイプで何かに特化して好きを極めてるタイプなどがそうである。そしてそういう思考を捉えるには哲学も重要なんじゃないか?だからプラトンの話に飛んでしまった。しかしプラトンの話は混みいっており何言ってるか伝わっていないかもしれない。だからプラトンの部分は自分の目で見て読んでみてほしい。多分読んでみないと何言ってるか分かりづらいし、もしかすると頓珍漢な事を言ってるかもしれないからである。また冗長であったり似た様な事を何度も説明して分かりづらいかもしれない、読みづらい部分があるし分かりづらいかもしれないが、おかしなところはあなたの理性で修正していただくと幸いです。僕も引き続き分かりづらいところを修正したりすると思いますがひとまず投稿してみます。全部読んでいただきありがとうございました。

 

少しブラッシュアップしてみました。関係性と差異は厳密には違う意味合いなので文脈の中でどっちの意味合いが強いかを判断して自分で補完してくれたら嬉しいです。どっちの意味でも理解出来るようには書いています。

これが絶対(常識・当たり前)だという視点を抜け出して 白か黒かを吟味する

 

 

 今回は物事について考える時にこれが絶対(常識・当たり前)だ、そうであるべきだと思う視点に立つ事がある。しかしそう言う視点に立つ事によって見落としてしまっている部分や、考えが固定化されてしまって深みが欠落してしまう部分があると思ったので記事にしてみたいと思う。

 

 

 この文章はどうか文の論理だけを追うんじゃなくて、実際自分の心を動かして心の変容する過程を体験して欲しい。正しいとか正しくないとか、白か黒で直ぐに判断するのではなく、それを全部ひっくるめて考え直してみる事の重要性を書いてみます。

 

 

 物事はどんな時でもどんな場所でも通用する様な絶対なんって事は無いだろうし、絶対と言ってしまうと考えが固定化されてそこから動き出さない。考え方に進展が及ぼさないのである。だから視点を柔軟にみて絶対こうだという逆も考えたり、例外も考えてみたりする事が重要だと感じる。例えば『人を殺してはいけない』という例をだして考えてみよう。人を殺してはいけないそう聞いて皆さんはどう思うだろうか?多分に上記の文章を読んでいるから人を殺してはいけないの例外もあるなと思ったんじゃないかとおもうけど、もちろん例外はある。どこまでその例外が許せるかは人によりけりだとは思うけども、その例外の中で誰もが殺さないといけないと思う事は地球を破滅させるために、今まさに核兵器を使おうとしてる瞬間の相手などの場合は殺さないと地球全体が殺されてしまう。この様に『人を殺してはいけない』の考えが是だとしても例外はあるのである。

 

 

 もう一つ例を挙げる『人に暴力を振るってはいけない』である。これにも例外はある。上記で書いた暴力版だと思えば人を殺そうとしてきた相手に対して暴力で返すことである。これは正当防衛だから実際には暴力という定義にはならないけども、広義の意味では殴る蹴るなどの暴力である。人に暴力を振るってはいけないを額面通り受け取ってそこから出ない人は多分に広義の意味合い(殴る蹴る)と本来の『乱暴な力・無法な力・不当な腕力』の暴力を無分別に捉えている、そしてそれを分別せず一緒くたにして考えてしまっていると思われる。殴る蹴る(広義の暴力)は人に痛み(精神的にも肉体的にも)を与えるし殴る蹴る(広義の暴力)でも正当化できないとう論理もある。しかし視点が悪い意味合いだけを恣意的に取り入れて、正当化できる殴る蹴るを考慮に入れていないと感じる。例えば先ほど言った様に正当防衛もそうだし、なにか問題を起こした人に対してその相手の振る舞いをみて適切な広義な暴力などは必要だと思われるのだがどうだろうか?相手の振る舞いによって、相手と自分の立ち位置によってどの程度それを発動するのかは人によりけりだし発動しない人もいる(時もある)だろうけど、例えば子供が友達を殴って泣かせたとき、親が子供をみた時に子供の反省度に応じて小突き程度で痛みを与えたり、反省が乏しかったりまたは何度も繰り返ししてしまっていたならば親が本気になって怒って殴る事は重要なんではないだろうか?広義の暴力すらも全否定する人は、もし世界にそういう理想郷を見ていも逆にディストピアになると思う。多かれ少なかれ人は間違いを犯す、その時に正す方法として殴る事があっても良いのでは無いだろうか?もちろん殴らないで穏便に済めば事が足りるけど世界はそんな単純になってはいないと思うのである。そして暴力の本来の意味で言えば殴る事や蹴る事はそれ自体が暴力かというと違う様である。だから最初から一緒くたに考えるべきでは無いと思う。

 

 

