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日本一の代用教員 - 幻泉館日録@楽天 - 楽天ブログ(Blog)日本一の代用教員 「70年代サブカルチャー URC, ELEC, ベルウッド(2191)」. [ 書籍と雑誌 ]. そして最後には、再び帰り来つて此林中で代用教員をやる予定である。予は願くは日本一の代用教員となつて死にたいと思ふ。 石川啄木「林中書」 ...
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【検索・ランキング:?~?】 論述・穴埋めのトレーニング - 4 回閲覧 - 5月3日渡辺嘉重 - 日本で最初の子守学校の創立者。 大正(明治・大正) [編集] 赤井米吉 - 明星学園『愛と理性の教育』 芦田惠之助 - 綴り方教育の実践家 石川啄木 - 自称日本一の代用教員『林中日記』 稲毛金七 - 「創造教育論」 ...
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日本一の代用教員:幻泉館日録:So-net blogそして最後には、再び帰り来つて此林中で代用教員をやる予定である。予は願くは日本一の代用教員となつて死にたいと思ふ。 石川啄木「林中書」 林中書 「林中書」は1906年12月、石川啄木が渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務しながら書いた評論だ。 ...
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日本一の代用教員 - 幻泉館日録そして最後には、再び帰り来つて此林中で代用教員をやる予定である。予は願くは日本...
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[DOC] 代用教員・石川啄木についての小さな覚え書きファイルタイプ: Microsoft Word - HTMLバージョン
(中略)然し諸君、諸君に怒る位の元気があるなら、どうか壊れた時計にはなって呉れるな。代用教員でも何も構わぬから、何か人生に些少なりとも影響を与へる様な考へを起こして呉れ。 予は願くは日本一の代用教員となって死にたいと思ふ。 ...
www.wao.or.jp/user/kishi/takuboku.doc
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小樽啄木会だより・第5号「日本一の代用教員」啄木が成しえた教育そのものは今日の教育に求められている「変化への対応」とその対極にある、 ... 小生は蓋し日本一の代用教員ならむ。」と続き、「朝起きて直ちに登校す。受け持ちは尋常二年也。十分休み毎には卒業生に中等國語 ...
www.swan2001.jp/taku042.html
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はなしがい155号●「日本一の代用教員」. 最近、啄木の日記を読んで「日本一の代用教員」という文字を見つけました。そのとき、以前に聞いて印象にとどめたことに気づきました。明治三十九年(1906)四月二六日、啄木二十一歳の日記です。 「英語の時間は、自分の最も愉快 ...
www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/hana/hana155.htm
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臨時教職員-常勤・代替・非常勤-制度を考える - メルマ!啄木自身は、「余は日本一の代用教員である」「余は遂に詩人だ。そして詩人のみが真の教育者である」といった自負心をいだくようになります。 しかし、俸給は低すぎる。家族の暮らしは貧しいきわみにあり、上でふれた「ストライキ」をきっかけに「石をも ...
www.melma.com/backnumber_20812_506186/
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【師範学校】
師範学校(しはんがっこう)とは、戦前の学制において初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関である。
目次 [非表示]
1 概要
2 明治19年-昭和18年(1886年-1943年)
2.1 高等師範学校・女子高等師範学校
2.2 尋常師範学校(師範学校)
3 昭和18年-昭和24年(1943年-1949年)
3.1 高等師範学校・女子高等師範学校
3.2 師範学校
3.3 青年師範学校
4 その他の教員養成機関
4.1 師範学校以外の官立教員養成学校
4.2 臨時教員養成所
4.3 実業学校教員養成所
4.4 私立大学高等師範部(科)・師範科
4.5 図画、音楽、体育、家庭科教員の養成機関
5 関連項目
6 外部リンク
7 関連書籍
概要 [編集]
1872年(明治5年)、同年に公布された学制に基づき、東京の湯島聖堂内に、1871年に閉鎖された昌平坂学問所を一部引き継ぐ形で官立の師範学校が設立され、その後、大阪・仙台・名古屋・広島・長崎・新潟と各大学区に設置された。
1878年(明治11年)までに、官立の師範学校は、東京師範学校と東京女子師範学校を除いてすべて府県に移管された。このほか各県が小学校教員養成を目的として独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢ともにまちまちであった。
1881年(明治14年)、教育令のもとで師範学校教則大綱が定められ、師範学校のレベルが初めて統一された。
1886年(明治19年)、師範学校令が制定され師範学校は高等師範学校と尋常師範学校に分けられた。
1897年(明治30年)、師範教育令が制定され尋常師範学校は師範学校と改められた。
1907年(明治40年)、小学校の6年制化に伴い師範学校規程が定められ、中等学校卒業者対象の師範学校第二部が制度化された。
1943年(昭和18年)、師範教育令の改正により、師範学校はすべて官立移管されかつ専門学校と同格の教育機関に昇格、あらたに青年師範学校が設置された(翌年さらに改正)。(なお旧外地のうち台湾の師範学校については、日本統治時代の台湾の師範教育機関も参照のこと)
