誹謗中傷について 否定(批判)の先に見える景色

 

 今回は誹謗中傷について書いていきたいと思う。今は情報化・ネット社会になり誰でも気楽に情報を発信できるようになっている。情報がたくさんあふれかえっていることによって良くなった面もあれば、情報に踊らされて本当か嘘か判別できない情報に振り回されている人も多いように思える。感性や理性は決して万能ではないから誰もが少なからず振り回されるのは仕方がないがネット・情報リテラシーは高める努力は必要なんじゃないかと思う。そしてリテラシーを高めても客観を全て把握しきれない事をも理解するべきだと思う。要するに誰もが正しいリテラシーを会得できない事を理解すべきである。

 

 

 昨今っというかネット社会になって誹謗中傷が取り上げられることが多くなった。何か過ち(失敗)を犯した人に対して、誹謗中傷したりする事があったり、嘘か本当か分からない事に踊らされて断定して批判してる人もいるのではないだろうか?また一所懸命頑張っている人にまで批判の矛先を向けている人もいる。誹謗中傷の質というのは千差万別だから全て一括りにして答えられることはできないかもしれない。また誹謗中傷している人にもそれなりの理由があって叩いたり批判しているのかもしれない。しかし相手を否定(批判・誹謗中傷)する先に見える景色をイメージする視点も大事なんじゃないかと思ったのでこの記事を書いてみることにしました。

 

 

 僕たちの感性や理性は決して万能ではない。だから誰もが誹謗中傷(否定・批判)に陥ることはある。客観は全てを知り得ず感性や理性は全てを紐解けない。情報に踊らされてしまうのである。だから誹謗中傷(批判・否定)を全否定する訳じゃなくて誹謗中傷してしまう事によって損なわれる事にフォーカスしてみたい。

 

 

 誹謗中傷する人にも色々なタイプが居るのではないだろうか?相手を貶めたくてする人・羨ましいからする人・取り立てて理由はないがムカつくからする人(現実がうまくいっていないからの腹いせ)・情報を正確に把握できず間違った捉え方に陥ってする人などなどこのタイプに共通する部分は多分に本質を突いた批判ではなく、仕様末節を過大に評価()して批判をする事や物事の本質を突いていないで批判してしまう事だと思う。情報を正確に把握できず間違った捉え方に陥いる事は誰にでもあるからこれに関してはしょうがない部分はあるけど、悪意を持ってしてしまう人たちは自分の問題点を捉える視点が著しく低くなっていると感じる。いやむしろ自分の問題点を無かった事にして相手の問題点に着目してしまっているようにすら見える。その自分の問題点とは何かと言うと、そういう振る舞い(誹謗中傷)をする事で自分自身の心の眼(真偽判定)が下落してる事に無頓着になっていると思うのである。ネットの中は顔が見えないだからインスタントになんでも投稿できてしまう。時には間違った事はいたり、他人に迷惑をかける事もする事もあるだろうけど、顔が見えないからといって自分自身の心は変化をしないわけではないでは無いじゃないか。悪意を持った人たちは自分の心の変化に無頓着で相手を貶めたりする事で自分が高みにいると錯覚していると思われるけど、高みにいる様で本当は自分自身も下落してしまっていると思う。ただそこに視点が向かないから強がっている様にも思える。こういうタイプの人は自分自身で自分自身を偽っているタイプの人が多いのでは無いだろうか?このタイプの人でもし自覚がある人なら多分この記事を読んでこう思うと感じる。『そんなことおもってないし』こういう自分を擁護する発言を自分自身に吐くんじゃないだろうか?しかしこれはそのセリフが重要ではなくその言った時の心の乗り方に後ろめたさや口をすぼめた自己弁護的な言い種になっていないだろうか?そこを気付けるならばそう言う思考に陥らない方がいいと思うのである。ネットの中だからといって心の変化もチャラになる事はできない。もしそういう誹謗中傷を続けてしまうと、現実の人と人とのふれあいの場面でも顔を出すようになってしまう。そしてそこに気づけているのにさらに自分自身を偽ると本当に周りが嫌煙してしまう人になってしまう。また誹謗中傷を普通にやってしまうと、自分自身を自分が肯定できる視点も欠落するのである。その視点というのはもし誠実な他人がいてもその輪に入っていけないのである。付き合う人は人の批判をする人で固められやすくなってしまうのである。そうすると抜け出せなくなってしまう。問題点は思いの外多いと思うのである。枝葉末節の様なところに眼を向けるのではなく本当に批判が必要なところに批判や否定をするべきでそこを向けるためには誹謗中傷に力を注ぐべきではないと思うのである。そして物事の本質的問題点を考えたり指摘する思考は意外と面白いと思われるのである。だから力の入れどころをそっちの方にシフトしてしまえばいいのではないだろうか?誹謗中傷して面白いと感じる人もいるけども、その面白さは自己完結型でまた他人を幸せにはしない。そして長い目で見たらあなた自体も幸せにしないと思われる。だから本質的問題点に着目するべきである。

 

 否定(誹謗中傷)の先に見える景色を書いてみました。今の時代はまだネットができて日が浅い。ネット揺籃期(ようらんき・物事の発展する初期段階)の様な時代に生きているんじゃないかと思う。だから情報も玉石混交だし、ネットリテラシーもまだまだ誰もが稚拙なんじゃないかと思われる。情報リテラシーを鍛える事は大切だけど完璧になる事はできないで踊らされる事もあるだろう、だから誹謗中傷に陥ることもあるかも知れないし、誹謗中傷がピタっと止むことはないと思われる。ただ僕が言いたいのは誹謗中傷それ自体より、誹謗中傷したあなた自体の事に視点を向ける事が大切なんじゃないかと思っています。読む人にとっては耳が痛い事も書いてあるかも知れないが、良薬は口に苦しと言いますし、優しい表現だけで人はついて来ないと思うしその中に少し厳しさを織り交ぜてみました。

おすすめされた映画についての感想と主題歌について『夏へのトンネル、さよならの出口』

 

今回は久しぶりに映画の感想について書いてみたいと思います。

 

まずネタバレを防いだぼかしたあらすじを書いて少し自分なりに感想を書いてみる。そしてこの映画に使われていた楽曲についても書いてみたいと思います。

 

『夏へのトンネル、さよならの出口』

 

 ウラシマトンネルーーーこのトンネルに入ったら欲しいものがなんでも手に入る。 ただしそれと引き換えに、、、、

 ある2人の高校生の男女がひょんな事からウラシマトンネルを見つけて2人で欲しい物を探しに協力関係を気づくお話。1人は幸せだったあの頃の為に、もう1人は自分の理想像と現実のギャップを埋めるための理想を、しかしウラシマトンネルには欲しいものと引き換えにしなきゃいけないことがある。そしてウラシマトンネルにはもう一つ言い伝えとは異なる秘密があった。さて2人は欲しいものを見つける事が出来るのか!?ひと夏の出来事と想い(時間)を詰め込んだ青春恋愛映画。

 

 この映画の良さは絵のクオリティもさることながらお話自体も非常に丁寧に作られていると思いました。2人とも心の中に問題を抱えていて、その問題のおかげで(?)2人は心を通わせあう。その場面が丁寧に描かれていたと思うし、その場面を主軸に話を展開されていて比較的わかりやすい映画に感じた。最初に出会う場面のムッとする感じとか、それからハッとする場面。そして今度は照れる場面などや2人で本気で笑い合う場面など、2人のなかで素敵な時間が流れている様に感じられる。2人にしかしらないウラシマトンネルの事や2人で行動を共にする事で見えてくる2人の気質や違いに触発されて2人の感情はさらに盛り上がる感じとか、すごく良かったし2人の世界観に没入出来る人ならこの映画好きだと思う。当初の予定と異なる(?)感じなのか、でもそれも凄く良かった。実際ああいう展開になって葛藤する2人の描写も分かるし、そういう世界線を選んだのも僕にはしっくりきた。この映画は2人の為の映画だと思う、そして2人だけの世界観に没入できればいい映画に感じられると思う。恋する事や愛する事は論理でする事じゃないし、でもだからといって論理的に考えないわけじゃない事、この2つで揺れる感じ人間だなって思うし2人の論理と非論理(感情)で揺れてる感じが振り回されてるというより微笑ましく感じながら観れたいい映画だった。

 

 そしてこの映画に欠かせないのはこの映画に使われている主題歌だと僕は感じます。この映画を知るまでこの主題歌を歌っている『eill』さんの事を存じ上げなかったんですが、この人はすごい才能のあるシンガーソングライターだと思う。女性歌手で凄く好きな歌手もいるけど、そういう人は大抵もう名前が知れ渡った人なんだけど、この歌手に関していうとまだ知名度は高くない。女性歌手で初めて推したいと思える歌手が出てきたのは自分にとって発見(驚き)だったし、まだあまり知名度がない事で通ぶれる自分が嬉しく感じる。男性のtofubeatsさんを知った時の様な衝撃だった。