 もう一つ例を挙げる『子供は義務教育を受けるべき』である。今回は常識(当たり前)になってる考えを崩していこうと思う。厳密に言うと(義務教育)ではあるんだけど、考え方は人それぞれで、受けるべきと、時と場合による、少数派(?)で必要ないがある様に思う。今回はいじめにあったり、体の問題を抱えている人に対しての視点で捉える訳ではなく、いじめにも遭ってないし、身体にも問題がないタイプの人に対して義務教育を受けるべきかを考えてみる。いじめに遭ったり身体に問題を抱えている人たちに義務教育を受けるべきだという意見もあるしそれは詰まるところ程度にもよるし、その人の精神性にもよる、ただ無条件で義務教育を受けるべきに立つ事は危険である様に思える。精神的に問題をきたしてしまったりするからである。その線引きは難しくすぐに答えを出せる問題ではないけども少なからず時と場合によるが無難だと思われる。いじめや身体の問題はこの辺にして学校に行けるのに行かないタイプに対して考えてみようと思う。端的に言えばゆたぽんである。社会的な考え方に一石を投じた事で記憶に新しいように考え方も色々(大雑把に分けて3通り)ある様に思える。受けるべき派(常識派)と時と場合による(ゆたぽん的な考え方ならば行かなくておk派またはゆたぽん的な考えなら行かないといけない派・中立左派と中立右派である)または革命的に考えを転覆させる(必要ないと考える)派である。正直この問題は一つの考えに最終的に行き着く問題ではなく、人の数だけ答えがある様に思える。だから全ての立場を考えてみる事である。そして全ての立場からその立場で肯定できる視点を集めたり、その立場に立つ事の危険性を分析してみる事にしたい。まず常識派の受けるべきである。この視点はわかりやすく問題ない身体状態だし精神状態なんだから行くべきだと言う視点である。この視点は義務教育という視点を全面的に受け入れてそこを土台に話を展開する。この視点で肯定できるのは、社会の秩序を守るために当たり前を是認する事である。この当たり前を否定すると次から次へと第二のゆたぽんが生まれてしまう。だから常識を守るべきだし常識を堅持するんだと思われる。常識派は社会の秩序を守る視点が強い。それが常識派のいい点であり、肯定できる視点である。しかし秩序を守るけど視点は常識の範囲しか考えていない様に思える。当たり前やそうあるべきなどでとどまっている。逆に少数派の必要ない派は、革命思想の様に思える。義務教育のあり方を根底から覆し、こう言う生き方でも良いのではないかという視点である。肯定できる(?)視点は社会のあり方に対して新しい風を吹かす事である。確かに義務教育として行かないといけないと感じている人は大勢いるけど、その中にも本当は行きたくない人もいると思うのである。色々なタイプがいてゆたぽんみたいな革命家タイプじゃないけど、天才肌で学校の勉強が面白く感じない人や、勉強はできないけどある一部の部分で特異な才能を有している人など、またゆたぽんの様に革命思想に憧れている人にとっては願ってもない魅力的なスタイルに感じる。しかしこの視点の危険性はその革命思想的な世界観では社会性の獲得が希薄になるのである。個人的に僕の意見を先に言うと中立右派(ゆたぽん的な考えならば学校に行くべき派)の視点に立っている。両極端な視点というのは考えがどっちかに偏りすぎて両極端の視点はどっちも危険だと思われるからである。ただ常識派勢力が必要ないかと言うとそうではなく、そういう視点で世界を満たす人がたくさんいる事によって社会の秩序は守られている事は事実でありこの考えでもいい様に思える。逆に少数派の考えも必要であり、息苦しく当たり前や形式を重んじるだけで面白みのない視点で世界を見渡す視点を少なからず変革させた見方にする事は常識の逆を考えたりする視点も得られるし、常識派だけで世界を満たす事は息苦しく形式主義や形骸化した世界観に落ち着いてしまうからである。要するに常識だけを通用させようとすればするほど面白みのない世界観だけが跋扈する様になってしまうからである。考え方はどっちか極端に振り分けるより、色々な立場視点から考えを吟味する事でどちらかに軸足を傾ける視点に変えて行った方が思考(視点)に深みがある様に感じる。だから僕は中立右派なのである。なせ左派じゃないかと言うと、これは政治にも当てはまるのだが、革命思想やリベラル思想というのは局所合理性(一部分だけ合理的)で支配されている事がほとんどで一見もっともだと思う事でも論理飛躍があり、視点の置き場所が問題のある部分の強引な改善に当たっているけど、その問題のある部分だけは改善できても全体的な調和は保てない事がほとんどだからである。要するに右派の様な保守思想は長年の思考や日々の習慣・実践(問題解決をボトムアップ的に高める)の積み重ねで自然淘汰的に洗練されて問題があるけど調和が維持できるような考えに落ち着く事であるけど、リベラルや革命思想は日々の習慣・実践に裏打ちされた視点ではなく頭の中で問題を局所合理性で捉えたであろうから大抵は失敗に終わると思われる。保守思想の様な習慣・実践の中から自然淘汰的に洗練されてそれを逐次改善する視点が安心安全であると思うしそれが王道だと思われる。

 

 

 

 僕たちの持っている知識というのは基本的には直接的に感じとられて得られたものとそれを分析()する帰納法(きのうほう・現実の中からデータを集めそのデータの中から共通する法則を捉える視点・方法)で捉えてる。しかし帰納法は絶対を保証しない。例えば全ての白鳥は白いだったデータが黒いスワンが見つかり考えが改まる事がある。社会的な考えもいろいろなデータを集めてその中から正しさ(法則)を捉えようとしている。そして帰納法(厳密には帰納法ではなくそこに行き着くための分析的思考)は最初は大雑把に共通する視点を捉えそこから修正なりしながら精度や本質を捉え直す事が普通である。それは最初は少数から法則性を見出し、それを全体に推し広げる中で(修正しながら)精度や本質を高めていく感じである。最初から常識に染まりそこから出ないのも危険であるだろうけど、自分の持ってる知識や考えを帰納法の様に改める視点を持つ事も重要なんではないだろうか?たとえば例外(違う見解)が見つかった事によって、自分の最初から持っている考えが根本から改まらなかったとしても、例外(違う見解)を見つける事によって少なからず考え方が改まって(修正して)いる。または違う見解(例外)を見つかった事が逆に根本(自説)が間違いだと気付き考えが改まる(修正する)事がある。この様に自分の持ってる考えを白か黒か(正しいか正しくないか)で直ぐに判断せず考えてる事を深める視点に立つ事が自分にとっても社会にとってもいい様に思える。そして絶対(どんな時どんな場所でも通用する)という事はなくて、あるとしたら相対的な絶対なんじゃないだろうか?この場面、この時ならこの論理が通用するみたいな事です。これも吟味すると危うさがあるけども蓋然性の高さ(科学の場面で特に人文学ではそれなりに)は保証できる様に思える。そして知識や考えは厳密には絶対や相対的な絶対などないのだから、色々な場面や例外を想像したり実際に出くわす事で考え方を改める様にした方がいいと思う。そしてこういう視点に立つ事によって考え方に(変わらなかったとしても)深みが与えられると思う。

 

