極右(右翼)と極左(左翼)についての事・遍歴

 

今現在の人間の思考様式は基本的に科学的な見方だったり現実的な視点から物事を読み解き世界について考えている人が多い様に思える。古代の時代は霊感的な力を持つ人が社会を統治していたらしい。人間の思考様式に目に見えない力を駆使して現実の出来事について回答を与えてた様である。今でもそういう霊的な力を駆使して社会について考えを述べたり、行く末を占うような事をやっている人もいる。例えば未開の部族だと呪術により降霊させて未来だったり、天候を占ったりしてるみたいだ。また神の代弁者の様に霊的な存在から言葉を授かりそれを伝える役目の人もいるらしい。また占いの様にある程度社会から認知されているものもある。しかし悲しいかな、今の時代は科学的に捉える視点だったり現実的な所から現実的に紐解く視点の方に人間の理性がシフトしてしまった。今の時代は科学の時代、現実重視の時代なんだと思われる。人間の理性が発達する過程の中で科学的な見解が深まり、自然を理性で把握することが深まり、魔術的(霊感的)な物が廃れていったんだと思われる。それに伴い物事を現実的な視点から解く思考様式が普通になっていった様に感じる。昔の様に霊的な力を持つ人は少なくなり、現実的な視点から現実的に感じ取った、現実的な感覚を頼りに世界を紐解いている様に思える。今の文明的に極右(古代復古・霊的・スピリチュアル的・天皇万歳)の様な社会に戻ることは来ないと思う(来たとしても当分先?)。そういう人達がいる事は居るだろうが、その人たちはこの時代の社会を動かし得る人たちではなく、裏で支える人たちだったり、新興宗教の様ななんだかいかがわしさを感じる神(?)のあやつり人形の様な一つのアイコンぐらいにしか力を持たない様に思える。僕たちの思考様式が理性的(現実的)に納得感(エビデンス)を持たないと受け入れない人が増えてしまったからである。

 

 極左(左翼思想)についても少し言及してみたいと思う。左翼思想は社会主義・共産主義の思想である。理性的に理論的に社会を改変しようとした革命思想(暴力革命)である。こちらは極右の様な霊的な直感から物事を論ずるというのではなく、社会の構造を紐解き、その矛盾点や不平等を是正する様な理論構築を得て実戦により改築していく世界観である。しかしこれも失敗した。物事の理解が浅かった当時の僕は理想的な世界観(不平等が改善される世界観)に魅了されたけど、実際は理想とかけ離れた世界だと分かってきて左翼思想はまだまだ夢の夢だと思うに至った。

 

 極左思想の根幹的にダメな理由は理性を過信しすぎていた事だと個人的に思う。頭の中で理論的に構築した理論が現実の世界に矛盾なく受け入れることが出来ない事を無理矢理にでも理性で押し切ってしまっている様に思える。頭がいい人は理性を使い現実的な問題を観念的(イメージ上ではものの見事に)に対処(問題のメスの入れどころを分かる)はできる様になるけども、いざ実践すると人々の思考や行動様式と乖離(かけ離れてる)している事が明るみに出ることが露呈された。人々には色々な考え方があり、もともと人間自体が理性的に動いて生活を営んでいるわけでない事を、分かってきたのである。それは頭のいい人すらも理性的に動いているわけじゃないことなのだと僕は思うのだけど、革命家は自分の理性をフルに使い、その社会を到来する様に予言してしまった。理性的に考えれば分かるという様にである。

 