師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たしていた。師範学校→高等師範学校→文理科大学というコースをとれば、学費無料で中等学校→高等学校→帝国大学という正規のルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
この制度に助けられた人物に、明治・大正期の陸軍軍人秋山好古や昭和期の軍人・韓国大統領朴正煕(どちらも教師を経て陸軍士官学校入学)、実業家五島慶太(東急グループ初代総帥、旧制上田中学卒業後、小学校の代用教員を経て東京高等師範学校→英語教師→東京帝国大学)らがいる(なお作家菊池寛は家庭の経済的事情で東京高等師範学校に進むことを余儀なくされたものの、素行が原因で退学処分を受け、素封家からの援助を取り付けて一高に入学し直した)。
しかし、戦後になると連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) が日本の民主化のため、軍国教育の温床となった師範学校制度を解体し、米国にならって教員養成を大学で行うよう指導した。全寮制の師範学校の寮生活は大日本帝国陸軍の内務班そのままで、上級生への絶対服従を植えつけるため下級生へのいじめ、しごきは日常茶飯事であり、古事記の記述を盲目的に正史として教えるなど教育内容にも問題が多く、その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、教え子を続々と戦地に送り続けてきたという批判が出たのである。
かかる教育の結果として、いわゆる「師範タイプ」と称される、形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまっている教師を大量に生み出しており、このような「師範タイプ」の存在は戦前においても問題視されていた。
このため、各地の師範学校はアメリカ合衆国の「リベラルアーツカレッジ」などを手本にして、旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部、学芸学部として再出発することになった。しかし、大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは審査の結果不適格として教壇を追われた。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化した。
カリキュラムは、当初「リベラルアーツカレッジ」にならって教養教育に重きが置かれ、大学によっては医学部への進学課程等も置かれていたが、戦後、小・中学校が整備されるとともに卒業生の進路も教員が主流となり、昭和41年に改正国立学校設置法が施行されると、ほとんどの学芸学部は教職以外の分野に進むコースを順次廃止し、その名称を「教育学部」へ変更するようになった。
現在の制度では、あらゆる学部から教員免許を取得できるようになっている。しかしこれに伴い教育学を専門に学ばなかった学校教員の力量不足が指摘されるようになり、師範学校制度を復活させるべきであるという議論も一部にはあった。しかし、専門職養成は大学院レベルで行うことが世界的な潮流であり、日本においても法曹を含む高度専門職養成のために、専門職大学院制度が導入されたことともあいまって、これからの教員に必要とされる高度なスキルの習得は大学院レベルで行うこととなった。そこで専門職大学院のひとつとして教職大学院制度が導入され、2008年4月1日(平成20年度)から開設された。
明治19年-昭和18年(1886年-1943年) [編集]
高等師範学校・女子高等師範学校 [編集]
高等師範学校は、中等教員を養成する学校である。以下の学校が存在した。
高等師範学校(1886年 - )1902年から東京高等師範学校。
女子高等師範学校(1900年 - )1908年から東京女子高等師範学校。
広島高等師範学校(1902年 - )
奈良女子高等師範学校(1908年 - )
1897年(明治30年)の師範教育令により、高等師範学校は師範学校、尋常中学校、高等女学校の教員、女子高等師範学校は師範学校女子部、高等女学校の教員を養成することが定められた。
高等師範学校は中学校卒業、女子高等師範学校は高等女学校卒業を入学資格とした。
学士の称号を授与されるのは大学の卒業者のみが原則であるが、東京高等師範学校専攻科と広島高等師範学校徳育専攻科の卒業生についてのみ、特に文学士と称することが認められていた(高等師範学校専攻科卒業者の称号に関する件(昭和5年勅令第36号))。
尋常師範学校(師範学校) [編集]
尋常師範学校は初等教員を養成する学校である。各府県に1校設置され男子部と女子部が置かれた。 1897年(明治30年)の師範教育令により尋常師範学校は師範学校に改められ、各道府県に1校または数校設置されることになった。1920年代後半までに女子部は女子師範学校として分離された。
高等小学校(小学校高等科)卒業を入学資格とする本科第一部(1925年から5年制)と、中学校もしくは高等女学校卒業を入学資格とする本科第二部(1907年に制度化、1931年から2年制)が置かれた。
昭和18年-昭和24年(1943年-1949年) [編集]
高等師範学校・女子高等師範学校 [編集]
1943年(昭和18年)の師範教育令により、高等師範学校は中学校と高等女学校の教員、女子高等師範学校は高等女学校の教員を養成することが定められた。1947年の学校教育法制定と1949年の国立学校設置法により、東京高師は文理大と合併し東京教育大学に、広島高師は広島女高師とともに広島文理大、旧制広島高校、旧制広島工専等と合併し広島大学に、東京・奈良両女高師は大学に昇格しそれぞれお茶の水女子大学と奈良女子大学に、金沢高師は金沢大学教育学部になった。また、岡崎高師は、戦災で岡崎市から豊川市に疎開後、岡崎市に戻ることなく、名古屋大学教養部(現・情報文化学部)の豊川分校になった。(名古屋大学教育学部は戦後の新制大学発足時に改めて学部として新設されたもので、高師の系統を汲んでいない。)
東京高等師範学校(1886年 - ): 東京文理科大学に昇格(1929年)以後、同大学に併設。
東京女子高等師範学校(1900年 - )
広島高等師範学校(1902年 - ): 広島文理科大学に昇格(1929年)以後、同大学に併設。
奈良女子高等師範学校(1908年 - )
金沢高等師範学校(1944年 - )
岡崎高等師範学校(1945年 - )