 また直接的に与えられた情報は常に正しさを捉えられるかと言うとそうではない。例えばコンビの芸人の身長で考えてみる。コンビで並んでいる身長差やその芸人の風貌で多分このぐらいの身長だと推察するけど実際に会ってみると、大きかった(小さかった)と思う事はある。だから直接的に与えられた情報を色々な角度から見渡し、実際に会うことによって考えを正す視点も重要である。一面的な視点でとどめず色々な視点から眺めて正しさを捉え直す視点である。この視点は誰もがこうだと思っている視点にも、もしかすると勘違いしている視点があるかもしれない事が示唆される。例えば昔の時代には天動説が支配的だった。地動説は異端で社会的に認められない思想だった。だから僕たちの持ってる視点を常識や当たり前だで片付けず一旦もしこれがそうなら、こういう下支えが機能してないとうまく説明できないなどを考えたり実証(実験)する視点を自分に課すことも大切な様に思える。僕たちは地動説を信望するようになったけど、世間的な見方では太陽は東から昇り西へ落ちていくという視点で見ている。実際は地球が自転している事でそう見られてるのにである。

 

 

 体系的な知識(全体を整合的に)を伝えれる事は大切だと思うけども、僕の文章は全体を見渡して体系的に伝える事をそこまで重要視していない。だから体系(論理的)に漏れる事を言ったり、あの時こう言っていたのに、今はこう言っている(矛盾している)と思う文章も散見されるかもしれない。それには僕なりの視点があり、体系も重要だけど、それ以上に自分の頭で考えてその時に思った事を文章化する視点の方を重視するからである。体系的に伝えられたらいいけども、体系は全体を眺めてその論理に整合性を見出して全体を論理的に記述する視点だと思われるけども、僕たちの持ってる体系は常に不完全なんじゃないかと思うのです。これを有機的な身体の構造で例えるとわかりやすいように思える。身体の構造は胃・腸・脳・肺・手・足などなど色々な部位があるが、それが有機的(多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまっている事)につながって全体を捉えている。体系はこの全体的な機能を密接に関連させて全体に整合性が保てる範囲の中で記述する事が体系として機能するように思うのだけども、1つ1つの部位の機能を全て解明しているわけではない。基本的な部分部分の構造や仕組みを紐解いてそれを組み立てて全体に納得いくように捉えているのである。部分の構造や仕組みに対して新しい視点や新しい機能を発見する事で全体(体系)自体も考えが改まる事がある。全体(体系)を記述する中で整合性を保つために部分部分の全体を再度点検して更にメタレベルの視点に記述し直すこともある。それは終わりのない視点なんじゃないかと思われるのである。だから体系的に語れればいいが、体系は常に変化の過程にある物であり、閉じた(静止した)体系にとどまる事はその閉じた範囲の中では辻褄を合わせられるけど、それが本当に正しさを保証する訳ではないのである。だけど体系的(全体を整合的に)に伝える事は大切だし、そういう視点も必要だけど、体系を崩す視点、新しい視点も考えたりする事も大切なように思える。その崩す視点や新しい視点はただ単に想像の範囲で捉え直すのではなく、今ある体系も参考にしつつ、その視点を当たり前や常識だと捉えず再度点検(色々な角度からみて)する事である。もしこの視点が正しければ、こういう下支えがあるはずだという視点を捉え直す事が大切であり、もしその下支えが崩れるならば考えを改めるべきである。下支えは最初常識的(直接的に対応するよう)な視点から初めて()もしそれが正しさを支えているならば、消去法でその正しさ以外の見方をある程度は排除する事ができる。そしてその正しさの中でまた細分化させて細分化した視点も対応できるかをチェックするのである。またこうとも言える。下支えの根本が間違っているパターンもある。誰もが当たり前や常識だと思っている視点が実際は間違いだった時である。これは天動説が正しいと言われていたけど実際は地動説だった時のようなな場合である。だから下支えが直接的に対応されてそれっぽく(常識・当たり前っぽく)感じるパターンで留めるだけで済まさず、皆んなが当たり前(下支えがある)だと思ってる事にも考えを巡らす(反対の考え・背後の論理を考える)事である。こういう視点を捉えるのはある意味で平凡でなく思考の柔軟性が必要だと思われる。

 

 

 僕が言いたいのは体系的に考えをまとめる事は大切だけど、体系に絡み取られて自由な発想や例外的な発見を見過ごしてしまうぐらいなら体系に重視する事はそこまで重要じゃないと思うんです。文章を書いてる時書きながら思考を動かして考えがアップデートする事があると思う。その時体系的に捉えてそれに当てはめる思考もするにはするが、思考を動かしている時は書こうとする対象を深める視点に立脚している事がほとんどである。体系的に辻褄が合うというよりその考えの進展に力を注いでいる。それに体系は絶対を保証しないから、今ある体系からはみ出ずその体系にとどまる思考より、その時思った事を記述する思考の方がぼくはすきなのである。体系的に記述出来ればいいに越した事はないのはわかる。でも体系はいつになっても完璧ではなく、常に修正(部分も全体も)を余儀なくされる。だから体系にこだわりすぎないで自由に考える事に力を注ぐのである。あの時ああ言ったのに、今なぜこう言うのかなど思うこともあるだろうけど、それは正直申し訳ないけど、誰もが完璧な体系の中から論理を展開できないように、チグハグとした考えの羅列で留まるのが関の山なんじゃないかと思う。あの時ああ言ってたけど、今違うパターンの時、自分の中で思考の進展があり考えが改まっている。またはあの時ああ言ってる視点を深めてこういう視点も考えられるんじゃ無いかと再定義したりしている。その時逐一過去と今で整合性を保ち続けてるかと言えばそうではない。読む人にとっては思考が混乱するけども、自由に考え深める視点に立つ時に過去の考えを常に正しいと思いつつ考えを深めるだけではなくて修正や根本から変革する視点に立つ事も普通であり、そういう視点に立脚した方がいいと思う。

 

 