 この映画には3つの曲が使われていて、特に自分が好きなの『フィナーレ』という曲。タイトル通りエンディング曲に流れる曲なんだけど、映画の中の描写を効果的に歌詞に盛り込み、そしてeillさんのイメージで味付けした感じの詩なんですが、Aメロの出だしも素敵だしBメロの繋ぎ方も非常に良い、ありきたりな言葉しか使ってないけど言葉の繋げ方がすごく洗練されている。多分この曲はヒロイン(女子高校生)目線に描かれた歌詞だと思うんだけどこのヒロインの男性(男子高校生)に対する想いや理想に対する想いが素晴らしく綺麗に歌われている。この曲は純度の高い恋愛ソングにも感じられるし、この歌詞はただ単に好きを全面に押し出した恋愛ソングとも違くて、しっかりと意思を持って相手を思う曲に感じられ非常に好感度が高い。この人の曲一通りYoutubeで聞いてみたけど、苦労人なんでしょうか?理想と現実のギャップに苦しんでいる様な歌詞もあるのだが、弱さに負けてそれを正当化する事もしないし、理想に近づく為の歌詞を紡いでる様に見られこの人は凄いと素直に思える。そして他者(好きな人)に対しては寛容的な視線で紡いでる詩なのに自分にとってはストイックな歌詞を紡いでる様にも思える。素直に応援したいし一気に全国区になってないからこそ紡げる詩なんだと思う。宇多田ヒカルさんみたいな弱さと強さをうちに秘めている女性な感じなんだけど、苦労人特有な弱さとそれに負けない強さが絶妙なバランスで同居している稀有な歌手なんじゃないかと思う。むしろ苦労を跳ね返すだけの強さをしっかりと感じられかっこいいとすら思える。

 

 

 この映画に興味を持たなかった人でもこの人の曲は聴いてみて欲しい。通ぶれるかもしれませんよ。そして曲に興味持ちましたら映画も観てほしいですね。今ならアマゾンプライムで観えますので。そして楽曲と映画の答え合わせも楽しめると思いますよ。

 

 今回は映画『夏へのトンネル、さよならの出口』の感想と主題歌についてのお話でした。

素敵な映画を教えてくれた人ありがとうございました。そして素敵な歌手もありがとうございました。色々な人に少しでも知って欲しくて記事にしてみました。良かったら観て聴いてみてください。

 

 

記憶力について 頭の回転について 

 

 

 比較的自分は記憶力がいいみたいなので、自分なりに記憶を高める方法(?)を書いてみたいと思う。決して目新しいことではないけども、言語化することで気づく事もあるだろうし誰かのためになれるなら書いて良かったと思うからもし良かったら参考にしてくださいね。

 

 記憶力がある人と記憶力が低い人には特徴があると思っていて、記憶の仕方でかなり差が出ると思っています。記憶力が低い人の特徴は物事を覚える時に、その物や事の一面で済ませているように思います。1つの事例で終わらせている感じです。逆に記憶力がある人は物や事について多面的に捉えて、多数の事例を色々な視点から関連させて記憶しているように感じます。そして集めた色々な情報を整理整頓されたタンスにしまっているように思います。単純な事や物については基本的に誰もが自然と多数の事例を自然と集めて記憶を強固にして覚えていると思うのだけど、難しい事柄や新しく入った情報などは関連が低く記憶の定着度が低いように思います。

 

 単純な事や物について1つ事例を言うとりんごを記憶(想起)している時、人はそのりんごに色々なイメージが湧き出ると思うのです。まず形、色、味、食感、りんごの種類、固形、ジュースなどなどを自然と体験から学び自然とりんごについての具体性を記憶に留めていると思うのです。その関連性が豊富に頭の中にあればあるほど記憶の定着度はあがり記憶力は上がっていると思うんです。だから記憶力を上げたいのであれば、色々な角度から視点から物事を見て関連性のネットワークを築き上げる事が記憶を上げる近道なように感じるんです。果物というタンスの中に色々な果物の情報を入れる事でまた記憶の二重ロックと言いましょうか、関連性の度合いが増える事でその果物、あの果物の情報(りんごだけじゃなくバナナも知る事でどちら)も強固されていきます。もっといえば果物カテゴリー用のタンスだけで済まさずに食べ物カテゴリーなどの大きなカテゴリーからも果物をみたりする(例えば肉の味と果物の味の違い思い浮かべる)事によってその違いを識別する事で記憶力も上がると思うのです。あれはどう考えても肉だとか、この食感、この味覚は果物だとかの違いを認識できる事により記憶が強固になっていっている。こういう単純な物なら自然とやっていると思うのだけど難しい事柄などについてや新しい情報、人についての記憶など関連度や定着度が浅いもののついては記憶が定着しないのは当たり前で、情報が少なすぎるのと、関連性がまだ分からないから短期記憶には入れられても長期記憶に保存はできない。だから記憶を定着させたいのであれば,その事柄の情報を色々集めたり訊いたりする事が重要だと思う。そしてそういう色々集めた情報が今度は他の事柄を理解(記憶)する材料にもなるし、その材料が関連性を集めたタンスの引き出しの様な役目をすると思うのです。要するにこれはこういう関連性と似てるとか似てないとかの判断ができるようになる。現実の例えなら、人との接し方で色々経験する事(関連性を集める事)で、その人の声色(容姿)で、その人の語尾や、話している雰囲気で、なんとなく初対面でもある程度判断できるようになる。記憶力を上げたいのであれば一足飛びでは記憶は上がらないと思うけどコツコツ色々な情報を集めて、その集めた情報を孤立した記憶に留めないで関連性のネットワークの中で捉えようと意識する事が重要だと思います。

 

 また記憶力と関連性と頭の回転は密接な影響があると思います。記憶したものをイメージする時に、そのイメージが具体的なイメージで想起できる、色々な角度から想起できる場合、一つの単語でもそこに非常に多くの情報を連想出来るようになるからで、連想から話を膨らませることも出来るからです。要するにマインドマップの様な関連性を瞬時に再現できるから関連性を高めることは記憶力だけじゃなく頭の回転も高めると思います。

 

  

  言われてみたら当たり前に聞こえるかもだけど、単純な事は出来ていても、難しい事については意外と関連性のネットワークの中に捉えきれてなかったりするからそこを意識する事で変わると思います。関連性を意識する時は基本自分の頭で考える事なので、関連度があってないかもしれません。しかしあまり気にしない事がいいです。間違った事も後々、気づいたりするし、気づかなかっても仕方ないですね。人間の理解(記憶)力は完璧じゃないですから。もし気づいたら間違いやすい関連性のタンスにいれて、後の判断の材料にすればいいのです。関連度が完璧にあってないってよりもニアピンとか少し掠ってるってのが普通っぽいので少しずつでも謙虚に修正すればいいと思います。

 

 記憶力と頭の回転について上げたいのであれば関連性を意識するでした。全部読んでくださりありがとうございました。

極右(右翼)と極左(左翼)についての事・遍歴

 

今現在の人間の思考様式は基本的に科学的な見方だったり現実的な視点から物事を読み解き世界について考えている人が多い様に思える。古代の時代は霊感的な力を持つ人が社会を統治していたらしい。人間の思考様式に目に見えない力を駆使して現実の出来事について回答を与えてた様である。今でもそういう霊的な力を駆使して社会について考えを述べたり、行く末を占うような事をやっている人もいる。例えば未開の部族だと呪術により降霊させて未来だったり、天候を占ったりしてるみたいだ。また神の代弁者の様に霊的な存在から言葉を授かりそれを伝える役目の人もいるらしい。また占いの様にある程度社会から認知されているものもある。しかし悲しいかな、今の時代は科学的に捉える視点だったり現実的な所から現実的に紐解く視点の方に人間の理性がシフトしてしまった。今の時代は科学の時代、現実重視の時代なんだと思われる。人間の理性が発達する過程の中で科学的な見解が深まり、自然を理性で把握することが深まり、魔術的(霊感的)な物が廃れていったんだと思われる。それに伴い物事を現実的な視点から解く思考様式が普通になっていった様に感じる。昔の様に霊的な力を持つ人は少なくなり、現実的な視点から現実的に感じ取った、現実的な感覚を頼りに世界を紐解いている様に思える。今の文明的に極右(古代復古・霊的・スピリチュアル的・天皇万歳)の様な社会に戻ることは来ないと思う(来たとしても当分先?)。そういう人達がいる事は居るだろうが、その人たちはこの時代の社会を動かし得る人たちではなく、裏で支える人たちだったり、新興宗教の様ななんだかいかがわしさを感じる神(?)のあやつり人形の様な一つのアイコンぐらいにしか力を持たない様に思える。僕たちの思考様式が理性的(現実的)に納得感(エビデンス)を持たないと受け入れない人が増えてしまったからである。

 

 極左(左翼思想)についても少し言及してみたいと思う。左翼思想は社会主義・共産主義の思想である。理性的に理論的に社会を改変しようとした革命思想(暴力革命)である。こちらは極右の様な霊的な直感から物事を論ずるというのではなく、社会の構造を紐解き、その矛盾点や不平等を是正する様な理論構築を得て実戦により改築していく世界観である。しかしこれも失敗した。物事の理解が浅かった当時の僕は理想的な世界観(不平等が改善される世界観)に魅了されたけど、実際は理想とかけ離れた世界だと分かってきて左翼思想はまだまだ夢の夢だと思うに至った。

 

 極左思想の根幹的にダメな理由は理性を過信しすぎていた事だと個人的に思う。頭の中で理論的に構築した理論が現実の世界に矛盾なく受け入れることが出来ない事を無理矢理にでも理性で押し切ってしまっている様に思える。頭がいい人は理性を使い現実的な問題を観念的(イメージ上ではものの見事に)に対処(問題のメスの入れどころを分かる)はできる様になるけども、いざ実践すると人々の思考や行動様式と乖離(かけ離れてる)している事が明るみに出ることが露呈された。人々には色々な考え方があり、もともと人間自体が理性的に動いて生活を営んでいるわけでない事を、分かってきたのである。それは頭のいい人すらも理性的に動いているわけじゃないことなのだと僕は思うのだけど、革命家は自分の理性をフルに使い、その社会を到来する様に予言してしまった。理性的に考えれば分かるという様にである。

 