広島女子高等師範学校(1945年 - )
師範学校 [編集]
1943年から師範学校は国民学校教員を養成する、官立の、専門学校程度の教育機関となった。師範学校には本科と予科が置かれ、本科は中学校もしくは高等女学校卒業生、予科は国民学校高等科の卒業生および中学校もしくは高等女学校2年修了者が入学できた。 全国に以下の師範学校があった。カッコ内は新制大学。
北海道第一師範学校(北海道学芸大学札幌分校)
北海道第二師範学校(北海道学芸大学函館分校)
北海道第三師範学校(北海道学芸大学旭川分校)
青森師範学校(弘前大学教育学部)
岩手師範学校(岩手大学学芸学部)
宮城師範学校(東北大学教育学部→宮城教育大学)
秋田師範学校(秋田大学学芸学部)
山形師範学校(山形大学教育学部)
福島師範学校(福島大学学芸学部)
茨城師範学校(茨城大学教育学部)
栃木師範学校(宇都宮大学学芸学部)
群馬師範学校(群馬大学学芸学部)
埼玉師範学校(埼玉大学教育学部)
千葉師範学校(千葉大学学芸学部)
東京第一師範学校(東京学芸大学学芸学部)
東京第二師範学校(同上)
東京第三師範学校(同上)
神奈川師範学校(横浜国立大学学芸学部)
新潟第一師範学校(新潟大学教育学部)
新潟第二師範学校(新潟大学教育学部高田分校→上越教育大学)
富山師範学校(富山大学教育学部)
石川師範学校(金沢大学教育学部)
福井師範学校(福井大学学芸学部)
山梨師範学校(山梨大学学芸学部)
長野師範学校(信州大学教育学部)
静岡第一師範学校(静岡大学教育学部)
静岡第二師範学校(同上)
愛知第一師範学校(愛知学芸大学学芸学部)
愛知第二師範学校(同上)
岐阜師範学校(岐阜大学学芸学部)
三重師範学校(三重大学学芸学部)
滋賀師範学校(滋賀大学学芸学部)
京都師範学校(京都学芸大学学芸学部)
大阪第一師範学校(大阪学芸大学学芸学部)
大阪第二師範学校(同上)
兵庫師範学校(神戸大学教育学部)
奈良師範学校(奈良学芸大学学芸学部)
和歌山師範学校(和歌山大学学芸学部)
鳥取師範学校(鳥取大学学芸学部)
島根師範学校(島根大学教育学部)
岡山師範学校(岡山大学教育学部)
広島師範学校(広島大学教育学部)
山口師範学校(山口大学教育学部)
徳島師範学校(徳島大学教育学部→鳴門教育大学)
香川師範学校(香川大学学芸学部)
愛媛師範学校(愛媛大学教育学部)
高知師範学校(高知大学教育学部)
福岡第一師範学校(福岡学芸大学学芸学部)
福岡第二師範学校(同上)
佐賀師範学校(佐賀大学教育学部)
長崎師範学校(長崎大学学芸学部)
熊本師範学校(熊本大学教育学部)
大分師範学校(大分大学学芸学部)
宮崎師範学校(宮崎大学学芸学部)
鹿児島師範学校(鹿児島大学教育学部)
沖縄師範学校
樺太
樺太師範学校
朝鮮
京城師範学校(ソウル大学校師範大学)
大邱師範学校(慶北大学校師範大学)
平壌師範学校
全州師範学校(全州教育大学校)
咸興師範学校
光州師範学校(光州教育大学校)
春川師範学校(春川教育大学校)
晋州師範学校(晋州教育大学校)
清州師範学校(清州教育大学校)
新義州師範学校
清津師範学校
海州師範学校
大田師範学校
京城女子師範学校(ソウル大学校師範大学)
公州女子師範学校(公州教育大学校)
元山女子師範学校
関東州
旅順師範学校(女子部は旧・旅順女子師範学校)
台湾
台北師範学校(本科(旧・台北第二師範学校)→国立台北教育大学、予科と女子部(旧・台北第一師範学校)→台北市立教育大学)
台中師範学校(本科→国立台中教育大学、予科(旧・新竹師範学校)→国立新竹教育大学)
台南師範学校(本科→国立台南大学、予科(旧・屏東師範学校)→国立屏東教育大学)
青年師範学校 [編集]
1944年の師範教育令改正により、青年学校の教員養成をしていた都道(庁)府県立の青年学校教員養成所が、官立の、専門学校レベルの教育機関である青年師範学校になった。予科を修了した者、中学校または高等女学校を卒業した者が入学でき、男子部と女子部がおかれていた。全国に以下の青年師範学校があった。カッコ内は新制大学。
樺太青年師範学校
青森青年師範学校(弘前大学教育学部)
岩手青年師範学校(岩手大学学芸学部)
秋田青年師範学校(秋田大学学芸学部)
山形青年師範学校(山形大学教育学部)
福島青年師範学校(福島大学学芸学部)
茨城青年師範学校(茨城大学教育学部)
群馬青年師範学校(群馬大学学芸学部)
埼玉青年師範学校(埼玉大学教育学部)
千葉青年師範学校(千葉大学教育学部)
新潟青年師範学校(新潟大学教育学部)
富山青年師範学校(富山大学教育学部)
石川青年師範学校(金沢大学教育学部)
福井青年師範学校(福井大学学芸学部)
山梨青年師範学校(山梨大学学芸学部)
長野青年師範学校(信州大学教育学部)
岐阜青年師範学校(岐阜大学学芸学部)
静岡青年師範学校(静岡大学教育学部)
宮城青年師範学校(東北大学教育学部→宮城教育大学)
三重青年師範学校(三重大学学芸学部)
滋賀青年師範学校(滋賀大学学芸学部)
兵庫青年師範学校(神戸大学教育学部)
鳥取青年師範学校(鳥取大学学芸学部)
島根青年師範学校(島根大学教育学部)
岡山青年師範学校(岡山大学教育学部)
広島青年師範学校(広島大学教育学部)
山口青年師範学校(山口大学教育学部)
徳島青年師範学校(徳島大学学芸学部)
香川青年師範学校(香川大学学芸学部)
愛媛青年師範学校(愛媛大学教育学部)
高知青年師範学校(高知大学教育学部)
佐賀青年師範学校(佐賀大学教育学部)
長崎青年師範学校(長崎大学学芸学部)
熊本青年師範学校(熊本大学教育学部)
大分青年師範学校(大分大学学芸学部)
宮崎青年師範学校(宮崎大学学芸学部)
沖縄青年師範学校
彰化青年師範学校(台湾彰化にあった、廃止)
東京青年師範学校(東京学芸大学学芸学部)
愛知青年師範学校(愛知学芸大学学芸学部)
京都青年師範学校(京都学芸大学学芸学部)
大阪青年師範学校(大阪府立浪速大学教育学部)
奈良青年師範学校(奈良学芸大学学芸学部)
福岡青年師範学校(福岡学芸大学学芸学部)
北海道青年師範学校(北海道学芸大学岩見沢分校)
神奈川青年師範学校(横浜国立大学学芸学部)
栃木青年師範学校(宇都宮大学学芸学部)
和歌山青年師範学校(和歌山大学学芸学部)
鹿児島青年師範学校(鹿児島大学教育学部)
その他の教員養成機関 [編集]
師範学校以外の官立教員養成学校 [編集]
帝国大学及び官立専門学校 専門学科の他教育に関する一定の科目を修了した者にも中学校、高等女学校の免許状が授与された。
臨時教員養成所 師範学校、中学校、高等女学校の教員養成