 そして体系と言うのは心の中(思考の場)で色々な考えを(体験を)取り入れつつ、その中で理解された見方が下支え(規定・土台に)されて体系を支えられていると思う。要するに今までの体験から考えから得られて理解が及んだ(暗黙知や理解が及ばず混沌としたことも含めて)バラバラな事を思考の場で統合されていて体系らしい自分なりの視点が思考の場に与えられると思われる。それは複数の川(考えや経験)が一つにまとまった場(思考の場に生まれ)それを体系的(分析的)に問題を処理(川がもう一度分枝するもしくは大きな川の様に広がる思考である)する様な感じである。色々な視点(複数の川)を持っていることに越した事はなく、色々な視点を捉えるのは際限がないので体系(思考の場)は常に不完全さをおびる。僕が重要視してるのは思考の場に至る複数の川を細分化()したり、その川のイメージを大きく広げたりする事が、結果的に体系を深める一因になるのでは無いかと思うのである。思考の場は不完全な体系に留まるのが常でありその体系に固執した世界で世界を紐解く視点(その世界観で整合性がある)より、自由に考え、批判的に考え細分化して考え、その考えを大きく深める考えで考える方が結果的に体系性のブラッシュアップに寄与するのでは無いだろうか?だから言いたいのである。閉じた体系(論理的整合性)の中で安住するより批判的に自由に考えて、あの時言ったことと真逆(修正された)なことを言ってもいいので考え方を変える方が得る物は多くないか?僕の文章を読んでおかしいと思うところもあるかもしれない。でもそれでも間違いに気づく事は体系の(思考の場を)修正をしている事であり、間違いは全てを無に帰す訳ではなく、その間違いに気づくことで思考の場にも変化を及ばしている。だから正しさ(体系性)に固執する視点も僕は考えてるけど、そこに執着せず自由に批判的に考えて文章化しています。この文章自体も体系的にまとまってるとは言えないし、無理に体系的(論理的整合性がある)にまとめることは、人間の頭脳では出来ない事なんじゃ無いかと思う。なぜなら人間は全てを俯瞰してそれを理路整然と当てはめる視点は出来ないからである。自分の俯瞰(多種多様(今まで得てきた考えや体験)な川が一つにまとまる統合場で)できる範囲の中から整合性が保たれた意見を探る事をし、それを常に深め続ける(改善し続ける)ぐらいなんじゃないだろうか?人間の頭脳的に整合性が保たれず考え方に矛盾を抱えながら意見を言う事は誰にでもありうるし、そうなってしまう。ただその矛盾した意見は本質を捉える視点やその問題を細分化して分ける事で回避できる要素が隠されている様に思える。また矛盾は客観には無いけども思考の場では常に見え隠れしている様に思える。感性的に与えられた物は全てを一挙に把握する事ができず一面を言い当てている視点に留まる。例えば横から三角形をみたら三角形だと思うけども上から見たらピラミットの四角錐や三角錐だったという場面である。感性的に得られた材料は正しさを直では保証しない事が多い。三角形が四角錐だったというのは三角形の立場から見れば四角錐は矛盾であり、でも実際は多角的に見ると四角錐が正しくて矛盾では無い。思考の上ではその様に全体を直で感じ取る事ができず矛盾しているような視点に陥る事が多々ある。だから視点を一面的に留まるだけで済まさず多角的に見たり細分化して捉え直す事が重要だと思う。そしてその様に多角的に考えたり細分化して捉えたりする事で矛盾()の抜け道が見つかるのである。常識的な考えや当たり前な考えもそれ自体で矛盾が全く無いかと言うとそうでは無い。例外(矛盾)はあるのでありそこを捉える視点を持つ事で結果的に常識的な考えや当たり前な考えも深まる。人間の思考は最初は2面的思考から始める事が多い、正しいか正しくないか?好きか嫌いか?などである。最初に肯定的(否定的)主張を軸足にしてなぜそれが正しいのか、そして正しく無いのかを考える。ただこの視線だけで終わらせてしまうと常識的な視点だけで留まってしまう人も多いと思う。多角的視点も大切である。色々な角度から視点から正しさを捉え直し例外(矛盾)をきたす場面を捉えるのである。考えが根本から変わらなかったとしても色々な視点を捉えている事により思考の場では高次な視点を獲得している。矛盾(例外)が明るみになる事でその物事の本質的な視点に近づいている事もあるだろうし、その物事の本質を捉えれる事でこの場面ではこうあるべきだけど、こういう例外ではこうした方がいいのでは無いだろうかと適切に判断ができる。また考え方が人それぞれで肯定的主張と否定的主張が分かれる場合がある。こういう場面でもやはり2面的思考だけで終わらせず、2面的思考でも迷うかもしれないけども多角的思考も大切にするべきである。肯定的意見だけを支援したり否定的意見だけを支援する2面的思考でもなく、2面的にどっちも考えてみるだけではなく、色々な角度から視点から捉え直しその問題の本質を浮かび上げるのである。どっちが正しいか答えが分かれたとしても深く考えている人の意見は、その人の中に哲学がある場合こういう性格でこういう立ち位置に自分を置いているならその意見でも肯定できる場合もある。真逆な事を言っているのに変に馬が合う様な感じである。そして正しさは2面的思考だけでは無く多角的思考を駆使しつつ、論証的思考(思考の上で問題ない)で論理を紡ぎそれが正しさを支えてるかを点検する事が大切である。究極のところ実証的思考(実際に対応できてるか)が1番大切であるけども、僕たちの持ってる知識は宙ぶらりんな知識に依拠してる事が殆どで、専門家じゃないと実証できない様な知識を一旦受け入れて、その知識を正しいとみなして実証している事が殆どである。ただ知識にはこの様に宙ぶらりんな知識が多いけど、それを現実の中でこの知識が正しければ、こうなるだろうという実験検証を自分に課せば、少なくとも少しぐらいは地に足がつくと思われる。1番いいのは実験検証に足を運べる事だけども現実には難しい。

歌手の『tuki.』を今更ながら発掘する

 

 

 