 人間の思考や行動は常に理性を使い考えている(解決)しているわけではなく、社会に放り出された時から、自分でああでもないこうでもないと考えたりするけど答えが常に出せるわけではない。周りの常識に染まってみたり、反発してみたり少しずつ自分なりの答えを構築していくんじゃないだろうか?そういう試行錯誤を経て少しずつ理性を強化していると思うのである。そして色々な思考や行動を経て習慣化された動きに落ち着くんじゃないだろうか?むしろ思考は不完全なまま周りの常識や慣習などに一応乗っかりそこから習慣化された振る舞い方をしている様にも思える。その振る舞いを客観的にみてほしい。自分の習慣化された振る舞いは理性的な振る舞い方だと言えるか?こうした方が本当は良いのにしなかったり、できなかったりするのではないだろうか?所々に理性的に考えればおかしな事もやっているし理性で全てを片付けられる動きをしていないんじゃないだろうか?理性的に考える事が必要ないとは言わないし、自分の習慣化された悪習などを改善しようと理性を使って自分に納得する様に答えを出す事も重要だけど、改善できたからと言ってでは常に理性的に対処ができるわけではないではないか?ましてや自分の頭の中で解決できた問題が、じゃあ他人の頭でも同じ様に伝えたら同じ様に解決できるというのはできないパターンもある。革命家は独裁的に一つの思想を強弁して従わせようとしても上手くいかないのは理性過信からきていると思われる。実際理論武装して色々な角度から色々な人たちを考察して見せたけど、その人々の動きをうまい具合に盛り立てて改善することは出来なかった。理論(最初から問題があった)と実践(科学的なというけど科学の様に行動を予測できていない・出来るはずがない)に乖離がある事によって平等になるどころか人々の疑心暗鬼をうみ失敗に終わったのである。僕たち習慣化された振る舞いを正せと言われてもものすごいストレスがあると思うのである。1人の思想家に付き従い、最初はカリスマ性があったけども、現実は平等どころが経済が痩せぼそり蓋を開けてみたら全員貧民で一部の特権階級のみが甘い蜜を吸う様な理想的な社会とかけ離れてしまったのである。

 

 左翼思想のような極端な革命によって社会を転覆させる方法は危険であり、今までの行動規範がガラリと変えることはものすごくストレスを与えることであり、ましてや行動規範が変わって新しい規範になって絶対成功するイメージが社会全体に持てない様ならば(実際持てないし)、常にストレスを感じながら従わないといけなくなる。未来の事は誰にも分からない事であり、少数の人たちだけで考えた新しい規範が完全無欠な規範な訳がなく、失敗するべくして失敗したんだと思われる。左翼思想の道のりは革命によって成し遂げるのではなく、もしそういう世界を目指すのならば穏健に平和的に諸条件が整い、精神レベルが上がって段階を踏んで成し遂げるべきものなんじゃないかと思う。その時はオリジナルの思想を踏襲するのではなく、理性的(現実的)に把握できないもの以外信じない思想(現実的理性過信)で済ますのでもいけない様な感じがする。右翼的な(保守的な世界観・今まで培ってきた)世界観(宗教的な事柄)も大切にして、双方を吟味しつつ穏健に少しずつ改善しながら目指すべきだと思う。

 

 左翼思想は現実重視型の世界観で理性的に把握できない事、納得できない事は排除してしまった。ある人は『宗教は民衆のアヘン(麻薬)である』といった。それがスローガンの様になってしまい、左翼思想の中では宗教思想は滅多滅多にされてしまった。昔の自分にとってはものすごくスカッとする文章であった。しかしそれは僕が宗教的な儀式を鼻から信じて居なかったからであり、僕自身も理性を過信していたからである。思想書や古代の人の思考を辿っていくとけして現実的な思考(理性)だけで世界を見ている訳じゃないことが分かってくる。科学的に生きている今の人たちにとっては胡散臭く感じるけど、科学的な見方(客観的に記述をする)を極端に推し進めると物質の運動であり、それ以外が働いてる力がないと踏むと、人間自体も物質でありじゃあ考えている様で動かされている決定的な動きにしかならないと何ともつまらない世界観に変わってしまう(心ではなく脳という物質の動きに還元する)。何もかも客観的に捉えようと、それを記述しようとするとそっちの方向性に言ってしまうのじゃないだろうか?しかし量子力学の様な原子よりミクロな世界の粒子はどうやら意思を持って動いているらしい。二重スリット実験などを見てみたら分かると思う。物質はエネルギーの現象化(物質化)であり(?)量子力学の世界だと理論上は自由が与えられる様になると思うし(物質の背後で自由に動ける場が与えられると思われる?)、眼に見えない世界に自由に動ける場がある事で、眼に見えない力が働く事も考えれる様になるのではないだろうか?もし現実が物理法則の下でしか動きを解明できないのであれば、目に見えない力も消え失せる。なぜなら物理法則だけならば、霊的な力を入る余地がない、入ってたとしても分からない。分からないなら物理法則の下に捉える事ですますのではないだろうか?しかし量子力学の世界観は科学とスピリチュアルの共存を可能にする理論な様に感じる。この世界観を説明するのは正直難しいので、実際に触れてみてほしい。また凄くわかりやすいところで言うとタロット占いなどがそれにあたる様に思える。古典的科学の世界観では胡散臭くて信頼できない様なタロットだけど実際にやってみたら当たったりするんじゃ無いだろうか?この仕組みを古典的な科学観では解明はできないけども、量子力学的な世界観ならばそれがある事も許容(絶対や確実などとは言わないが)できる様になる。科学的な世界観に生きている人にとっては俄には信じられないかもしれないけども量子力学的な世界観に触れてみるとある程度そういう物を許容しても問題なく共存できると僕は思う。

 

 宗教は民衆のアヘン(麻薬)であるについてもう一度考えてみたいと思う。実際に僕は日本人であり現実重視な世界観で生きてきたタイプ(思想上では無宗教)だった。でも親は宗教をしていて、時々会合に足を運んだりもした。でも僕はその世界観をどうしても受け入れられなかったのである。全ては科学的(現実的)に答えが出ると思って居たからである。今思うと青いと思うのだけど宗教的な地獄や悪霊的な囁きなどどうしても信用できず人々を騙しているインチキな事だと思って居たのである。現実的な通俗的な世界観と反する創世記に書かれている情報も僕からしてみたら気に食わないのである。だから宗教は民衆のアヘンであるは物凄く僕の心にクリティカルヒットをしたのである。そして左翼的な現実的に捉える視点も現実の中から問題をあぶり出し、現実的に解答や解決をはかる世界観に魅了されたのである。しかし現実である。現実は理性的(理論的)に捉えてそれが社会の問題を解決できるかと言うと出来なかったのである。僕の中で革命家のイメージは二転三転し、自分自身についても考えざるおえなくなった。そして理性過信だと思う様に変わっていったのである。実際に僕自身も理性を過信していたと思うし、科学というなの客観的な意見じゃないとテコでも動かないそんな頑固さを抱いていたんだと今になっては思う。しかし人々は常に理性的に動いている訳じゃなく(習慣化で動いている)、それは僕自身もそうであり(科学全般も全て理解するだけの勉強をしてないし、厳密にできないし、納得する様に伝える事も無理がある)、そうなのにも関わらず理性的に解決しようと思っても無理な事を悟ったのである。要するに丸くなったのである。

 

 また宗教的に全てを許容(悪霊や地獄の提示は必要ないと思う・現実的な思考が壊れるから)出来ないけども、宗教の中には非合理の中に合理的な思考がある様に思える。左翼思想は理性過多で納得できないものは受け入れない思考だけど、理性は誰もが納得する意見を産み落とせないだけではなく、革命家の書いた書物自体があまりにも難解で理性的に納得感を得られないで葬られてしまった感があると思う。周りの人が理解して着いていきたいと思えない様な文章だった。革命思想には人々の信頼があって世界が成り立つ事が抜けているのであり、人々が理論で動くと踏んだ理性過信であり、独裁政治になり、全体主義(1人1人はみんな(社会)の為にがあってもみんな(社会)が1人1人の(自由な)為にはなかった)みたいな居心地が非常に悪い世界観になってしまった。社会のために働くけど、1人1人の人間性の発露は統制されるみたいな、理想と現実のあまりにもの食い違いである。それに代わって宗教には神への信頼(信仰)によってなりたつ世界観で考えの違いが人々にあっても神という信仰に支えられて共同体を維持できる利点がある。それは現実的な視点だけしか見えない人にとっては意味をなさないけども、実際に神を信じて共同体を維持している人々にとっては意味があるし安心感にも繋がる。そして非合理の中の合理的な思考は神を信じる時に神をイメージする思考である。科学的な視点で見ると何の意味があるかと思われるけども、物事は理性だけで動いている訳ではないのである。感じる事そういう事からでも学んでいるので無いだろうか?神を信じる時に色々とイメージを膨らませる事によりそのイメージに性格を近づかせているのでは無いだろうか?大きなスポンジの先っちょから水を染みわたる様に心を少しずつ少しずつ変容させていると思うのである。過去の過ちなどを思い浮かべてそれを懺悔すれば謙虚な人格が潜在的に産み落とされるのじゃ無いだろうか?誰かのために祈る事により、相手を思う気持ちが育むのでは無いだろうか?そして相手に逢った時に深く相手を思った感情を伝える事ができるのじゃ無いだろうか?祈りは意味がないという人もいるが、上記で言っている様に現実的にも効果があると思うのである。科学主義はその振る舞いの非現実的な視点だけで判断して非現実的だから意味がないと断言していると感じる。非合理的な事だから答えも非合理的にしかならないと思う感じである。しかし非合理的な中に合理的な思考が隠されているのではないだろうか?左翼の様な極端な理性信仰(合理的じゃ無い物を否定)は行き過ぎであり、宗教的な儀式の中にも肯定してあげたほうがいい部分はあると思う訳である。