 人間の思考や行動は常に理性を使い考えている(解決)しているわけではなく、社会に放り出された時から、自分でああでもないこうでもないと考えたりするけど答えが常に出せるわけではない。周りの常識に染まってみたり、反発してみたり少しずつ自分なりの答えを構築していくんじゃないだろうか?そういう試行錯誤を経て少しずつ理性を強化していると思うのである。そして色々な思考や行動を経て習慣化された動きに落ち着くんじゃないだろうか?むしろ思考は不完全なまま周りの常識や慣習などに一応乗っかりそこから習慣化された振る舞い方をしている様にも思える。その振る舞いを客観的にみてほしい。自分の習慣化された振る舞いは理性的な振る舞い方だと言えるか?こうした方が本当は良いのにしなかったり、できなかったりするのではないだろうか?所々に理性的に考えればおかしな事もやっているし理性で全てを片付けられる動きをしていないんじゃないだろうか?理性的に考える事が必要ないとは言わないし、自分の習慣化された悪習などを改善しようと理性を使って自分に納得する様に答えを出す事も重要だけど、改善できたからと言ってでは常に理性的に対処ができるわけではないではないか?ましてや自分の頭の中で解決できた問題が、じゃあ他人の頭でも同じ様に伝えたら同じ様に解決できるというのはできないパターンもある。革命家は独裁的に一つの思想を強弁して従わせようとしても上手くいかないのは理性過信からきていると思われる。実際理論武装して色々な角度から色々な人たちを考察して見せたけど、その人々の動きをうまい具合に盛り立てて改善することは出来なかった。理論(最初から問題があった)と実践(科学的なというけど科学の様に行動を予測できていない・出来るはずがない)に乖離がある事によって平等になるどころか人々の疑心暗鬼をうみ失敗に終わったのである。僕たち習慣化された振る舞いを正せと言われてもものすごいストレスがあると思うのである。1人の思想家に付き従い、最初はカリスマ性があったけども、現実は平等どころが経済が痩せぼそり蓋を開けてみたら全員貧民で一部の特権階級のみが甘い蜜を吸う様な理想的な社会とかけ離れてしまったのである。

 

 左翼思想のような極端な革命によって社会を転覆させる方法は危険であり、今までの行動規範がガラリと変えることはものすごくストレスを与えることであり、ましてや行動規範が変わって新しい規範になって絶対成功するイメージが社会全体に持てない様ならば(実際持てないし)、常にストレスを感じながら従わないといけなくなる。未来の事は誰にも分からない事であり、少数の人たちだけで考えた新しい規範が完全無欠な規範な訳がなく、失敗するべくして失敗したんだと思われる。左翼思想の道のりは革命によって成し遂げるのではなく、もしそういう世界を目指すのならば穏健に平和的に諸条件が整い、精神レベルが上がって段階を踏んで成し遂げるべきものなんじゃないかと思う。その時はオリジナルの思想を踏襲するのではなく、理性的(現実的)に把握できないもの以外信じない思想(現実的理性過信)で済ますのでもいけない様な感じがする。右翼的な(保守的な世界観・今まで培ってきた)世界観(宗教的な事柄)も大切にして、双方を吟味しつつ穏健に少しずつ改善しながら目指すべきだと思う。

 

 左翼思想は現実重視型の世界観で理性的に把握できない事、納得できない事は排除してしまった。ある人は『宗教は民衆のアヘン(麻薬)である』といった。それがスローガンの様になってしまい、左翼思想の中では宗教思想は滅多滅多にされてしまった。昔の自分にとってはものすごくスカッとする文章であった。しかしそれは僕が宗教的な儀式を鼻から信じて居なかったからであり、僕自身も理性を過信していたからである。思想書や古代の人の思考を辿っていくとけして現実的な思考(理性)だけで世界を見ている訳じゃないことが分かってくる。科学的に生きている今の人たちにとっては胡散臭く感じるけど、科学的な見方(客観的に記述をする)を極端に推し進めると物質の運動であり、それ以外が働いてる力がないと踏むと、人間自体も物質でありじゃあ考えている様で動かされている決定的な動きにしかならないと何ともつまらない世界観に変わってしまう(心ではなく脳という物質の動きに還元する)。何もかも客観的に捉えようと、それを記述しようとするとそっちの方向性に言ってしまうのじゃないだろうか?しかし量子力学の様な原子よりミクロな世界の粒子はどうやら意思を持って動いているらしい。二重スリット実験などを見てみたら分かると思う。物質はエネルギーの現象化(物質化)であり(?)量子力学の世界だと理論上は自由が与えられる様になると思うし(物質の背後で自由に動ける場が与えられると思われる?)、眼に見えない世界にランダム性がある事で、眼に見えない力が働く事も考えれる様になるのではないだろうか?もし現実が物理法則の下でしか動きを解明できないのであれば、目に見えない力も消え失せる。なぜなら物理法則だけならば、霊的な力を入る余地がない、入ってたとしても分からない。分からないなら物理法則の下に捉える事ですますのではないだろうか?しかし量子力学の世界観は科学とスピリチュアルの共存を可能にする理論な様に感じる。この世界観を説明するのは正直難しいので、実際に触れてみてほしい。また凄くわかりやすいところで言うとタロット占いなどがそれにあたる様に思える。古典的科学の世界観では胡散臭くて信頼できない様なタロットだけど実際にやってみたら当たったりするんじゃ無いだろうか?この仕組みを古典的な科学観では解明はできないけども、量子力学的な世界観ならばそれがある事も許容(絶対や確実などとは言わないが)できる様になる。科学的な世界観に生きている人にとっては俄には信じられないかもしれないけども量子力学的な世界観に触れてみるとある程度そういう物を許容しても問題なく共存できると僕は思う。