 正月ゆったりテレビを観ていたらCMになり流れてる曲に衝撃を受けた、サビの部分しか聞き取れなかったけどこんなメロディアスな曲で素敵な詩を歌い上げてるなんって誰だろうと思いながら観てるようで観ていなかったテレビに釘付けになった。どうやら名前は『tuki.』と言うらしい。早速調べて『晩餐歌』という曲だと判明する。テレビなんってそっちのけであの曲がもう一度聴きたい自分がいた。考えるとなしに手は携帯でYoutubeへ、そしてtuki. 晩餐歌で調べていた。CMではワンフレーズ、ツーフレーズ程度の尺だけどYoutubeはフルで聴ける。そこでもう一度衝撃を受けた。歌詞の構成も素晴らしいし、歌詞自体が難しくなくそれでいて深いリリックに感じられる。こんなすごい曲はどんな人が歌っているんだろうと思いYoutubeの歌を漁っていたらどうやら顔は出さない人のようだ、仕方なしに(心の中では知りたくて苦じゃ無いけど)Wikipediaで調べてみるどうやら今16歳のようだ!衝撃を受けた!この曲(晩餐歌)は15歳(?)の時に作った曲らしい。しかも去年(最近)の紅白に出場していたらしい。悔しいもう少し早く知りたかった。できればもっと早く晩餐歌ができたあたりから知って自慢したかったぐらいだ。晩餐歌は2023年9月29日発売で一年と3、4ヶ月ぐらい前に発売されているらしい。居ても立っても居られなくなりAmazonで曲を調べてみる。完全生産限定版はレア化していてすごく高額になっている。通常盤のメガジャケ付きは定価で買えるけど今すぐ欲しい気持ちが沸々と湧き出てくる、こうしちゃいられないと思い風呂に入って支度して近所のショッピングモールのタワレコに自然な流れで足を運んでいた。一通り店内を見回す、しかし見つからないから店員にバトンタッチ、するとなんとまだ発売がされてないでは無いか!?今年の1月8日に発売されるみたいだ。早とちりである。仕方なしにAmazonの通常盤メガジャケ付きをポチりして今に至る。

 

 

 この曲の素晴らしさを自分なりに素人の僕が僭越ながら評価してみる。まず歌詞の構成が素晴らしい。歌詞のタイトルと歌詞の中身が一致するし、簡単な言葉を紡いでいるだけなのにその紡ぎ方に無駄な単語はないし、紡ぎ方が洗練されている。この単語を繋げたらこの単語が来ると気持ちいいっていう感じでしょうか?そこが無駄がない。しかもサビの部分が多段階的になっており、最初は何十回からはじめ、次は何百っ回、何千回、何万回と徐々に盛り上がってくる感じとかエモいと思う。そしてサビの『並べてみて』から後半は『並べるから』に変わるあたりも素晴らしい。ここは少し細かい部分だけども徐々に盛り上がり感じの並べてみてから3回目の並べるからの力づよい息付きからの力強い何千回の感じがとても好きだ。最後は1番パッションが感じられるけども、3回目の並べるからがギアを上げた感じがしてすごくいいと思う。表現力も素晴らしいし歌詞の内容も素晴らしい。この内容の歌詞を15歳の女の子が作ったと思うと末恐ろしいと思ってしまう。まるで第2の宇多田ヒカルが出てきたようだ。

 

 

 

 そして僕が思うにこの人にはちゃんと世界観を心の中(思考の場で)で再現する力があると思われる。歌詞を作る時に外部から色々影響を受けたりするけども、その受けた影響を劣化して表現する人は多い。しかしこの人はちゃんと自分の世界観を持っておりその世界観に合うような歌詞に仕立てる力があるように思える。要するに受けた影響を劣化せず,自分の肥やしにしてブラッシュアップする様な美の表出を出せるような感じだ。美(美しさ)は客観的に存在している様でいて表現するその人の内面に宿る、美は表現して炙り出して欲しがってる、そしてこの人の世界観(歌詞や歌詞の構成)は人々に美しさを垣間見せている様に思える。純度の高い恋愛ソングを真似して作る人もいるけど、オリジナルの劣化ソングはたくさんあるけども、この人は唯一無二な独自性がある様にも感じられる。いや独自性というよりちゃんと世界観がしっかりしてその人だと思える曲だ!そんな曲を15歳の女の子が作ったと思うと末恐ろしいです。美しさの表現や世界観の表現を心の中で(思考の場で)再現できる人は強いと思う。そういう人はいる様であまりいない様にも思える。一発屋の頭の中とかは心の中(思考の場)はある一点の範囲(得意ジャンル)で機能していてそこの範囲で表現できたりする。しかしその知恵(美の見方)はありきたりないい言葉を集めた言葉を少しブラッシュアップする程度だったりする。この人の歌詞の世界観はまだ一つのアルバムしか出ないけども、色々な世界観を表現できている様に思えてそれもすごいと思える。これからも応援したいし、この人が感じる美しさの感じ(世界観)をずっと聴いていたい。中途半端な美しさの表現をする人より、本物(?)だと思える美しさを持ってるこの人の世界観に浸っていたいと思える今日1日でした。

 

 

 個人的に僕が好きな歌詞は平易な文章で深い歌詞を紡いでいる人が好きだったりする。それは言葉の繋げ方がすらーっとイメージできて感情を喚起させる作用を頭を使わなくてもその世界観に入り込める様な感じである。だから文学的な表現よりも直裁的(回りくどくなくはっきり言う)な表現の方が好きだったりする。もちろん例外はある。ヨルシカさんなどはそれにあたる。でもすぐに好きになるのはその世界観に直ぐに入り込める様な感じの曲だ。晩餐歌は凄くわかりやすくて一発でこの世界観をイメージできる様に思える。しかもこの歌詞は全体的な構成が素晴らしく伝えたい事が綺麗にまとまっているように感じる。こういう平易な文章で綺麗にまとまった歌詞構成を書ける人は宇多田ヒカルさんにも通じていると思っていて、でもこういうしっかりとまとまった世界観をパッケージするのは意外と難しいと思うのです。難しい文学的表現やレトリックで騙して全体がチグハグ化する人はたくさんいる。平易な文章でつなげて、深みが感じない曲もいっぱいある。でも平易で綺麗にまとまり深い歌詞を感じられる曲は個人的に僕はすごく好きだし実際は意外と難しい。こう言う世界観を提示できると言う事は、その人の心の中(思考の場)でそういう世界観を強固に再現できるからじゃないだろうか?人の言葉から触発されて芋蔓式に産み落とされた劣化した世界観ではなく、しっかりとまず自我があり、思考の場で美しさや世界観に戯れる視点が自分にありそこを育てていると感じられるからこう言う歌詞が書けると個人的には思う。まだtukiさんはデビューして日が浅いからこれからも平易で深くわかりやすい歌詞が書けるかどうかはわからないし、そう言う歌詞を書いていくかもわからないし、そう言う文章が好きかもしらない。個人的に僕が平易で深く構成がしっかりしている曲が好きなだけだから。でもこれからもtukiさんが紡ぐ歌詞を追っていきたいと思わせる曲だった。