 

 右翼的な世界観は今まで培ってきた世界を土台にした保守的な政策を指し、逆に左翼は今までの価値観を転倒させる世界観であると解釈している。若い時は何でそうしないといけないのか分からないのにそうしないといけない事が多々ある。だから保守的な世界観よりも革新的なものにかぶれることがあったけども、年齢を重ねるうちに例え非合理的な行いに見えていても実際には合理的な意味合いを持つ事もある事を知る事で僕自身は右翼的な立ち位置に落ち着くに至った。だからと言って保守一辺倒かと言ったらそうではなく、時代とともに社会の制約や枠組みも変わる訳で常識も変わっていく訳でその時々に合わせ考え方を改めたり修正もするべきである。ただ難しい場面もあり例えば日本人は輪を大切にする文化がある。学校の中で校則なるものがある。髪の毛の長さはこのぐらいとか,髪を染めていけないとかである。明確な理由はなく校則だからという訳で従わなきゃいけない。多分にこの校則の意味合いをメタ認知的に解釈すると若いうちに色気を出すと変な人に言い寄られるからそれを守る為に作られたものの様に感じる。確かにそういう視点で見ればそういう風に捉えれるし実際にそうなんじゃないかと思えないだろうか?しかし校則なるものも儀礼的なものもなぜそうしなきゃいけないのかハッキリと分からないまま、そう従わさせるのはやはり判然としないしモヤモヤしてしまう様に感じる。ここで重要なのはやはり自分の頭で考えるという事何ではないだろうか?特に従わせる側がちゃんと考えないといけない様に感じる。実際今の現状は若いうちに色気をだすと叩かれてしまったり、人を容姿で判断させてしまう部分はまだまだ根強く残っている(昔はもっと酷かった)。しかし人々の意識が変わればこういう校則なるものも改められる様に思える。だからこういう過渡期な問題と言いましょうかどっちもある一定の理由があるものについてどちらを支持するかはその時々(時代)によって異なると思うし、その人の(現状の人々の)精神レベルによっても答えの出し方を変えて伝えると思う。この様に人々が考える事により、もっと言えば体での納得を得るような考えに至ることにより、常識や慣習なるものも少しずつ修正なり改変が行って来ると思うのでまずは考える、情報を得る事が重要なんではないだろうか?個人的には相手を守るという視点の上で校則側に立つけども(常にや絶対な視点じゃない)、全ての学校が全て同じ校則な訳ではないし、最終的にはその人の自己責任でやりましょうですね。

 

 今回の文章は書いてくうちに肥大化していって長文になってしまった。本当はもっともっと書きたかったんだけど、これ以上書くと長すぎるのでここで打ち切ります。よかったら全部読んでください。

 

 

社会の問題について自分なりに思う事

 

 

人口が肥大化して社会的に階層がある場合一国のトップが全てを包み込む発言は出来ない。そして一人一人が問題意識をもって社会を見ないと結局は問題は解決できない事が多い。人口が肥大化した国、色々な階層がいる社会の中では階層間(組織・民族・年齢・階級・etc)の間でいろいろな問題が浮上する。あっちをたてばこっちがたたず、こっちがたてばあっちがたたずである。その階層が上から下へマトリョシカの様に織りなしている。一国のトップが全てを包み込む発言ができないのもジレンマが幾重にも重なっているからだと思う。トップができるのは全体を見渡して1番いいと思う着地点を見つけ出すことなんじゃないかと思う。しかし1番いいと思う着地点の出し方(政策の場合)は総理によって異なる。ある人は経済の発展を重んじたり、労働の改正など福利厚生の方に比重を置く人もいる。またブータンの様に幸福指数で社会システムを考えたり、社会主義の様に皆平等になるにはどうするかなど着地点の出し方は異なる。幸せの感じ方は人それぞれだし、国民の票で選ばれる制度だから全ての人が納得してトップについて行きたいとも思えない様な構造にもなっている。ただだからと言ってトップを否認(是認)するだけで国民が社会の問題に意識を向けないのは、結局は社会システムが良い方に進む度合いは歩みがかなり遅くなると感じる。

 

 トップが1番いいと思う着地点は社会の問題(ジレンマ)の中でもその中の最善の策を講じる事も重要だと思う。ジェネラリストの様に広範囲に知識を持ち視野が広い人が適役だと思われるけども、トップだって人間で全てを把握するだけの知識を持ってはいない。補佐する周りの人たちの知恵も大切であると感じる。今の肥大化した人口や多彩な階層の形態的にジレンマから逃れることはできずトップは最善策を講じて(最善策かの判断は難しいけど)もどこかで光ある所に影(どこかを拾い上げどこかを捨てないといけない)が生まれてしまう。それは逃れることはできない。だから誰にとっても幸せになることは無理だと思われる。ただトップは自分の政策(マニフェスト)に責任を持ちブレずに最善策だと思う事を施すことが結果的に最善策なんじゃ無いかと思う(人によっては受け付けない人もいるだろうが・政策が気に食わないとかである)。社会の問題はトップダウン式(上意下達・上から下に命令する様な)だけで解決する様な生やさしい問題ではなく、ボトムアップ(下から上に報告する様な)双方向のやり取りがないと、どんなにトップが素晴らしくても問題は解決しないと思われる(仕組みが改善しても新しいことには問題が付き物で持たざる者が皺寄せ的にキツいままだったりする。例えば派遣社員など)。社会の階層の中で色々な問題がある。全てを把握するのは難しく、ボトムアップで拾い上げられた情報がすごく大事になってくると感じる。だから国民全体が自分が感じる不満点や社会の問題に意識を持たないと問題は葬られてしまう。学校や組織のなかでイジメが起こる構図を思い出して見て欲しい。イジメが起きても周りが指摘できないでいると問題は葬られたままである。見てる人も同罪の様な過激な考えは持たないけども、問題は放置されたままで済まされてしまうのじゃ無いだろうか?少なからず誰もがイジメに関しても思うところあるし、社会の問題についても苦虫を噛み殺すような気持ちを抱いているのじゃ無いだろうか?だから一般市民の様な人たちの知恵がすごく重要になってくると思われるのである。むしろ持たざる者の立ちの心で感じた、もっと言えば身体で感じた痛みみたいなものを意見に出す事も重要なんじゃ無いか?政治形態的にも社会的な考え的にも持つものが強い様な構図が出来上がっており、その路線で政策を推し進めていると個人的には受ける。今少し変わってきてる事とは持つもの(金・名誉・地位・階級)という強固の価値観が信頼に置き換わってきている部分もあるから全体的には少しずつ良くはなっているだろうと思うけども、社会的な考えはまだまだ保守的な(地位や立場になびく・または日和見主義だったり付和雷同してしまう)人も多い。ただ今は情報化社会なので自分の頭で調べたり考えたり情報を精査している人もかなりの数増えているんじゃ無いだろうか?だから少しずつは良くはなっていると思う。

 

 そして今の時代は風の時代と言われているらしい。今までが土の時代で価値観や仕組みなどや常識などが横ばいで変わらない時代だったけど、風の時代に入ったから今までの価値観や仕組み、常識などが何度も改められたりまたはブラッシュアップする様な時代になっているみたいだ。価値観の多様化も起こっていてこれが良いからそれの反対が悪いみたいな考えも解体している様に思う。多様性を受け入れる時代に変わっていっている。情報化社会でいろいろな事が明るみになったからだと思われる。それだけ人間の精神構造が良い意味でも悪い意味(ネット・情報リテラシーがない人の場合)でも変わってきてる時代なんだと思う。

 

 色々な階層(組織・民族・年齢・階級)でジレンマがあるならそこのなかで問題意識を持ちその階層の中だけで考えるだけで済まさずに社会の中でどうしたら最善かを考えれる人は考えた方がいいように感じる。そしてボトムアップできる様な意見を聞き入れる様な社会には少しずつなってはきているからそれを継続発展する事も大切なんじゃ無いだろうか?トップだけではなく都道府県知事また地方議員など全体が社会の問題(ジレンマ)は自分たちの問題だと受け取り、市民もボトムアップ的に報告するなり、報告しないまでも自分の頭で考えた方がいいと思う。そうしないと変わるものも変わらないと思うし、ジレンマの放置や持たざる者が皺寄せのまま膠着状態から抜け出せないままだと思う。

 

 

 

 

目学問(本から得られた知識)に傾斜すると いつのまにか論理的な捉え方に絡み取られてしまう事 

 

 目学問に囚われすぎると、その論理的な捉え方の中でクルクル回ってしまう。そこから抜け出せなくなる。

 

 自分の思う時の気持ちを言語化と学術的な世界の時の思考法の類似点と相違点(導入編)

 

 自分の思う気持ちを言語化するとき一旦冷静になってその気持ちを分析し出す。その時の感情を理性で吟味し的確な言葉に変換して論理立てて文章化する。言語化すると満足するし、言語化したらそのように感じるように思えるけども、その時の感情をもっとメタレベルまたは本当の気持ちを再度点検し的確な感情に差し替えて捉えてなきゃいけなかったパターンもあるのじゃないだろうか?その時の感情を、あの時に思ったまま(言語化した当時)の感情で留めているパターンの状態は論理的に定まってしまって膠着している(あまり動きがない)状態に近いと思う。学問の世界や倫理の世界でも論理が膠着してしまいそこの論理で行ったり来たりしてしまう状態に陥る事が多々ある。

 