 

 宗教は民衆のアヘン(麻薬)であるについてもう一度考えてみたいと思う。実際に僕は日本人であり現実重視な世界観で生きてきたタイプ(思想上では無宗教)だった。でも親は宗教をしていて、時々会合に足を運んだりもした。でも僕はその世界観をどうしても受け入れられなかったのである。全ては科学的(現実的)に答えが出ると思って居たからである。今思うと青いと思うのだけど宗教的な地獄や悪霊的な囁きなどどうしても信用できず人々を騙しているインチキな事だと思って居たのである。現実的な通俗的な世界観と反する創世記に書かれている情報も僕からしてみたら気に食わないのである。だから宗教は民衆のアヘンであるは物凄く僕の心にクリティカルヒットをしたのである。そして左翼的な現実的に捉える視点も現実の中から問題をあぶり出し、現実的に解答や解決をはかる世界観に魅了されたのである。しかし現実である。現実は理性的(理論的)に捉えてそれが社会の問題を解決できるかと言うと出来なかったのである。僕の中で革命家のイメージは二転三転し、自分自身についても考えざるおえなくなった。そして理性過信だと思う様に変わっていったのである。実際に僕自身も理性を過信していたと思うし、科学というなの客観的な意見じゃないとテコでも動かないそんな頑固さを抱いていたんだと今になっては思う。しかし人々は常に理性的に動いている訳じゃなく(習慣化で動いている)、それは僕自身もそうであり(科学全般も全て理解するだけの勉強をしてないし、厳密にできないし、納得する様に伝える事も無理がある)、そうなのにも関わらず理性的に解決しようと思っても無理な事を悟ったのである。要するに丸くなったのである。

 