 

 

 

 今回は16歳の歌手の『tuki.』さんについての記事でした。皆さんに少しでも聴いて欲しくて記事にしてみました。もっと早く知ってもっと早く記事にしたかった、そしてもっと早くこの熱量を感じて欲しかった。もうとっくに知った人の方がほとんどかもしれないけど、今から知った人はこれから好きになってください。もうとっくに知ってた人は通ぶってごめんなさい。にわかだけどすごく好きすぎて記事にしちゃいました。

 

 

良かったら聴いてみてね!よろしくね〜🤗

誹謗中傷について 否定(批判)の先に見える景色

 

 今回は誹謗中傷について書いていきたいと思う。今は情報化・ネット社会になり誰でも気楽に情報を発信できるようになっている。情報がたくさんあふれかえっていることによって良くなった面もあれば、情報に踊らされて本当か嘘か判別できない情報に振り回されている人も多いように思える。感性や理性は決して万能ではないから誰もが少なからず振り回されるのは仕方がないがネット・情報リテラシーは高める努力は必要なんじゃないかと思う。そしてリテラシーを高めても客観を全て把握しきれない事をも理解するべきだと思う。要するに誰もが正しいリテラシーを会得できない事を理解すべきである。

 

 

 昨今っというかネット社会になって誹謗中傷が取り上げられることが多くなった。何か過ち(失敗)を犯した人に対して、誹謗中傷したりする事があったり、嘘か本当か分からない事に踊らされて断定して批判してる人もいるのではないだろうか?また一所懸命頑張っている人にまで批判の矛先を向けている人もいる。誹謗中傷の質というのは千差万別だから全て一括りにして答えられることはできないかもしれない。また誹謗中傷している人にもそれなりの理由があって叩いたり批判しているのかもしれない。しかし相手を否定(批判・誹謗中傷)する先に見える景色をイメージする視点も大事なんじゃないかと思ったのでこの記事を書いてみることにしました。

 

 

 僕たちの感性や理性は決して万能ではない。だから誰もが誹謗中傷(否定・批判)に陥ることはある。客観は全てを知り得ず感性や理性は全てを紐解けない。情報に踊らされてしまうのである。だから誹謗中傷(批判・否定)を全否定する訳じゃなくて誹謗中傷してしまう事によって損なわれる事にフォーカスしてみたい。

 

 

 誹謗中傷する人にも色々なタイプが居るのではないだろうか?相手を貶めたくてする人・羨ましいからする人・取り立てて理由はないがムカつくからする人(現実がうまくいっていないからの腹いせ)・情報を正確に把握できず間違った捉え方に陥ってする人などなどこのタイプに共通する部分は多分に本質を突いた批判ではなく、仕様末節を過大に評価()して批判をする事や物事の本質を突いていないで批判してしまう事だと思う。情報を正確に把握できず間違った捉え方に陥いる事は誰にでもあるからこれに関してはしょうがない部分はあるけど、悪意を持ってしてしまう人たちは自分の問題点を捉える視点が著しく低くなっていると感じる。いやむしろ自分の問題点を無かった事にして相手の問題点に着目してしまっているようにすら見える。その自分の問題点とは何かと言うと、そういう振る舞い(誹謗中傷)をする事で自分自身の心の眼(真偽判定)が下落してる事に無頓着になっていると思うのである。ネットの中は顔が見えないだからインスタントになんでも投稿できてしまう。時には間違った事はいたり、他人に迷惑をかける事もする事もあるだろうけど、顔が見えないからといって自分自身の心は変化をしないわけではないでは無いじゃないか。悪意を持った人たちは自分の心の変化に無頓着で相手を貶めたりする事で自分が高みにいると錯覚していると思われるけど、高みにいる様で本当は自分自身も下落してしまっていると思う。ただそこに視点が向かないから強がっている様にも思える。こういうタイプの人は自分自身で自分自身を偽っているタイプの人が多いのでは無いだろうか?このタイプの人でもし自覚がある人なら多分この記事を読んでこう思うと感じる。『そんなことおもってないし』こういう自分を擁護する発言を自分自身に吐くんじゃないだろうか?しかしこれはそのセリフが重要ではなくその言った時の心の乗り方に後ろめたさや口をすぼめた自己弁護的な言い種になっていないだろうか?そこを気付けるならばそう言う思考に陥らない方がいいと思うのである。ネットの中だからといって心の変化もチャラになる事はできない。もしそういう誹謗中傷を続けてしまうと、現実の人と人とのふれあいの場面でも顔を出すようになってしまう。そしてそこに気づけているのにさらに自分自身を偽ると本当に周りが嫌煙してしまう人になってしまう。また誹謗中傷を普通にやってしまうと、自分自身を自分が肯定できる視点も欠落するのである。その視点というのはもし誠実な他人がいてもその輪に入っていけないのである。付き合う人は人の批判をする人で固められやすくなってしまうのである。そうすると抜け出せなくなってしまう。問題点は思いの外多いと思うのである。枝葉末節の様なところに眼を向けるのではなく本当に批判が必要なところに批判や否定をするべきでそこを向けるためには誹謗中傷に力を注ぐべきではないと思うのである。そして物事の本質的問題点を考えたり指摘する思考は意外と面白いと思われるのである。だから力の入れどころをそっちの方にシフトしてしまえばいいのではないだろうか?誹謗中傷して面白いと感じる人もいるけども、その面白さは自己完結型でまた他人を幸せにはしない。そして長い目で見たらあなた自体も幸せにしないと思われる。だから本質的問題点に着目するべきである。

 