実業学校教員養成所 実業学校の教員養成
実業補習学校教員養成所 道府県市において設置される実業補習学校の教員養成
臨時教員養成所 [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
高等師範学校とは別に帝国大学及び直轄諸学校内に臨時教員養成所が設けられ、師範学校、中学校、高等女学校の教員不足の解消が図られた。ことに大正末から昭和初期にかけては、臨時教員養成所の定員は高等師範学校の定員の半分を超える規模で(1926年(大正15年)当時:臨時教員養成所生徒数1542名、高等師範学校生徒数2719名)、多数の中学校教員を供給するなど、大きな役割を果たした。臨時教員養成所官制(1902年(明治35年)3月28日勅令第百号)
第一期(1902年臨時教員養成所規程制定~)
第一臨時教員養成所 東京帝国大学
第二臨時教員養成所 第一高等学校
第三臨時教員養成所 第二高等学校
第四臨時教員養成所 第三高等学校
第五臨時教員養成所 東京外国語学校
第六臨時教員養成所 東京女子高等師範学校
第二期(1922年臨時教員養成所規程改正頃)
第一臨時教員養成所 東京高等師範学校、東京文理科大学(1922年 - 1944年)
第二臨時教員養成所 広島高等師範学校(1922年 - 1937年)
第三臨時教員養成所 奈良女子高等師範学校(1922年 - 1931年)
第四臨時教員養成所 東京音楽学校(1922年 - 1931年)
第五臨時教員養成所 大阪外国語学校(1922年 - 1927年)
第六臨時教員養成所 東京女子高等師範学校(- 1938年)
第七臨時教員養成所 京都帝国大学(1923年 - 1930年)
第八臨時教員養成所 九州帝国大学(1913年 - 1932年)
第九臨時教員養成所 東北帝国大学(1923年 - 1932年)
第十臨時教員養成所 第四高等学校(1923年 - 1931年)
第十一臨時教員養成所 浜松高等工業学校(1924年 - 1930年)
第十二臨時教員養成所 東京外国語学校(1926年 - 1930年)
第十三臨時教員養成所 第五高等学校(1913年 - 1931年)
第十四臨時教員養成所 小樽高等商業学校(1927年 - 1929年)
第十五臨時教員養成所 佐賀高等学校(1929年 - 1930年)
第十六臨時教員養成所 北海道帝国大学(1929年)
第三期(戦時体制下)
東京臨時教員養成所 東京文理科大学(1941年 - 1942年)
浜松臨時教員養成所 浜松高等工業学校(1940年 - 1942年)
広島臨時教員養成所 広島文理科大学(1941年 - 1948年)
名古屋臨時教員養成所 名古屋高等工業学校(1911年 - 1942年)
大阪臨時教員養成所 大阪帝国大学(1942年 - 1943年)
札幌臨時教員養成所 北海道帝国大学(1943年)
仙台臨時教員養成所 東北帝国大学(1942年 - 1943年)
福岡臨時教員養成所 九州帝国大学(1942年 - 1943年)
実業学校教員養成所 [編集]
大学および直轄諸学校内に実業学校教員の養成所が設置された。実業学校教員養成規程(1899年制定)
農業教員養成所→東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所(1899年)→東京帝国大学農学部附属農業教員養成所→東京農業教育専門学校(→東京教育大学)として独立
東京高等商業学校附設商業教員養成所(1899年-)→東京商科大学附属商業教員養成所→1949年5月廃止
東京高等工業学校附設工業教員養成所(1899年-)→東京工業大学附属高等工業教員養成所
大阪高等工業学校附設工業教員養成所(1920年-)→大阪工業専門学校附設工業教員養成所
横浜高等工業学校附設工業教員養成所(1929年-)→横浜工業専門学校附設工業教員養成所
名古屋高等工業学校附設工業教員養成所(1929年-)→名古屋工業専門学校附設工業教員養成所
熊本高等工業学校附設工業臨時教員養成所(1939年)→熊本工業専門学校附設工業教員養成所
広島高等工業学校附設工業教員養成所(1939年)→広島工業専門学校附設工業教員養成所
仙台高等工業学校附設工業教員養成所(1943年)→仙台工業専門学校附設工業教員養成所
金沢高等工業学校附設工業教員養成所(1943年)→金沢工業専門学校附設工業教員養成所
室蘭工業専門学校附設工業教員養成所(1945年)
多賀工業専門学校附設工業教員養成所
これらは学制改革でそれぞれ東京工業大学・熊本大学・広島大学・室蘭工業大学・茨城大学・金沢大学・東北大学の一部となって、商業教員養成課程・工業教員養成課程が設置された。
私立大学高等師範部(科)・師範科 [編集]
私立大学専門部(大学専門部 (旧制)=専門学校令による専門学校にあたる)・私立専門学校に、師範学校・中学校、高等女学校の教員を養成するための高等師範部・高等師範科が、小学校の教員を養成するための師範科が、設置された。
日本大学専門部高等師範科(1901年) → 日本大学文理学部
早稲田大学専門部高等師範部(1903年) → 早稲田大学教育学部
國學院大學専門部高等師範部(1927年)
駒澤大学専門部高等師範科(1929年)
大正大学専門部高等師範科
法政大学専門部高等師範部
立正大学専門部高等師範科(1925年)
同志社専門学校英語師範部(1922年)
東北学院専門部師範科(1918年)→高等部師範科(1929年)
青山学院高等部英語師範科
日本女子大学師範科
図画、音楽、体育、家庭科教員の養成機関 [編集]
師範学校、高等師範学校などの他に、官立の専門学校、私立の専門学校・各種学校において図画、音楽、体育・武道、教員の養成課程があった。家庭科教員の養成は高等女学校専攻科、女子専門学校が大きな役割を果たしていた。
官立
東京美術学校図画師範科
東京音楽学校甲種師範科
東京高等体育学校(1941年)→東京体育専門学校→東京教育大学→筑波大学
私立
日本体育会体操練習所→日本体育会体操学校→日本体育専門学校→日本体育大学
大日本武徳会武術教員養成所→武術専門学校→武道専門学校
実践高等女学校専攻科・高等師範部→実践女子専門学校→実践女子大学
日本音楽学校高等師範科・師範科
武蔵野音楽学校→武蔵野音楽学校→武蔵野音楽大学
女子美術専門学校師範科
弘前和洋裁縫女学校師範科(1928年)、弘前和洋裁縫女学校高等師範科(1933年) →東北女子大学
関連項目 [編集]
学制改革
学芸学部
教育学部
新制大学
旧官立大学 - 旧二文理大
日本の学校制度の変遷