 また宗教的に全てを許容(悪霊や地獄の提示は必要ないと思う・現実的な思考が壊れるから)出来ないけども、宗教の中には非合理の中に合理的な思考がある様に思える。左翼思想は理性過多で納得できないものは受け入れない思考だけど、理性は誰もが納得する意見を産み落とせないだけではなく、革命家の書いた書物自体があまりにも難解で理性的に納得感を得られないで葬られてしまった感があると思う。周りの人が理解して着いていきたいと思えない様な文章だった。革命思想には人々の信頼があって世界が成り立つ事が抜けているのであり、人々が理論で動くと踏んだ理性過信であり、独裁政治になり、全体主義(1人1人はみんな(社会)の為にがあってもみんな(社会)が1人1人の(自由な)為にはなかった)みたいな居心地が非常に悪い世界観になってしまった。社会のために働くけど、1人1人の人間性の発露は統制されるみたいな、理想と現実のあまりにもの食い違いである。それに代わって宗教には神への信頼(信仰)によってなりたつ世界観で考えの違いが人々にあっても神という信仰に支えられて共同体を維持できる利点がある。それは現実的な視点だけしか見えない人にとっては意味をなさないけども、実際に神を信じて共同体を維持している人々にとっては意味があるし安心感にも繋がる。そして非合理の中の合理的な思考は神を信じる時に神をイメージする思考である。科学的な視点で見ると何の意味があるかと思われるけども、物事は理性だけで動いている訳ではないのである。感じる事そういう事からでも学んでいるので無いだろうか?神を信じる時に色々とイメージを膨らませる事によりそのイメージに性格を近づかせているのでは無いだろうか?大きなスポンジの先っちょから水を染みわたる様に心を少しずつ少しずつ変容させていると思うのである。過去の過ちなどを思い浮かべてそれを懺悔すれば謙虚な人格が潜在的に産み落とされるのじゃ無いだろうか?誰かのために祈る事により、相手を思う気持ちが育むのでは無いだろうか?そして相手に逢った時に深く相手を思った感情を伝える事ができるのじゃ無いだろうか?祈りは意味がないという人もいるが、上記で言っている様に現実的にも効果があると思うのである。科学主義はその振る舞いの非現実的な視点だけで判断して非現実的だから意味がないと断言していると感じる。非合理的な事だから答えも非合理的にしかならないと思う感じである。しかし非合理的な中に合理的な思考が隠されているのではないだろうか?左翼の様な極端な理性信仰(合理的じゃ無い物を否定)は行き過ぎであり、宗教的な儀式の中にも肯定してあげたほうがいい部分はあると思う訳である。

 

 右翼的な世界観は今まで培ってきた世界を土台にした保守的な政策を指し、逆に左翼は今までの価値観を転倒させる世界観であると解釈している。若い時は何でそうしないといけないのか分からないのにそうしないといけない事が多々ある。だから保守的な世界観よりも革新的なものにかぶれることがあったけども、年齢を重ねるうちに例え非合理的な行いに見えていても実際には合理的な意味合いを持つ事もある事を知る事で僕自身は右翼的な立ち位置に落ち着くに至った。だからと言って保守一辺倒かと言ったらそうではなく、時代とともに社会の制約や枠組みも変わる訳で常識も変わっていく訳でその時々に合わせ考え方を改めたり修正もするべきである。ただ難しい場面もあり例えば日本人は輪を大切にする文化がある。学校の中で校則なるものがある。髪の毛の長さはこのぐらいとか,髪を染めていけないとかである。明確な理由はなく校則だからという訳で従わなきゃいけない。多分にこの校則の意味合いをメタ認知的に解釈すると若いうちに色気を出すと変な人に言い寄られるからそれを守る為に作られたものの様に感じる。確かにそういう視点で見ればそういう風に捉えれるし実際にそうなんじゃないかと思えないだろうか?しかし校則なるものも儀礼的なものもなぜそうしなきゃいけないのかハッキリと分からないまま、そう従わさせるのはやはり判然としないしモヤモヤしてしまう様に感じる。ここで重要なのはやはり自分の頭で考えるという事何ではないだろうか?特に従わせる側がちゃんと考えないといけない様に感じる。実際今の現状は若いうちに色気をだすと叩かれてしまったり、人を容姿で判断させてしまう部分はまだまだ根強く残っている(昔はもっと酷かった)。しかし人々の意識が変わればこういう校則なるものも改められる様に思える。だからこういう過渡期な問題と言いましょうかどっちもある一定の理由があるものについてどちらを支持するかはその時々(時代)によって異なると思うし、その人の(現状の人々の)精神レベルによっても答えの出し方を変えて伝えると思う。この様に人々が考える事により、もっと言えば体での納得を得るような考えに至ることにより、常識や慣習なるものも少しずつ修正なり改変が行って来ると思うのでまずは考える、情報を得る事が重要なんではないだろうか?個人的には相手を守るという視点の上で校則側に立つけども(常にや絶対な視点じゃない)、全ての学校が全て同じ校則な訳ではないし、最終的にはその人の自己責任でやりましょうですね。

 

 今回の文章は書いてくうちに肥大化していって長文になってしまった。本当はもっともっと書きたかったんだけど、これ以上書くと長すぎるのでここで打ち切ります。よかったら全部読んでください。