 否定(誹謗中傷)の先に見える景色を書いてみました。今の時代はまだネットができて日が浅い。ネット揺籃期(ようらんき・物事の発展する初期段階)の様な時代に生きているんじゃないかと思う。だから情報も玉石混交だし、ネットリテラシーもまだまだ誰もが稚拙なんじゃないかと思われる。情報リテラシーを鍛える事は大切だけど完璧になる事はできないで踊らされる事もあるだろう、だから誹謗中傷に陥ることもあるかも知れないし、誹謗中傷がピタっと止むことはないと思われる。ただ僕が言いたいのは誹謗中傷それ自体より、誹謗中傷したあなた自体の事に視点を向ける事が大切なんじゃないかと思っています。読む人にとっては耳が痛い事も書いてあるかも知れないが、良薬は口に苦しと言いますし、優しい表現だけで人はついて来ないと思うしその中に少し厳しさを織り交ぜてみました。

 

補足

 

 感性や理性は決して万能ではないから間違った意見になることはある部分が、読む人にとっては感性や理性が万能じゃないから間違ったって仕方ないじゃないかという免罪符的に使われる恐れがある様に思えるので、ここで捕捉をします。この文章は人の批判や否定をするときには深く考えても本質をつくことは難しいという事を言いたかった。だからこそ深く考えて批判をするべきだといいたかった。そしてそれでも難しいと言いたかった。深く考えてなく浅い考えで導き出した否定意見を言う人が免罪符的に言うようなセリフではないという事です。

 

 また誹謗中傷と否定とは微妙に違いがあるようなのでこの文章自体が少しおかしくみえるように思えてきたので補足もします。誹謗中傷はあることやないことも含め相手を貶めようとする悪意のある視点。相手を否定するという視点とは違う。悪意のある誹謗中傷をしている人に向けても書いてるが、僕の文章は否定(批判)をしているだけだと思っていても結果的に誹謗中傷の様な考えに陥ってる人に向けて書いていた。浅はかな考えで終わりにせずにしっかり客観や理性を吟味して答えを出すことの重要性を指摘したかったのである。また吟味しても否定(誹謗中傷)に陥る危険性があることを指摘したかったのである。

おすすめされた映画についての感想と主題歌について『夏へのトンネル、さよならの出口』

 

今回は久しぶりに映画の感想について書いてみたいと思います。

 

まずネタバレを防いだぼかしたあらすじを書いて少し自分なりに感想を書いてみる。そしてこの映画に使われていた楽曲についても書いてみたいと思います。

 

『夏へのトンネル、さよならの出口』

 

 ウラシマトンネルーーーこのトンネルに入ったら欲しいものがなんでも手に入る。 ただしそれと引き換えに、、、、

 ある2人の高校生の男女がひょんな事からウラシマトンネルを見つけて2人で欲しい物を探しに協力関係を気づくお話。1人は幸せだったあの頃の為に、もう1人は自分の理想像と現実のギャップを埋めるための理想を、しかしウラシマトンネルには欲しいものと引き換えにしなきゃいけないことがある。そしてウラシマトンネルにはもう一つ言い伝えとは異なる秘密があった。さて2人は欲しいものを見つける事が出来るのか!?ひと夏の出来事と想い(時間)を詰め込んだ青春恋愛映画。

 

 この映画の良さは絵のクオリティもさることながらお話自体も非常に丁寧に作られていると思いました。2人とも心の中に問題を抱えていて、その問題のおかげで(?)2人は心を通わせあう。その場面が丁寧に描かれていたと思うし、その場面を主軸に話を展開されていて比較的わかりやすい映画に感じた。最初に出会う場面のムッとする感じとか、それからハッとする場面。そして今度は照れる場面などや2人で本気で笑い合う場面など、2人のなかで素敵な時間が流れている様に感じられる。2人にしかしらないウラシマトンネルの事や2人で行動を共にする事で見えてくる2人の気質や違いに触発されて2人の感情はさらに盛り上がる感じとか、すごく良かったし2人の世界観に没入出来る人ならこの映画好きだと思う。当初の予定と異なる(?)感じなのか、でもそれも凄く良かった。実際ああいう展開になって葛藤する2人の描写も分かるし、そういう世界線を選んだのも僕にはしっくりきた。この映画は2人の為の映画だと思う、そして2人だけの世界観に没入できればいい映画に感じられると思う。恋する事や愛する事は論理でする事じゃないし、でもだからといって論理的に考えないわけじゃない事、この2つで揺れる感じ人間だなって思うし2人の論理と非論理(感情)で揺れてる感じが振り回されてるというより微笑ましく感じながら観れたいい映画だった。

 

 そしてこの映画に欠かせないのはこの映画に使われている主題歌だと僕は感じます。この映画を知るまでこの主題歌を歌っている『eill』さんの事を存じ上げなかったんですが、この人はすごい才能のあるシンガーソングライターだと思う。女性歌手で凄く好きな歌手もいるけど、そういう人は大抵もう名前が知れ渡った人なんだけど、この歌手に関していうとまだ知名度は高くない。女性歌手で初めて推したいと思える歌手が出てきたのは自分にとって発見(驚き)だったし、まだあまり知名度がない事で通ぶれる自分が嬉しく感じる。男性のtofubeatsさんを知った時の様な衝撃だった。