日本のサッカー
外部リンク [編集]
「女高師から帝国大学に入学した女性たち」文献紹介
関連書籍 [編集]
海後宗臣(監修) 『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年
『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1978年
尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典;1868 - 2000』 東京大学出版会、2001年
「主要高等教育機関一覧」参照
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1
" より作成
カテゴリ: 日本の旧制教育機関 | 日本の師範学校 | 日本の青年師範学校 | 日本の高等師範学校 | 明治時代の教育
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最終更新 2009年4月1日 (水)
【教育関係人物一覧】
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教育関係人物一覧(きょういくかんけいじんぶついちらん)
教育思想家・実践家・教育学者・教育評論家・教育官僚など、教育に関係する人物の一覧。
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目次 [非表示]
1 教育史上の教育関係者(世界)
1.1 古代ギリシア・ローマ
1.2 中世
1.3 ルネサンス・宗教改革(主に14~16世紀)
1.4 啓蒙主義(主に18世紀)
1.5 リアリズム・実学主義(主に17世紀)
1.6 新人文主義(主に18世紀)
1.7 18-9世紀
1.8 20世紀
1.9 20世紀の教授理論提唱者
1.10 障害児教育
2 現代の教育関係者(世界)
3 アジアの教育思想家・実践家
4 古代
5 中世
6 近代
7 教育史上の教育関係者(日本)
7.1 古代
7.2 奈良・平安時代
7.3 鎌倉・室町・安土桃山時代
7.4 江戸時代
7.5 明治(明治・大正)
7.6 大正(明治・大正)
7.7 昭和
7.8 障害児教育
8 現代の教育関係者(日本)
8.1 教育行政
8.1.1 文部官僚
8.2 学者および研究者
8.2.1 教育学の研究者
8.3 教育学以外の研究者
8.4 専門学校教師(専修学校・各種学校)
8.5 小・中・高等学校学校教師
8.6 特別なニーズを持った子供の教育(障害児・不登校児・他)
8.7 教育評論家・ジャーナリスト
8.8 その他
9 関連項目
教育史上の教育関係者(世界) [編集]
古代ギリシア・ローマ [編集]
アリストテレス - リュケイオン、分析。『政治学』
エピクロス
キケロ - ローマ人の教養。『雄弁家論』
クインテリアヌス(en:Quintilian) - 修辞学教科書。家庭教育重視・体罰否定。『雄弁家教育論』
ゼノン
ソクラテス - 問答法。「産婆(助産)術」
ピタゴラス - ピタゴラス教団
プラトン - 哲学者。アカデメイアの創始者『ソクラテスの弁明』『国家』
プロタゴラス
中世 [編集]
アルクィン - カロリングルネサンス
アシジのフランチェスコ - フランチェスコ会
トマス・アクィナス - 神学大全
ドゥンス・スコトゥス
ルネサンス・宗教改革(主に14~16世紀) [編集]
エラスムス - ロッテルダムの教養人。『愚神礼賛』『幼児教育論』
フアン・ルイス・ビベス - 個性に応じた学習指導。新教育の先駆者。『学問伝授論』
フランシスコ・ザビエル
ダンテ・アリギエーリ - 「神曲」の著者。
フルドリッヒ・ツヴィングリ
ペトラルカ
ジョヴァンニ・ボッカッチョ
フィリップ・メランヒトン(en:Philipp Melanchthon)
イグナチウス・ロヨラ
ヴィットリーノ - 体育と遊戯を重んじる楽しい学校「喜びの家」
トマス・モア - イギリスの法律家。すべての子どもに教養が開放される理想郷『ユートピア』
マルティン・ルター - 人文主義の教育理念。すべての人に『教理問答書』の学習を必修とした。
ジャン・カルヴァン - ラテン古典や賛美歌・聖書などの学習をさせる学校を設立。『キリスト教要綱』
フランシス・ベーコン - 学問研究の新方法として帰納法を提唱。『新機関』『理想郷』
ミシェル・ド・モンテーニュ - 社会実学主義を提唱。体罰に反対。『随想録』
ジョン・ミルトン - ピューリタン革命を代表する思想家。教育の自由を主張。
フランソワ・ラブレー - 主著『ガルガンチュア物語』は帝王教育論の系譜に連なる。
啓蒙主義(主に18世紀) [編集]
コンディヤック(en:Etienne Bonnot de Condillac) - フランスの哲学者。
コンドルセ - フランス哲学者。公教育は国民に対する社会の義務だとする。
ルペルチエ - 『国民教育計画』
モンテスキュー『法の精神』
ヴォルテール - 啓蒙思想家
ジャン=ジャック・ルソー - 「エミール」の著者。
リアリズム・実学主義(主に17世紀) [編集]
ラトケ - コメニウス教育の先駆者。
コメニウス - 『世界図会』最初の学習絵本。近代教育の父。事物教授。『大教授学』
ジョン・ロック - 哲学者、家庭教育の手引書。『教育論(教育に関する一考察)』
アウグスト・ヘルマン・フランケ -コメニウスに影響を受ける。彼の思想はプロイセンの教育に影響を与えた。
新人文主義(主に18世紀) [編集]
イマヌエル・カント- 人間学・教育学の講義。『純粋理性批判』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - 教育州の理想。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』
フリードリヒ・フォン・シラー
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ - スイスの貧民、孤児の教育者。直感教授。
フリードリヒ・フレーベル - 幼稚園の生みの親。
ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト-近代教育学の父。教授段階論。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト - ベルリン大学の創設。