 何かを学ぶ時もその概念を再現(イメージや実験などを)してそこの法則なり理論理屈をを学んでいくと思う。概念が理解できないと最初は類推や理論理屈を手がかりにして概念と理論を往復運動()してその概念の意味を感覚的・論理的(段階的・体系的)に理解していくと思う。難しい概念だったり抽象度が高い概念の場合、理解するのに一筋縄ではいかない。ましてや実験だったり検証だったりが必要な場合そこに立ち会えないと、地に足をつけた理解に到達できない事もある。そして今の勉強と呼ばれているものはそれにあたるのじゃないかと思われる。特に小学校〜高校までで習う本から得られる情報などがそうである。だから耳学問(耳で聞きかじる知識)だったり目学問(本から得られる知識)だったりする。それはある意味では仕方のない事で設備的にもお金的にも物理的(時空間的)にも立ち会えないわけだからである。耳や目学問は根底として先生が喋ったことや本に書かれている情報(概念・法則の仕組み(原理)・グラフやデータ)を一旦受け入れてそこを土台に理論を展開していく。情報の正確性や信憑性を高めるためにグラフやデータを用いたり類推によって情報の意味を理解させている。直接的に感じる事から生まれる生の感情というよりは、まず答えありきでその答えがこれこれこう言う理屈で動いてますよ的な捉えで終わる事が多い。要するに自分で感じ取る事よりも、その科目を記述したその人の思考をなぞる事で擬似的に感じ取り済ます事が目学問には多いと思われる。もちろん記述する人はそれ相応な実験なり検証を経て客観的にある程度納得するプロセスを経て教科書に載せていると思われるけど、絶対的な正しさ(客観性を全て)を考慮に入れて捉えきれていないのじゃないだろうか?だから目学問の世界に留まる限り論理的な展開は論理(本の内容)の中で閉じてしまう。要するに目学問の論理の世界に足を踏み入れるとその論理の中で戯れてそこで膠着してしまい、そこの中でうまく辻褄があうような事ならば通用するし答えを出せるけども、例外などや、なんとなくムズムズする様な違和感などを感じてもうまく対処ができなくなる恐れが大いにある。だから目学問は参考にはなるけど、そこを絶対化してはいけないと思う。本の世界にあまりにもどっぷり浸かりすぎない事が大切な気がする。要するに感じる事を、本の中から模倣の様に感じ取りそこで満足しない方がいい。実験や検証が普通の人には出来ない高度な学問もあるから一概に言えないけども、普段の生活の中で自分が感じ取れる事も大切にすべきである。目学問だからといってそこにどっぷり浸かるのではなく、その材料を得る事により実生活の中からじゃあこの材料が正しいとしたら、これに対応するだろうか対応しないだろうかなど考えたり感じたり、自分が感じ取る知識に高める努力をした方が説得力や深みが増す(地に足がつく)と思う。

 

目学問(専門家が記述した)とその時に思った事の言語化の類似点

 

 その時の感情を言語化するのは、専門家がその時の1番しっくりきた論理的な展開(感情)を記述するのに近いと感じる。だけど専門家だってあの時の(言語化した当時)の捉え方から変わる事は普通にある。むしろそれがない事がないのではないだろうか?普段の自分の心だってうまく言えたと思って満足しても、あれなんかやっぱ違うと思う事があるしメタレベルにブラッシュアップしたくなる事もある。だから本の中の考え(自分の心の中の言語化)を絶対だと捉えて満足しない方がいい様に思える。現に人間は満足できない。

 

 

 学問的正しさや倫理的正しさの吟味は終わる事がない。直接的にズバッとわかることではなくコツコツ積み上げて蓋然性を高めている。コツコツ積み上げたからといってそれが強固な塔になる訳ではなく亀裂(修正の余地がある矛盾)がある事もあるだろうし、積み上げた学問的な理論が崩壊する事も考えられる。その時は新しい塔を建て直さなきゃいけない。

 

 

 

 僕はどちらかと言うと理性的な人間だと思う。頭の中で納得したり言語化したりするのを大切にするからである。ただ何もかも理性で捉えて考えてるわけではない。それは皆さんだってそうだと思う。感じる事も大切である。しかも模倣で感じるのではなく、本当に感じる事である。感性は理性の材料になる、逆に理性で言葉や感覚や動き(法則)が峻別されて比較や差異を経て感じる事を強化する事(言葉の意味や動きを分析して上位概念や下位概念の理解またはその言葉の違う使われ方の言い回しを理解(作る))もある。模倣で感じ取った理性の材料はその材料の中でこねくりまわしそこから出ない事が多い。感じる事を研ぎ澄ます事は模倣にとどまらない事が大切なんじゃないだろうか?感じる事は理性の下位というよりは相互に影響を請け合うし、感性の豊かさがある事で、普通の人に感じ取れない理性の材料を提供する事も考えられる。だから理性的に考えるのは大切だけど、感性的な部分も高める努力は必要な感じがする。そしてそういう思考(模倣思考じゃなく)が出来る様になってくると理屈では割り切れない事に対しての対処方法が高められる様になっていくと思う。

 

 そして口を酸っぱくなんども書いているが理論的な正しさの方に傾斜したり、そこが出来ていない人に対して批判したりするのはあまり重要な事じゃないと思う。論理的な間違えが悪意があったり、相手を貶めているなら批判はしてもいいと思うけども、その人が悪意がなく善意の元に間違えた文章や語りをしてしまうならば、冷たい理性だけで間違えを判断(指摘)するのではなく、なぜ相手はそういう思考になったかに想いを馳せる事の方が重要で、思想書とか難しい概念などの理解にも、それが正しいとか正しくないとかで見るより、そのバックボーン(背景)に思いを馳せる事の方が得る事が多いし、理解度も上がるし、結果的に批判的思考(こういう考えの元に捉えているからこういう文章(この思想の背景があるからこの論理展開)が繋がれている、だから(だけど)ここで間違えを犯してしまったんだなと冷静になって俯瞰して見える)が高まると思われるのである。

 

 

 

 文章が途中で頓挫したり、論がいきなり変わったり文章の前後関係がうまくないと思います。でも大筋では何となくでも伝わっていると思うのでこのままの文章にして投稿してみます。途中で修正するかもしれません。

 

 論理的な人だけど理屈で割り切れない事に出くわして凝り固まってしまう人に少しでも光がさせたならばこの文章を書いて良かったと思います。

 

 

 

 

 

正論についての考察

 

人は自分にとって容易くできる事、経験値を経て対処方法や振る舞い方が自然に身についてきたことについて、他人がそれを出来ないと正論を言いがちであると思う。

 

正論は正しい対処の仕方が身に付いている状態だと思う。身に付いているからこそ正論を言いがちになってしまう。

 

人には正論をいって素直に受け入れられる事もあれば、分かっているけど反発心を抱く事もある。

 

素直に受け入れられるパターンは自発的にそこを改善したい欲があれば受け入れられるけど、反発心が勝ってしまう様な時は、認知の歪みやトラウマが生じていて筋道立った正解じゃ通用できなくなっている様に感じる。誰もが認知の歪みやトラウマを持っている部分があるから、正論は時に自分の心を正すけど、認知の歪みがある場合そこを突かれると嫌悪感や反発心を抱いてしまう。

 

 

 

正論は必要だとは思う。ズバッと一刀両断する事も必要だけど、時と場合や人によって通用しないと思うのならば正論は封印してサラッと流したり、認知の歪みの一部を気づかせる事に留めるのも必要なんじゃないだろうか?

 

人間は自分にとって当たり前に出来ている事については正論を言いがちだし、当たり前に出来ているならそこを言う資格はあると思う。そして正しい事を正しい間違ってる事を間違っていると言える人がいないと世の中の正義(公平)なバランスが崩れる。しかし正しい事だと分かっていても認知の歪みは誰もが少なからず持っていてそういう場合が相手(自分)にある場合正論を言うと無用なトラブルが生じる事も自覚して臨機応変に対処する視点も必要な感じがする。

 

 

 

自分にとってクリアできている経験値や価値観だけで考えを述べる視点だけじゃなく、自分(相手)にある認知の歪みやトラウマの視点もある事を自覚して、清濁合わせ呑む視点も視野に入れて伝えれるようにする事を心がかけるといい様に感じる。しかしすぐには出来ないし(正論言っちゃうし)、多分死ぬまで対処方法が失敗する(相手の欲しい言葉を悟れない)と思う。ただこう言う視点に立てば無用なトラブルの回避が少しずつ上手くなっていく様に感じます。少しでも参考になれたならば幸いです。

哲学書を分かるという事 難しく感じる事 哲学的思考の重要性

 

 

哲学書の難しさはどの辺を指すのかを自分なりに考えてみた。

 

哲学書の難しさはまず、哲学とは何をやっているのか分からないと思われる。初学者は読んでいても全体像も分からなければ、なんでこんな些細な違いを何度も吟味しているのだろうか?などと思うのではないだろうか?

