『長年の謎』がひとつ解決すると,新たな謎がわいてくる. まあいいことではないでしょうか. 少なくともボケ防止にはなっているかも.

古墳の謎と言えば こういうのもあるのです.

古墳については 教科書ではこう説明されています.

古代では,その地域の首長が亡くなると 民はその死を悼んで 大きな墓=古墳に埋葬した

これが現在の定説です.なんとなく納得できる説明ではあります. しかし 大阪人のぞるばはこう思うのです.

ほんまかー?

なぜならこれを見てください.
明らかに王の墓であるエジプトのピラミッドを見ると;

この通り ピラミッドの四方が正確に東西南北を向くように美しく配置されています.

 

古墳は向きがバラバラ

ところが 日本最大の古墳=仁徳天皇陵(大山古墳)の付近を見ると こうです.

大きな 仁徳天皇陵(2)とその南にある履中天皇陵(15)は軸が揃っていますが,南東にある2つの古墳(20,21)は完全にあさってを向いています.No.21の古墳はこう見ると小さく見えますが,実際に行ってみると堂々とした大古墳です. 宮内庁は 第18代 反正天皇陵と比定しています.

本当に天皇陵ならば,これだけ方向をハズすのは変ではないでしょうか?
また同じく大阪平野にある古市古墳群に至ってはこの通りで;

No.33の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)に合わせて 方向を揃えようなどという考えは一切なかったことが明らかです.

さらに奈良の巨大古墳の代表である崇神天皇陵,景行天皇陵などのある奈良東部ではこうです.

大きな古墳を北から順にみると 西殿塚古墳,行燈山古墳(崇神天皇陵),渋谷向山古墳(景行天皇陵)ですが,みごとに好き勝手な方向を向いていますね.


つまり,日本の古墳は 天皇陵と比定されるような巨大古墳であっても,どこをどう見ても古墳の向きを揃えようという意思が感じられないのです.

それぞれつくられた時期が違うから? しかし,以前作られた古墳はデーンと目の前に見えているのですよ. 亡き王の遺徳をしのんで墓(=古墳)を作ったのであれば,その向きがてんでバラバラというのは,あまりに失礼でおかしくないですか?

想像してみてください.

古代の前方後円墳が,時代は違えど あるいは大きさは違えど,ギゼーのピラミッドのようにきれいに一定方向に並んでいたら,それは誰でも畏怖するでしょう.

 

 

しかし,こんなにバラバラでは 尊敬の念は薄れます.


たしかに古墳の内部には 石室や石棺があり,そこに人が埋葬されたことは確実なので,古墳=墓であることは間違いないのですが,『埋葬の目的で』古墳を作ったのであれば,どうしてこんなに向きが揃っていないのか,この点についての説明は教科書のどこにもありません.

春分/秋分/夏至/冬至の日の太陽の向きだの,冥府が存在すると信じられていた方向だのと,テキトーな説が出されていますが,とにかく向きがバラバラなのですから,それらのどの説であれ 古墳の向きが揃っていないことを説明できません.

『古墳の築造を開始した時点で,占いにより吉と出た方角を定めた』という説であれば,方向がバラバラなことを説明できそうです. しかし,古墳の築造って何年もかかるのですから,完成した時点で『吉と出た方角』が変わっていたらどうしたのでしょう.

そもそも 『占いにより吉と出た方角を』と言いますが,大阪人はこうツッコむでしょう.

 

見たんかー?

 

そんなことをしたという記録はまったくありません.たとえば 古事記では神武天皇陵をこう記すのみで;

 

御 陵 在 畝 火 山 之 北 方 白 檮 尾 上 也
(神武天皇の)御陵は,畝火(=畝傍)山の北の白檮の尾根の上にある

 

占いで向きを定めたなどとは一切述べていません.

 

なぜ 当時の人は 古墳の向きがバラバラでも気に留めなかったのか?

それは 方向を揃えるよりも,もっと優先すべきことがあったから,としか思えません.