 この映画には3つの曲が使われていて、特に自分が好きなの『フィナーレ』という曲。タイトル通りエンディング曲に流れる曲なんだけど、映画の中の描写を効果的に歌詞に盛り込み、そしてeillさんのイメージで味付けした感じの詩なんですが、Aメロの出だしも素敵だしBメロの繋ぎ方も非常に良い、ありきたりな言葉しか使ってないけど言葉の繋げ方がすごく洗練されている。多分この曲はヒロイン(女子高校生)目線に描かれた歌詞だと思うんだけどこのヒロインの男性(男子高校生)に対する想いや理想に対する想いが素晴らしく綺麗に歌われている。この曲は純度の高い恋愛ソングにも感じられるし、この歌詞はただ単に好きを全面に押し出した恋愛ソングとも違くて、しっかりと意思を持って相手を思う曲に感じられ非常に好感度が高い。この人の曲一通りYoutubeで聞いてみたけど、苦労人なんでしょうか?理想と現実のギャップに苦しんでいる様な歌詞もあるのだが、弱さに負けてそれを正当化する事もしないし、理想に近づく為の歌詞を紡いでる様に見られこの人は凄いと素直に思える。そして他者(好きな人)に対しては寛容的な視線で紡いでる詩なのに自分にとってはストイックな歌詞を紡いでる様にも思える。素直に応援したいし一気に全国区になってないからこそ紡げる詩なんだと思う。宇多田ヒカルさんみたいな弱さと強さをうちに秘めている女性な感じなんだけど、苦労人特有な弱さとそれに負けない強さが絶妙なバランスで同居している稀有な歌手なんじゃないかと思う。むしろ苦労を跳ね返すだけの強さをしっかりと感じられかっこいいとすら思える。

 

 

 この映画に興味を持たなかった人でもこの人の曲は聴いてみて欲しい。通ぶれるかもしれませんよ。そして曲に興味持ちましたら映画も観てほしいですね。今ならアマゾンプライムで観えますので。そして楽曲と映画の答え合わせも楽しめると思いますよ。

 

 今回は映画『夏へのトンネル、さよならの出口』の感想と主題歌についてのお話でした。

素敵な映画を教えてくれた人ありがとうございました。そして素敵な歌手もありがとうございました。色々な人に少しでも知って欲しくて記事にしてみました。良かったら観て聴いてみてください。

 

 

記憶力について 頭の回転について 

 

 

 比較的自分は記憶力がいいみたいなので、自分なりに記憶を高める方法(?)を書いてみたいと思う。決して目新しいことではないけども、言語化することで気づく事もあるだろうし誰かのためになれるなら書いて良かったと思うからもし良かったら参考にしてくださいね。

 

 記憶力がある人と記憶力が低い人には特徴があると思っていて、記憶の仕方でかなり差が出ると思っています。記憶力が低い人の特徴は物事を覚える時に、その物や事の一面で済ませているように思います。1つの事例で終わらせている感じです。逆に記憶力がある人は物や事について多面的に捉えて、多数の事例を色々な視点から関連させて記憶しているように感じます。そして集めた色々な情報を整理整頓されたタンスにしまっているように思います。単純な事や物については基本的に誰もが自然と多数の事例を自然と集めて記憶を強固にして覚えていると思うのだけど、難しい事柄や新しく入った情報などは関連が低く記憶の定着度が低いように思います。

 

 単純な事や物について1つ事例を言うとりんごを記憶(想起)している時、人はそのりんごに色々なイメージが湧き出ると思うのです。まず形、色、味、食感、りんごの種類、固形、ジュースなどなどを自然と体験から学び自然とりんごについての具体性を記憶に留めていると思うのです。その関連性が豊富に頭の中にあればあるほど記憶の定着度はあがり記憶力は上がっていると思うんです。だから記憶力を上げたいのであれば、色々な角度から視点から物事を見て関連性のネットワークを築き上げる事が記憶を上げる近道なように感じるんです。果物というタンスの中に色々な果物の情報を入れる事でまた記憶の二重ロックと言いましょうか、関連性の度合いが増える事でその果物、あの果物の情報(りんごだけじゃなくバナナも知る事でどちら)も強固されていきます。もっといえば果物カテゴリー用のタンスだけで済まさずに食べ物カテゴリーなどの大きなカテゴリーからも果物をみたりする(例えば肉の味と果物の味の違い思い浮かべる)事によってその違いを識別する事で記憶力も上がると思うのです。あれはどう考えても肉だとか、この食感、この味覚は果物だとかの違いを認識できる事により記憶が強固になっていっている。こういう単純な物なら自然とやっていると思うのだけど難しい事柄などについてや新しい情報、人についての記憶など関連度や定着度が浅いもののついては記憶が定着しないのは当たり前で、情報が少なすぎるのと、関連性がまだ分からないから短期記憶には入れられても長期記憶に保存はできない。だから記憶を定着させたいのであれば,その事柄の情報を色々集めたり訊いたりする事が重要だと思う。そしてそういう色々集めた情報が今度は他の事柄を理解(記憶)する材料にもなるし、その材料が関連性を集めたタンスの引き出しの様な役目をすると思うのです。要するにこれはこういう関連性と似てるとか似てないとかの判断ができるようになる。現実の例えなら、人との接し方で色々経験する事(関連性を集める事)で、その人の声色(容姿)で、その人の語尾や、話している雰囲気で、なんとなく初対面でもある程度判断できるようになる。記憶力を上げたいのであれば一足飛びでは記憶は上がらないと思うけどコツコツ色々な情報を集めて、その集めた情報を孤立した記憶に留めないで関連性のネットワークの中で捉えようと意識する事が重要だと思います。

 

 また記憶力と関連性と頭の回転は密接な影響があると思います。記憶したものをイメージする時に、そのイメージが具体的なイメージで想起できる、色々な角度から想起できる場合、一つの単語でもそこに非常に多くの情報を連想出来るようになるからで、連想から話を膨らませることも出来るからです。要するにマインドマップの様な関連性を瞬時に再現できるから関連性を高めることは記憶力だけじゃなく頭の回転も高めると思います。

 

  

  言われてみたら当たり前に聞こえるかもだけど、単純な事は出来ていても、難しい事については意外と関連性のネットワークの中に捉えきれてなかったりするからそこを意識する事で変わると思います。関連性を意識する時は基本自分の頭で考える事なので、関連度があってないかもしれません。しかしあまり気にしない事がいいです。間違った事も後々、気づいたりするし、気づかなかっても仕方ないですね。人間の理解(記憶)力は完璧じゃないですから。もし気づいたら間違いやすい関連性のタンスにいれて、後の判断の材料にすればいいのです。関連度が完璧にあってないってよりもニアピンとか少し掠ってるってのが普通っぽいので少しずつでも謙虚に修正すればいいと思います。

 

 記憶力と頭の回転について上げたいのであれば関連性を意識するでした。全部読んでくださりありがとうございました。