ロバート・オウエン - 産業革命期の工場経営者。未成年の就労の禁止、性格教育。
フィヒテ - ペスタロッチの影響を受ける。『ドイツ国民に告ぐ』
フリードリッヒ・シュライエルマッハー - フンボルトに協力。ベルリン大学創設者の一人。
トゥイスコン・ツィラー - ヘルバルト教育学を発展。5段階教授説。『教育的教授論の基礎』
ヴィルヘルム・ライン - ヘルバルト学派。5段階教授説。『体系的教育学』
18-9世紀 [編集]
マシュー・アーノルド - イギリスのパブリックスクールの教育者。
ルイーザ・メイ・オルコット - 「若草物語」の著者。自らも教師。
ピエール・ド・クーベルタン - 近代オリンピックの提唱者。
ウイリアム・スミス・クラーク - 札幌農学校の外国人教師。
ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルンドヴィ(de:Nikolai Frederik Severin Grundtvig) - デンマークのフォルケホイスコーレの生みの親。
クリステン・コル(da:Christen Kold) - デンマークの教育者で、フォルケホイスコーレ運動の創始者。
クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン - ドイツの教育者。『かにの本』
ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ - ザルツマンの学校で働く。近代体育の父。
ジェファーソン - アメリカの政治家。公費による初等教育の普及。
ハーバート・スペンサー - イギリス人。功利主義的教育論。『教育論(知育・徳育・体育)』
フリードリッヒ・ディースターヴェーク - ギムナジウム教師。ペスタロッチ主義者。国民学校教育の改革。国民議会にも進出。
ヴィルヘルム・ディルタイ - ドイツの哲学者。精神科学的教育学の祖。文化教育学の源流。
アドルフ・ドゥエイ - フレーベル幼稚園のアメリカへの紹介者。
ジョン・ヘンリー・ニューマン
ロバート・ベーデン=パウエル - ボーイスカウト (Scouting) の創立者。
トマス・ヘンリー・ハクスリー - 進化論者として知られる。
ヨハン・ベルンハルト・バゼドウ - ドイツの教育学者。汎愛学院創立者。学舎の運営にはザルツマンも参加。
サミュエル・バトラー (教師)
ジョン・ヘイドン・バドレー - イギリスの教育者。ビデールス校の創始者。
ジャン・アンリ・ファーブル - 元中学校教師、子どものための科学読み物の著者。
アンドリュー・ベル - スコットランドの聖職者、教育者。ベル・ランカスター法の先駆者。
ヨハネ・ボスコ - イタリアのカトリック司祭。非行少年の予防教育。
ホーレス・マン - アメリカ公立学校の父。公立・無償・中立の公立学校。『民衆教育論』
ジョン・スチュアート・ミル 『自由論』
ジャン=バティスト・ド・ラ・サール - フランスの司教、教育者。貧困児教育。
ジョセフ・ランカスター - 教育者。ベル・ランカスター教育法。
シャルル・ミシェル・ド・レペー - フランスの聾唖教育の先駆者。
フリードリッヒ・エーベルハルト・フォン・ロヒョウ - バゼドウの影響を受ける。『子どもの友』
ウシンスキー - ロシア教育科学の父。『母語』『子どもの教育』
エドワード・オースティン・シェルドン(Edward Austin Sheldon) - アメリカの教育者。ペスタロッチ教育学・教授法をアメリカの教員養成校に導入した。
20世紀 [編集]
メアリー・キダー - フェリス女学院の創立。
エルンスト・クリーク - ドイツ人。ナチス教育の理論的根拠。『教育哲学』
ナデジダ・クルプスカヤ-ロシアの革命家(レーニンの妻)。ソ連邦の教育学者。
エレン・ケイ - 「児童の世紀」の著者。スウェーデンの女性ジャーナリスト。
パウル・ゲヘープ - スイスのエコール・ド・フマニテの創立者。
ゲオルグ・ケルシェンシュタイナー - ドイツの教育学者。『公民教育の概念』『労作教育の概念』
ヤヌシュ・コルチャック - 医師、ゲットーでのユダヤ人孤児の教育。
エドゥアルト・シュプランガー - ドイツ人。理想的な人間を理論的・審美的・経済的・社会的・政治的・宗教的の6つに分類。『文化と教育』
ルドルフ・シュタイナー - 宗教家、シュタイナー学校を創設。
ラビンドラナート・タゴール - 学校創設者、詩人。
クララ・ツェトキン - 女性解放運動。
エミール・デュルケム - フランス人。宗教に依存しない道徳教育。『教育と社会学』
オヴィド・ドクロリ(en:Ovide Decroly) - ベルギー人。観察・連合・表現の3段階総合教育。『ドクロリ・メソッド』
ドモラン - フランス人。「ロッシュの学校」『新教育』
パウル・ナトルプ - ドイツの哲学者で、社会教育の提唱者。『社会的教育学』
パーシー・ナン(Sir Thomas Percy Nunn) - イギリスの新教育の実践家。「自己表現の教育学」。
A・S・ニイル - サマーヒルスクール。
ヘルマン・ノール - 精神科学的教育学。教育的関係。
フランシス・パーカー - アメリカ人。進歩主義教育の父。『中心統合法の理論』
ハロルド・E・パーマー - 英語教育、財団法人語学教育研究所初代所長。
ジャン・ピアジェ - 心理学者。
レフ・ヴィゴツキー - 心理学者。
グスタフ・ヴィネケン - ドイツの改革教育者・ヴィッカースドルフ校を創立。
レオ・ブスカーリア - 教育学者
ヴィルヘルム・フリットナー - 精神科学的教育学。
セレスティン・フレネ - フランスの教育者。フレネ教育を創始。『フランスの現代学校』
ヤコブ・ブロノフスキー(Jacob Bronowski) - ポーランド生まれの科学者。ジェネラリスト。教養の意味と歴史についての啓蒙家。
ブルーノ・ベッテルハイム - 心理学者。
アルフレート・ボイムラー - ナチズムの教育学者。
ジョン・ホルト - 学ぶことの意味。
A・S・ホーンビー - 英語教育、辞書。
オットー・フリードリッヒ・ボルノウ - ディルタイとハイデッガーに影響を受ける。『実存哲学と教育学』
A・S・マカレンコ - ロシアの教育者。非行少年のコムーナでの集団主義教育の実践。
マリア・モンテッソーリ - 医師、障害児教育から幼児教育へ
ジョン・ラスキン - 芸術教育運動。
アンリ・ワロン - 心理学者。
バートランド・ラッセル - イギリス人。教育の平等を主張。『教育と社会体制』
ヘルマン・リーツ - ドイツの田園教育塾の生みの親。