 

また哲学書は会話じゃなく書かれた言葉なので、疑問点など理解が及ばない部分を直接訊けない。そこが哲学を分からなくしている多大な要因を作っていると思う。

 

まず分かる(理解した)という事を考えてみる。人の話を聴いたり、文章を読んでわかったや理解できたと思う時の心の中の動きは相手の言葉や文章を聞いたり読んでいたりする時にありありとその言葉の連なりからイメージを連想出来たり想像出来たりしてその部分を心の中に再現(感じ取る事が)できる。それを元にして未知の部分を連想で推しはかったりできる。しかし哲学書は文章を読んでいても心の中に再現しないといけない前提としての意味を心の中に生み落とせない人が多いのじゃないかと思う。文章が何を指しているのか何を言わんとしているのか行間を捉えれず、前提が何を指しているか分からないから、過程も結果も何を言わんとしてるのか連想できない。

 

哲学的な営みは、なるべく言葉の意味を厳密に使い微妙な差異を明確化したりする。厳密になればなるほど感覚的に与えられた物を理性でふるい分けする力も必要になり、正しく書こうとすれば書こうとする分、初学者からしてみたら何を言ってるのか分からなくなる。

 

これは個人的に思うんですが、正しさ(厳密さ)にあまりにもベクトルを向けすぎて、文章化するとそこを理解するのは相当鋭敏な理性が必要になってくる。

 

正しい事を正しい(厳密な)文体で伝える事にフォーカスする事は、その人なりの山の登り方に例えれる様に思える。山頂に正しさがありそこの頂まで上り詰める文体が人により異なる。その人にとってはその山の登り方で正しさ(厳密さ)を捉えたのだろうけど、他の人によってはその厳密さの見方(登り方)がうまく合致しなかったり難しく感じる。要するに正しい事を正確な(厳密な)文章で伝える方法(山の登り方)は人の数だけ何通りもあるという事になる。そこで重要なのは理性的に厳密さを捉えつつも感性的な部分を触発(心の中に浮き出す)する文体を練り上げる事が重要なんじゃないかと思われる。むしろ理性的な厳密さ(言葉の正確性)を捨ててでも、感性的にイメージを喚起させる文体を素描し、そこから理性の曖昧さ(言葉の不正確性)を明るみに出し、自発的(聞き手・読みての心)に理性的に言葉(概念・意味・正しさ)の厳密さの差異を浮き彫りにする文体を練り上げる。そしてその文体を書くには理性的に捉える力も当然必要になるが、鋭敏な感性の方が重要だと思う。要するに読みやすく伝わりやすい文体、言い方を変えるとイメージが沸く文体、そしてそのイメージから理性が強化される様な文体です。そういう文体は理性も大事だけども感性の豊かさ(伝え方)が重要であると思うのである。

 

 

 人の心で捉えてみる。正しい事を言っても理解されなかったり、違和感を感じてしまう事あるのではないだろうか?そう言う時には正しさよりも、伝え方の方にベクトルを向けるべきだと思うのである。哲学的な文体もあまりにも正しさに固執すると堅すぎて伝わりづらいし、また哲学的な営み自体が正しさを捉えようとするが、正しさを捉え切れてるかと言えばそうじゃないと思う。人間の認識力(理解力)は無知と全知の間に属し全てを正しく理解できてる(伝え切れる)わけではないからである。だから哲学書の言葉自体も盲目的に信用しないほうがいいと思うのである。正しさには色々な水準があり、その水準に対応する言葉で述べられた説明が理解されやすい文章だと思われる。しかし簡単な言葉を簡単な文章で説明するのは比較的簡単(深く踏み込む場合は逆に難しい)だけど、難解な言葉の意味を簡単な言葉で説明するのは難しいと思うのである。難解な言葉を難解(正確厳密)な説明にする水準も元々知っておかなきゃいけない理解度を前提にされていてるからこそ分かるのであり、分かったとしてもそこに何の欠陥もない完全無比な説明を出来るわけじゃない。なぜなら先ほど言った様に人間は無知と全知の中間の中を彷徨う様な理性や感性の理解度しか持ち合わしていないからである。要するに全知の視点から全てを理解できてるなら色々な欠陥を伝えやすく理解しやすい文章にして欠陥を修正しつつ書けるけども、元々の理解度には理解度に応じてどうにか辻褄が合う様な文章を紡いでいると思うのである。難しい言葉を難しい言葉で書くこと自体にも難しさ(正確無比に出来ない)がつきまとうのに、難しい言葉を簡単な言葉に置き換えて説明するとどうしても伝え切れない部分(こと細かい差異や言葉(概念)の正確な意味を伝えきれない)があるのは仕方のない事でどっちを(難しい事を難しくと難しい事を簡単に)選んでも正確無比に紡げない(紡げたとしても潜在的には欠陥がある)と思うのである。だがしかし難しい事を簡単な言葉に置き換えることにより、ある程度その言葉の本質に近づくことはできる。そしてそう言う文体を書くのには感性的な(伝え方)が必要であると思う。

 

 

国語の評論文の様なテストを思い浮かべると分かり易い様に思える。難しい事を伝える時にあの手この手をつかい説明しているけども、100%ガッチリ理解して納得すると言うより、難しい言葉の中にある重要な意味(勘所)をとらえて理性を強化される様な文章なんじゃないだろうか?ただその文章は絶対的に正しさをとらえてるかと言えばとらえられていないと思うのである。悪文ではあるんだけども、そこの肝要な所を理性で炙りだせるから重要なのであり意味(意義)が見出せるからテストの問題にされていると思われるのである。

 

 

下記の大カッコ【】で書かれた文体は哲学書(プラトン作品)を読む人に向けて書いています。この文章は正直正確に伝えてる自信はないので哲学書とセットで読んで見てほしい。もし読まない人は読み飛ばしても構わない。詳しいことは下の段にもう一度伝えておきます。

 

【 哲学的な思考は難しい言葉(概念)の理解より(そこも重要だけど)、単純な言葉(概念)『(高度に抽象度が高く汎用性(色々な意味合いでも使われる言葉・厳密にはほんとうだったり美しいだったり良いだったり形容詞で使われるけども)が高く使われる様な言葉(真・美・善))』の意味を辞書の説明の様に説明する事(主語(が美なら)に含まれている感覚的に対応した美の1つの側面)で済まさないで、要するにその言葉(概念)の部分に含まれる1つの例文(属性・性質)で満足するのではなく、その言葉(概念)のその言わんとしている事をそれ自体(美それ自体)を理性で捉えようとする事をやっている様に思われる。美という物には色々な属性がある。誰もが理性的には納得する美もあるけども、例えばバランスが取れている事、例えば調和が保たれている事、例えば人間的な美しさ(美)には均等性が感じれる事、例えば統一感などが感じられることなど、etc(意味合いに重複含む&姿形だけを指すのでもない)を(理性的)には誰もが納得する美しさに感じるけども、姿形などの(感覚的な)美しさには人によりけりで美しさの感覚は違う。また美しい人に見えてもその人の心が美しく(バランスや調和が)感じないと反動で美のイメージが醜く見えてしまうこともある。逆に醜く(均等性がなかったりバランスが悪く見えても)見える物がそこに隠された美しさ(容姿が悪く見えても心がすごく優しかったり・言動が洗練されてなく野暮ったいんだけどそれがかえって美しさを際立たせる・etc)をとらえられた時反動でもの凄く美しく見える。姿形だけの美は感覚的で流動性があり移ろい得るしその美が完全無欠に美しいと言えないし姿形だけが美を指すわけじゃないので心の目(感覚を鎮めた理性的な視線)で見る事が重要である。美(美しい)という言葉は汎用性があるからこそ、色々な美の色々な側面を美(美しい)と言う言葉で表現できる。しかし美しいと表現できるからと言ってすなわち美そのもではない訳でその美しさ(姿形)、あの美しさ(内面的に感じ取る美)、この美しさ(美しさのベクトル(方向(力加減)・視点)が違うものの美に)に普遍的に内在(?)する部分を理性的に共通した抽象化(普遍化)は直ぐにはできる訳じゃなく、感覚的な美は相反する美しさも捉えられるしその中の美の本質を捉える視点(どこが違くてどこの部分が共通する美なのか)を捉えるのも大切である。要するに何度も吟味し、何度も言語化し、言語化した言葉を再度精査(吟味)し、吟味する事により見えてくる難題(美の違い)を回避(共通項を見つけ出し)しては改められてを繰り返す。そして言語化により高められた美は全てを言語化できる訳ではなく(例えば芸事などの真髄は言葉で捉えている訳ではなく理性で理解している)理性で捉えてるだけである。それはなんでなのかは分からないが知っている事(もし知っていると思った時点でそこで美に対するイメージは止まる・無知の知(厳密には不知の知)を自覚するからこそ高められる)に近い。ただそこを理解していると理解度に応じて美を正確度の高い言葉で伝えれる様になる。だからと言って美そのものを伝えてる訳じゃない。

 

 上記の段落の文章は正直正確的な言葉で紡がれていないと思われる。この段落の文章はある程度哲学的思考を簡略化して肝要な部分を伝えようとしているけども欠落した情報なりがある。また伝え方も判然としないからあまり本気で読まないといいと思う。もし理解を深めたいならば哲学書を読んでみたらいいし、多分読んでみないとこの段落の文章の本意(?)が分からないし、この段落の文章の意味の間違いも指摘(理解)できないと思われる。だから哲学書を読まないで済ませる人はこの大カッコ【】で書かれた文章は読み飛ばして構わない。哲学書とセットで捉えて欲しい。そして欠落した情報を自分で補って欲しい。】

 

 

 

 

 

 哲学の営みは多分に心の中にある漠然とした意味(イメージ)を明確化(心の中に産み落と)したり、心の中で腑に落ちる様な理解に近づかせる事をやっている様に思える。しかし理性が強化されていないと、何言ってるか分からなく見えたり、独善的にみえたりする。実際哲学的思考は頭の中であーでもないこーでもないと思いながら思弁(経験によらず、頭の中で理性を動かしてる)で考えている部分に傾きやすいので客観的(科学的)とは言いづらく実際に考えられた事が独善的(主観的な捉え方が強すぎる)だったりすると思われる。だから思弁だけで止まらず科学的(客観的)な視線も補う(厳密には無理だとしても誰が聞いても伝わりやすい言葉にする・頭の中だけで納得するだけで済ませるのではなく科学的な見解にもふれる・自分の体験だけで判断するのではなく色々な意見を謙虚に補う)努力をする事が望ましいと感じる。

 