テオドール・リット - 精神科学的教育学。「指導か放任か」。
アルフレッド・リヒトヴァルク(de:Alfred Lichtwark) - ハンブルグ芸術教育運動の指導者。
ホーマー・レイン - リトル・コモンウェルスの創始者、教育者。
セシル・レディ - イギリスの新教育の推進者。
20世紀の教授理論提唱者 [編集]
ジョン・デューイ - アメリカの教育学者、哲学者。「問題解決学習」「単元学習」『学校と社会』『民主主義と教育』
ウィリアム・ヒアド・キルパトリック - アメリカの教育学者。デューイの弟子。「プロジェクトメソッド」
ウォッシュバーン - アメリカの新教育の推進者。「ウィネトカ・プラン」
ヘレン・パーカースト - アメリカの教育者。「ドルトン・プラン」の提唱。
モリソン - アメリカの教育学者。「モリソン・プラン」『中等学校における教育実践』
ペーター・ペーターゼン - ドイツの教育学者。「イェナ・プラン」『教育の根源』
ハインペル - ワーゲンシャインとともに「範例教授法」
バラス・スキナー - 「プログラム学習」
ジェローム・ブルーナー - アメリカの心理学者。教育の現代化運動推進者。「発見学習」
デビット・オースベル(en:David Ausubel) - 「有意味受容学習」。教育心理学者。
ベンジャミン・ブルーム - 「完全習得学習」
ケッペル - 「チームティーチング」
ワート - ゲーリー・システム。
障害児教育 [編集]
ヴァレンタン・アュイ -(en:Valentin Haüy)西洋最初の盲学校。フランス。
ジャン・イタール - アヴェロンの野生児
ウォナー - ロンドン医師。知的障害調査。
ヴォルフ・ヴォルフェンスベルガー(Wolf Wolfensberger) - アメリカのノーマリゼーション研究者。
エスキロル - 精神科医。セガンの師。
トーマス・ホプキンズ・ギャローデット -アメリカ最初のろう学校。
エドワード・マイナー・ギャローデット -手話法のろう学校。
グッゲンビュール - クレンチ病治療。重度知的障害児教育。
J・W・クライン -盲学校。ドイツ。
クリュックシャンク - 脳性まひ児の図ー地関係知覚障害の研究。
コノリー - 精神科医。知的障害児教育。
アン・サリヴァン - ヘレン・ケラーの家庭教師(奇跡の人)。
アペ・シカール -ド・レペの後継者。フランス。
エドワード・セガン(en:Edouard Seguin) - 「白痴の使徒」「白痴のマグナカルタ」
サミュエル・グリドリー・ハウ(en:Samuel Gridley Howe) - パーキンス盲学校(アメリカ二番目)。
シュトラウス- 内因性知能障害・外因性知能障害。
ルイ・ブライユ -点字の創始者。フランス。
ブレイドウッド - 口話法の聴覚障害児教育。イギリス。
サミュエル・ハイニッケ(de:Samuel Heinicke) - 口話法確立。ドイツ。
D・ハリス - 学校調査。
ヘラー - 治療教育学
F・M・ヒル - ドイツ口話教授法。
ホワイト姉妹 - 1846年ロンドンに知的障害児の施設。
マイクルバスト - 学習障害研究。
ニルス・エリク・バンク-ミケルセン(Nils・Erik・Bank-Mikkelsen.) - 「ノーマライゼーション」
ベンクト・ニィリエ(Bengt Nirje ) - 障害児問題の理論的指導者。「ノーマライゼーション」
リーバーマン - 専門職性の規定。
シャルル・ミシェル・ド・レペー -西洋世界で最初の障害児教育。フランス。
現代の教育関係者(世界) [編集]
オルセン - アメリカの教育学者。コミュニティスクールの実践を理論化。『学校と地域社会』
ポール・ラングラン - ユネスコの教育行政家。
イヴァン・イリイチ - 元カトリック聖職者、脱学校論。
ジェサップ - イギリス人。生涯学習推進者。『生涯学習』
ジェルピ - ラングランの後任。自己決定学習を提唱。『生涯教育-抑圧と解放の弁証法』
エーリヒ・フロム - to have to be を主張。『生きるということ』
ハーバート・ギンタス - 教育を通じた階層化の研究で著名。アメリカのラディカル派経済学者。
ポール・グッドマン - 作家でありアナーキスト。『ゲシュタルト療法』
ジョナサン・コゾル - 元教員。教育、特に社会的底辺のそれをテーマにエッセイ、講演多数。
ベル・フックス - ジェンダーと教育。
トニー・ブザン - マインドマップの提唱者
パウロ・フレイレ - ブラジル、識字教育の実践。
サミュエル・ボールズ - 教育を通じた階層化の研究で著名。アメリカのラディカル派経済学者。
ピーター・マクラーレン - 批判教育学の代表者。
ガストン・ミヤラレ - フランスの教育科学の代表者。
ロン・ミラー - ホリスティック教育の提唱者。
ピーター・ミルワード - 上智大学教授。イギリスの教育と教養について著作多数。
クラウス・モーレンハウアー - フランクフルト学派に依拠した教育批判。
エヴァレット・ライマー- 「学校は死んでいる」の著者。
デビット・リースマン - 社会学者。アメリカの高等教育についての著作多数。
オリヴィエ・ルブール - 「教育とは何か」の著者
アジアの教育思想家・実践家 [編集]
古代 [編集]
孔子
孟子
墨子
荀子
中世 [編集]
イブン・トファイル - 12世紀のイスラムの哲学者。
ガザーリー - 12世紀イスラムの思想家。
世宗 (朝鮮王)
王陽明
近代 [編集]
陶行知
蔡元培
徐特立
マハトマ・ガンディー - 無抵抗の教え
ラビンドラナート・タゴール - 森の学校
教育史上の教育関係者(日本) [編集]
古代 [編集]
山上憶良
奈良・平安時代 [編集]
石上宅嗣
最澄 - 指導僧養成
空海 - 僧侶養成教育
聖徳太子 - 賢哲政治
吉備真備
菅原道真 - 菅家廊下
鎌倉・室町・安土桃山時代 [編集]
親鸞-人間存在そのものへの愛
栄西
道元-指導僧養成
日蓮-天台教学
北条実時
上杉憲実 - 足利学校の中興の祖
観阿弥
世阿弥 - 芸道の教育
江戸時代 [編集]
新井白石 -「折りたく柴の記」
安藤昌益 - 直耕自然 『自然真営道』
池田光政 - 閑谷学校
石田梅岩 - 心学講舎 『都ヒ問答』
伊藤仁斎 - 古義堂 『童子問』 古学派
井上金峨 - 折衷学 粥講 医学塾・躋寿館
大槻玄沢 - 芝蘭堂
緒方洪庵 - 適塾(適々塾)『病学通論』
大原幽学 - 教導所改心楼 「性理学」
荻生徂徠 - ?園塾 古学派
貝原益軒 -「和俗童子訓」、日本最初の体系的な教育書。