 ある程度哲学的に精通している人は哲学書の文章が正確厳密に訳されてないと受け付けない人も居るだろうけども、一旦冷静に物事を捉えてみると、正確厳密に翻訳して書くことは出来ないと思われる。違う言語になる事で欠落する情報や思考(言葉)の捉え方が違うのは普通だから。だけども正確厳密さを求めた翻訳は重要だしそこは否定はできない。まず日本語として理解できる文体じゃなきゃダメだし、それプラス厳密性があるのが好ましい、しかしそこをクリアした文章は難しい。けどその哲学者の文体が正確に翻訳されていないとむず痒く感じるのもわかるし、原文を読んでみないと判別できない部分があるからである。しかし原文を絶対化したり、書かれた(読まれた)文章を正しいと思いながら理解するのは良くないと思われる。哲学で重要なのは文章の正確性(再現性や言葉と言葉の紡ぎ方)よりも、その人自身が自分の頭で考えて理性が強化される事の方が重要で、文章を追って理解する(ことも重要だけど)より重要だと思うからである。文章を追って文章の中でしか思考を動かせないならば、説明の仕方もその文章の中でしか産み落とせづらい。また哲学書に書かれた文章はその人がその人の理解度(無知と全知の間の中で)に応じて書かれた文章だと思って読んだ方がいい様に思える。全知じゃないからこそ説明がわかりやすくないのは仕方ないし、理解度も全てを理解した上で語っていないと思って読んだ方がいいと思う。要するに欠陥があるのは仕方のないし。実際に次の哲学者によって修正(または頓珍漢に解釈)される事が多々あるし普通である。

 

 そして僕が言いたいことは、正しさや正確性は重要だけども、この文章が正しく(論理的じゃ)ないから受け付けないとか、この文章は偉大な哲学者が言ってるから正しいと思いながら読み進めない事が重要だと思うのです。正しい事が最初からわかるわけではなく、思考(理性)を動かすからこそ、その差異(比較)を理性で捉えたりするからこそ理解度が上がるのであって、論理的な文章を理解するためには、逆に非論理的な文章を読んでみたりする事で論理的とはどういう事かとも学べるから、だから正しくない文章も読むに足らない事じゃない。実際自分(他人・哲学者)の文章も全て整然と論理的に書かれてるわけじゃなくて、正しいと感じていても隠された矛盾(整合性がない事)がある事はあり得る事なんじゃないだろうか?と捉えるべきだし実際にあり得るのである。だから謙虚に理性を強化する事に努めるべきである。

 

 

 分かるという事は段階や水準があるしその段階や水準に合わせた文章を練ることが重要で、練ったからと言って理路整然と正確無比な説明が出来ている訳でもないが、それでも理性が強化される文章(思考)や少しでも理知的にとらえられる様になることの方が重要であると思う。その積み重ねを自発的にできれば、哲学する(自分の頭で考える)事ができる様になっていくと思います。

 

哲学する事は自分の頭で考えることでもあるので、ともすると独善性の方向に行きがちである。初学者が陥りやすいのは、自分の分かることだけを補強しながら理解していく。そうするとなんだかよく分からない屁理屈をこねくりやすくなる。なるべく直感で分かると思わずに直感(理性)を再点検する視点を持つ方がいいと感じる。また初学者じゃなくても独善性に行きがちになるのである。理解度が上がっていくと思い上がりが少なからずあり点検を疎かにしたり、また自分の説をさも全てに当てはまるかのように言ってしまったり、自分の説に固執(客観性がないのに)もする。哲学だけじゃなく、何かを極めてる人は少なからず陥りがちな人間心理ではあると思う。多分に自分も含め皆んな暫定的な意見しか言えないので、その瞬間今、正しいと思った事を言ったら、どうしても独善的に見られてしまうんだと思われる。全てを客観的には把握できないからである。哲学的思考はある意味ではそこをも考慮に入れながら考えてはいるからメタレベルでは客観度の再現度は高いのかもしれない。しかし誰もが納得する事は言えないし、基本的には暫定的意見から抜け出せない。完璧な意見がだせない。それでも考える事が大事だと思う。深い洞察力がある人達の社会にならないと変わるものも変わらないと思うし、社会の問題を解決するのは1人の偉人ではなく、社会全体の経験や知恵だと思うからである。だから哲学的思考(答えのない答えを考える・本当に正しいと思う事を考え続ける)はこれからの時代すごく重要になってくると思います。1人の思想家に付き従って問題が解決するより、破滅に近づいた歴史がある訳で、深い思考をみんなで高めないと1人の意見が絶対化しちゃう事になり、ともすると独善性を発揮し始める。そうなっちゃ行けないし、そうならない為には、哲学的思考をする人が増えていくことが重要です。

 

客観性ついて 客観的に捉えるためには主観的に客観を捉え直す視点が必要。もし主観的に捉える視点が抜けると客観性はその場の空気の支配下に置かれる。その空気の良い側面・悪い側面(是々非々)を主観的に捉えていないと客観性は得られない。空気に支配されて、その場の口が上手い人の言い分に引っ張られるような(自発的に考えず空気とその空気の一側面で規定された考えに盲従する事は)客観性は客観的とは言えず客観的に妥当できない。

 

客観性のある捉え方は 客観と主観のバランスが大事であり、主観を切り捨てる事ではない。※中庸的(丁度いいバランス)な立ち位置で言えば客観性は主観より客観に傾いた捉え方ではあると思う。それは主観性を不必要にするわけではなく、客観的に妥当するためには主観的に(是々非々をとらえて)メスを入れるところを捉えないといけない。主観的な捉え方には客観性を全て把握できるわけじゃないので絶対的にあってる(客観性がある)とは言い切れないし、その場その場でバランスのいい(中庸的な)主観(メスの入れどころ)の使用を厳密にできるのは難しいわけで客観性を捉えようとしても常に正しいと言いえることは出来ない。でもバランスの良い主観を駆使しないと客観性は担保できないように思われる。

 

上記は主観より客観に重きを置いた客観性で主に客観的(普遍妥当的)な視点に比重を向けて主観も是々非々的な視点で捉える客観よりの主観判断

 

客観性が客観的より主観的に重きを置く場合の客観性もあるように思われる。しかしこの場合は通説(定説)のような固定化した客観が間違っており、主観的に客観の間違いに気づいた捉え方である。この場合にも主観だけで判断されるわけではなく客観的な事柄を吟味する事によって答えを出している。主観的なバランスと客観的なバランスでは主観に傾いた客観である。そしてこの場合の中庸的なバランスはこうである。客観的と言われてる事柄のある一部が欠陥がありそれを修正するような立場の場合少し(それなりに)主観的に傾いた客観で、客観的と言われてる事柄(正しいとされている説)が根本的に誤りだった場合、そしてそれを主観で捉えられた場合、主観的な傾きが強い客観性になる。この2つの捉え方も周りが確かにそうだと捉え直せれば客観性があると捉えて良いと思う。そしてこれがみんなの中で客観的と言われるようになったら最初の捉え方の方に移行する。要するにこれが主観より客観に重きを置いた客観性になる。

 

主観的に間違いを捉えたといっても、客観性に重きを置いて捉えているので、その主観は個人的な見解ではなく、客観的に妥当する様な考えを満たした(客観)判断。個人的に欠陥や間違いに気づいたという観点から見たら主観的(個人的な見解)が強いけど、その対象の捉え方は主観的(個人的な見解)な意見だけに留まらず客観的に妥当出来る様な考えという見方でみられている客観よりな判断なので、間違いに気づいたという観点によれば主観よりだけど、全体をみたらやっぱり客観性の方にバランスが傾いている。

 

上記は客観より主観に重きを置いた客観性で主に客観的(普遍妥当性)な視点を捉えてる時に主観で欠陥(間違い)に気付いて再定義(更に普遍妥当性が上がったと)された主観的な客観判断

 

※中庸(ちょうどいい所を指す・時と場所や場合によって何がちょうどいいのかは変わるので臨機応変にちょうどいい所を捉える視点が必要・例えていうと『勇気』は臆病と蛮勇の中間ではなく蛮勇寄りに傾いてる。そして時と場合によって傾きも変わるのでその時に一番あった勇気の出し方を捉える視点を指す・道徳的指針になる所を指す言葉)

原理が原理主義に傾いてしまった時の危険性(原理が機能する時・機能を拒む時)

 

原理(ものの拠って立つ根本法則。認識または行為の根本にある決まり)

原理主義(無謬(理論・判断などに誤りがない)であると信じる主義)

 

 

何事にも原理はあると思う 大きく括って物理の原理(物理法則)や心(論理や感情)の原理など、しかし原理は言葉で説明する時に全てを包括できるだけの原理に落とし込めているかと言うと落とし込めてない(込めない)と思う。例えば物理の原理で攻めてみよう。引力がどうして惑星(地球)にはあるのか?それの解答は万有引力と言われている。地球のサイズ、地球が中心に引っ張られていく力と自転して引っ張られて重力に変換させているみたいだ。万有引力は全てのものともの同士は引き寄せられる物理法則である。今の所なぜ引力はあるのかは根本的な事はわかっていない。あるからあるとして公理のような感じらしい。実際素朴で自明だと思われてる事はわかっていない事が多い。

 

物事(物理法則・心の原理)を理解しようとする時その法則の原因を探る。どこに原因があるかを目星をつけて、理解が及ぶところを抽象(すくい上げられて)して、理解が及ばない(重要じゃない(重力加速度で言うところの風の影響)・直接的な原因ではない・原因かわからない)部分は捨象(切り捨てられる)される。自然現象(万有引力・物理法則)は理解及ぶところ(引力(重力)でいうところの地球のサイズや地球が自転をして中心へと引っ張られてる事・重力で言えば重力加速度を数式で捉える)を切り取っていると思うけども本来理解が及ばない部分も影響を与えているのではないだろうか?これは私が自然現象を観察してきた事により、自然は自然に相互に影響を与えていると思う信念みたいな感じなので正しいと感じるかわからないけども、もしこれが正しいと感じるなら下記の内容も賛同出来るのではないだろうか?

 

 

 

バケツに水を入れてバケツを片手で持ってグルングルン回してみると、斥力(反発し合う力)が発生するのかバケツが逆さまになった状態の時でも水はこぼれ落ちない。そして肩に意識を集中すると回している肩が肩を中心に引っ張られる。そこ(肩)に引力(バケツに対しては斥力、反発しあってる)が働く。しかし惑星間の斥力は釣り合いが取れているのか同じ空間の間の距離をくるくる回る、だからといって惑星間の影響が地球の引力(重力)を変容させていないとは言い切れないし、実際微々たる事であっても直接的に少なからず影響を与えていると思う。

 

もし直接的な影響を与えていなかったとしても例えば太陽が今より少し大きかっり小さかったら地球の自転スピードが変わったり公転スピードも変わったりすることは考えれる。惑星同士のやりとりで直接的ではないが間接的に地球の自転スピードが変わり、重力の原因だと捉えてる部分(自転のスピード)が変わる事も考えれるんじゃないだろうか?太陽だけの視点だけじゃなく宇宙のあらゆる物が色々な事柄に影響を与えていると思う。

 

この様に物理法則の中には理解が及ぶ所のなかで、その条件を満たした中での原理にとどまるのではないだろか?理解が及ばないところの中でも掬い上げなきゃいけない部分は常に残ってると思われる。また今までの法則が違う条件下の中では通用しない事も考えられる。物理の原理でも全てを包括されるほどのを地球人が理解しているとは思えないし、条件付きでそこでのなかではが精々だと思う。科学的な答えには常に蓋然性(確らしさ)を高めていく事が求められてるけど、絶対的な答え(原理)を捉えてるわけじゃない。科学的な原理は条件付きな原理に留まっている。

 

 

そしたら心の原理はどうだろうか?そこのところも考えてみたいと思う。

 

 

同じ川(状況)には2度と入ることはできない(出くわせない)だからこそその都度答えが微妙に(多大に)変わるはずなのである。状況は自分の心の状態だけじゃなくその時の周りの状況も影響を多大に受けてそこから答えを出さなきゃいけない。原理(この時はこうしましょうという価値判断)がどんなに素晴らしい事を言っていても全ての事柄に対応できる事が言えるだろうか?原理と言われる為には大枠を括ってこういう時はこうしましょう的な聖典の中に論拠をしめす解答か、または物事の状況を全て網羅してその時その時の対処方法を書き記した事になると思う。しかし後者は現実問題実現する事は不可能に近い、なぜなら同じ状況何って2度とない。あるとしたら類似である。全てを網羅する事はまず紙面の問題上できない。もし網羅できてたとして、しかもその原理(理論・価値判断)は無謬で正しかったとする。しかしそれを探すのは非常に難しい。何故なら多大な対処方法や価値判断を把握していろいろなパターンの中から選び出さないといけない。状況は自分だけの問題じゃなく周りの問題(状況)を含み、建設的に会話できる人もいれば、終始高圧的だったり、話を理解してもらえない人もいる。それに対する無謬な対処方法が書かれたとしてもそれを探し出せるだろうか?人(自分も他人も含め)それぞれの癖や圧は違うわけで本に答えを求められることじゃないとおもう。色々な人に対しての対処法は本から得られるのではなく(得られるとしたら主にタイムリーで心が感じ取れる部分)、身もふたもない話になるが本来経験から得た方がいい事なのではないだろうか?それは何故かというと、心で感じ取るのは経験だから。自分の心がこう思う、こう感じるなど良心的な気持ちがのってこそその判断は良心的には正しい。原理を原理主義にしてしまってる人は自分の心で感じ取るものより原理に比重が向け過ぎている。律法を守っているから正しいんだっといったファリサイ派の人々の様になってしまう。ようするに形式だけ守って心が感じ取れていない状態、または感じ取れてはいるのだけど心からではない状態になる。偽善に転嫁するか、心(人格)が淀んでいる状態なんじゃなかろうか?

 

原理が正しいかどうかを、ちゃんと考えないといけないと思う。言い方を変えると批判的にみないといけない。批判的というと物事をちくちく嫌なところを突くように聞こえるかもしれないが。本来批判的に考えるとは自分自身にも批判の矛先を向けている事だと思う。他人の批判をするときは、最低限自分はそれが言えるだろうか考えてから批判するでしょう。他人の意見や物事を納得(理解)するためには、最低限自分が納得しなきゃ(理性的にも感性的にも批判に耐えないと)納得しないでしょう。信用できるから私はいいんだは、心の中に無自覚的に偽善を飼い慣らす事に繋がる(繋がってしまう事もある)。例えていうと鼠講の被害者の様である。その人は正しいと思ってやっているけど、加害者に転嫁する。だから批判的に考えないといけない。思考を自発的に動かさず、他人の意見に賛同するだけで満足してはいけない。どんなに心根の優しい人でも鼠講の加害者・被害者になってしまう怖さを自覚してほしい。優しい人は人を疑うことをしない。そして批判という言葉を悪い意味でイメージしていると感じる。(そうじゃなかったらごめんなさい)でも本来の批判は理性や良心を使って自分も批判してこその批判だと思う。自分の良心や理性を駆使して納得するまで考えることも大切だと思う。元々優しい人はそれができないわけじゃないと思う。やろうと思えば考えようと思えば、できるはず。考えることに遅すぎる事はない、今この瞬間が一番若いんだ、考えてもすぐに答えがでないけど、考えれば考えるほど思慮深くなっていく、だから考えよう!!

 

また心の原理が原理主義に傾いてしまった時の危険性をかいてみようと思う。

 

物事には原理はあると思うけど、その原理を絶対的に正しい(無謬)と捉えてしまう(原理主義)事によって生じる怖さを書いていこうと思います。

 

全ての事柄を網羅した文章は現実的に無理なので、もし原理として捉えるのならある程度大枠(基本的に賛同できるような価値判断)を括ってそうしましょうに留まらざるおえない。しかしこの捉え方にも問題があり、大枠に外れたパターンもあり得るという事。例えていうと大枠が動脈や静脈のような大きな通り(本流)で、そこを基準に考えればある程度は通じることが出来るのだが、毛細血管のような動脈から離れていくレアケース(枝葉末節)があるという事。そして理論や価値判断を状況に照らし合わせた時、ガッチリと大枠に当てはめて考えれることはまれで少なからず浅い毛細血管(状況は常に違うのでガッチリ当てはめられない)のような状況にならざるおえない。大枠の捉え方(本流)である程度は通じるがその時の対処方法(価値判断)は自力で分析して解決しないといけない。大枠(本流)からかなり外れたレアケースならば逆の答えに行き着くこともある。

 

原理主義は本の内容を批判的(自分自身に対しても)に見ていないで盲目的に信用するタイプとレアケースを悪用してこじつけ理論で正当化していると私は感じる。両方とも無謬だと信じているからこそ生じる怖さだと思う。しかし本来心の原理にも絶対的に正しいと言い得ることは出来ないのじゃないだろうか?原理が正しかったとしても、ちゃんと自分達で考えなきゃいけないと思います

 

 

 

 

 

補足と修正

 

原理と原理主義をごちゃ混ぜに捉えている部分があり、おかしな捉え方になっているので補足と訂正を書きます。

 

原理は物の拠ってたつ根本にある決まりなので、心の原理について修正をしていきます。

 

 

心の原理、どこに拠ってたつか(根本にある所、基軸にする部分)を捉えてそこを基点に考えられた原理。人間の心の根底にある部分は何かと捉えられて、宗教でいえば愛を根底に置く。

 

心の原理を理論や価値判断の正しさに還元する事によって生じた間違いだと思います。原理主義に引っ張られてしまった。原理を原理主義のようにセットで考えている人の場合意味を成すけども、原理を愛を基点にして捉えてるだけで原理主義に陥ってないなら問題なかった。

 

心の原理の場合恣意的に色々考えられる。例えば失敗・成功の原理やお笑いの原理、人付き合いの原理、などなど、そういう原理の最上位(最深部)の原理を捉えると根底に愛という原理が鎮座しているように思えるので、心の原理を愛と捉えても問題はなさそうに感じる。

 

中盤以降の文章は原理を正しいか正しくないかで捉えてしまっているので、そこからの視点で見れば中盤以降の文章も意味をなすかもしれないけども、心の原理を愛を基軸に考えてるのであれば、正しいか正しくないか(答えがおかしくても悪気がないと言う意味で)という捉え方から抜けられる。もう少し詳しく言うと数学で言うところの誰もが犯しやすいミスやケアレスミスは誰かが間違うこと(ただしくないこと)によって気付かされる部分がある。答えが間違っていても愛を基軸にしていれば否定はしないし、その間違いによって正される(気付かされる)部分がある思う。しかし愛を基軸に考えていても、やはり答えが間違う場合もあるので、ちゃんと吟味し直さないといけない。人間の理性は完璧ではなく、認知バイアス(ゆがみ)も誰もが持っている。だから愛の原理が素晴らしかったとしてもちゃんと考えないといけないと思う。原理主義はいけないし原理主義で満足しちゃいけない。自分(他人)の考えてる事は絶対的な答えではなく認知バイアスや見落としがあるかもしれないと捉えて修正や訂正(反省や内省)をしていくべきです。