海保漁村 - 考証学 私塾掃葉軒。鳩山和夫や渋沢栄一の師。
香月牛山 -「小児必用養育草」、医師が書いた育児書。
菅茶山 - 頼山陽の師。黄葉夕陽村舎 後の廉塾
木下順庵 - 新井白石など木門十哲の師。
熊沢蕃山 -『集義和書』庶民教育の場「花園会」
児玉南柯 - 私塾遷喬館
佐久間象山 - 象山書院 「東洋道徳西洋芸術」
シーボルト - 鳴滝塾
藤原惺窩 - 朱子学程朱学派。林羅山など惺窩門四天王の師。
中井竹山 - 懐徳堂
中江藤樹 - 陽明学 藤樹書院 『翁問答』
中村惕斎 - 日本で最初の絵入り百科辞典
二宮尊徳 - 村おこしの教育
林羅山 - 昌平黌(こう)。後の昌平坂学問所
広瀬淡窓 - 咸宜園(かんぎえん)
細井平洲 - エイ鳴館
吉田松陰 - 松下村塾『講孟余話』
山鹿素行 - 古学派
山崎闇斎 - 闇斎学(朱子学一派)垂加神道
山本北山 - 孔子学 私塾奚疑塾 北山門十哲など弟子多数
室鳩巣 - 幕府(徳川家宣、家継、吉宗)の儒学者。
本居宣長 - 門人教育 『古事記伝』
頼春水 - 寛政の三博士 私塾青山社。頼山陽の父
良寛 - 「愛語」子どもを無上の友
明治(明治・大正) [編集]
井口阿くり - 女子体育教育の母
伊沢修二 - 『教育学』日本人による最初の教育学書 「小学唱歌集」編集
石井十次
市河三喜 - 英語学、英語教育
伊藤博文 - 教育議
井上円了 - 東洋大学、京北学園の創立者
井上毅 - 教育勅語起草
内村鑑三 - キリスト教教育・教育勅語事件
海老名弾正 - キリスト教教育
大隈重信 - 早稲田大学の創立者
押川方義 - 東北学院、宮城学院の創立者
岡倉天心 - 東京美術学校 『茶の本』
乙竹岩造 - 『日本庶民教育史』
桂太郎 - 拓殖大学の創立
嘉納治五郎 - 高等師範学校長
菊池大麓 - 教育行政官、日本で初めて西洋数学を教授
小西重直 - 教育学者・滝川事件
斎藤秀三郎 - 英語教育
下田歌子 - 女子教育 実践女学校
柴田徳次郎 - 国士舘の創立者
幣原坦 - 教育行政官
高橋是清 - 開成学園
高嶺秀夫 - 開発主義教育
田中不二麿 - 教育令制定に尽力
谷本富 - ヘルバルト主義、『系統的新教育学綱要』
手島精一 - 工業教育
津田梅子 - 女子教育 後の津田塾大学
成瀬仁蔵 - 日本女子大学
中村正直 - 同人社 教育勅語起草
西村茂樹 - 明六社 『日本道徳論』
新渡戸稲造 - 『武士道』の著者。
新島襄 - 同志社の創立、キリスト教教育
ハウスクネヒト - ヘルバルト派教育学を伝える。
福澤諭吉 - 慶應義塾創始者『学問のすゝめ』
保科百助 - 鉱物学者、理科教育
元田永孚 - 教育勅語起草
森有礼 - 最初の文部大臣
モルノー - 教育令草案作成
三島中洲 - 二松學舍の創立、漢学者
渡辺辰五郎 - 女子教育、服装教育の第一人者、東京家政大学創立、共立女子大学創立関与
渡辺嘉重 - 日本で最初の子守学校の創立者。
大正(明治・大正) [編集]
赤井米吉 - 明星学園『愛と理性の教育』
芦田惠之助 - 綴り方教育の実践家
石川啄木 - 自称日本一の代用教員『林中日記』
稲毛金七 - 「創造教育論」
上田庄三郎 - 教育評論雑誌『観念工場』創刊、教育労働運動
及川平治 - 「自動的教育論」分団的動的教育
岡田良平 - 文部大臣、教科書国定化
小倉金之助 - 数学者『数学教育史』
小原國芳 - 「全人教育論」 玉川学園の創立者
片上伸 - 「文芸教育論」
北沢種一 - 奈良女高師範付属小
木下竹次 - 合科学習法『学習原論』
河野清丸 - 「自動教育論」
小砂丘忠義 - 生活綴り方運動
沢柳政太郎 - 文部官僚、京大総長、のち成城学園を創立、大正大学学長
椙山正弌 - 椙山女学園創設者で初代学長、理事長
鈴木三重吉 - 児童雑誌「赤い鳥」主宰。
千葉命吉 - 「一切衝動皆満足論」
田澤義鋪 - 政治家、教育者。青年団教育の父。
手塚岸衛 - 「自由教育論」 千葉県師範付属小
中村春二 - 成蹊学園
野口援太郎 - 和製ペスタロッチ、池袋子どもの村小学校の創立者。
羽仁もと子 - 自由学園の創立者。
樋口勘次郎 - 『統合主義新教授法』
樋口長市 - 「自学教育論」
廣池千九郎 - モラルロジーの提唱者。モラロジー研究所。
牧口常三郎 - 創価教育学の提唱者
山本鼎 - 自由画教育運動「芸術自由教育」
昭和 [編集]
天野貞祐 -獨協大学創設者。
稲富栄次郎 - 西洋教育史。上智大学教授。
井上赳- 「サクラ読本」編集。
板垣昭一- 国語教育、主として読み方教育の実践家。
糸賀一雄 - 「福祉の思想」
梅根悟 - 和光学園創設
奥田靖雄 - 国語教育の理論的指導者、教育科学研究会・国語部会の指導者
長田新 - 広島大学教授、ペスタロッチー研究者
城戸幡太郎 - 教育科学研究会の創設
倉橋惣三 - 幼児教育の父
国分一太郎 - 国語教育、作文教育(生活綴り方教育)の理論的指導者
斎藤喜博 - 島小校長『授業入門』
篠原助市 - 西洋教育史家『理論的教育学』
下中弥三郎 - 日本最初の教職員組合
荘司雅子 - フレーベル研究者。
下程勇吉 - 教育人間学の提唱者。
下村湖人 - 教育者、作家。
皇至道 - 広島大学教授、教育学者 教育行財政学
高橋是清 - 開成学園。
田宮輝夫- 生活綴方、作文教育
東上高志 - 同和教育の研究者
遠山啓 - 数学教育の推進者、「水道方式」を確立
留岡幸助 - 北海道家庭学校の創立者
長尾十三二 - ペスタロッチ研究、教育史
野村芳兵衛 - 池袋児童の村小学校の訓導
橋田邦彦 - 国民学校制度
長谷川保 - 福祉
三浦修吾 - 『学校教師論』の著者
宮崎典男 - 国語教育、教育科学研究会・国語部会の理論家、生活指導
宮原誠一 - 教育学者、教育科学研究会再建運動
村井実 - 「かにの本」、教育学者。慶應義塾大学教授。
無着成恭 - 生活綴方、『山びこ学校』、言語教育(『続・山びこ学校』)
森信三 - 『修身教授論』で知られる。
藪内敬治郎 -奈良大学(正強学園)創立者
山下徳治 - プロレタリア教育運動
清水安三 - 桜美林学園。
障害児教育 [編集]
熊谷実称 - 学制にのっとった盲学校開設。
フォールズ - スコットランド宣教師。盲唖院設立。
津田仙 - 盲唖院設立に協力。
前島密 - 慈善事業組織「楽善会」
小松彰 - 「楽善会」訓盲院設立。
山尾庸三 -「楽善会訓盲院」に協力。
遠山憲美 - 盲・ろう学校設立意見書。愛媛県士族。
古河太四郎 - 盲・ろう学校設立意見書。
植村正直 - 京都府知事。盲唖院開校。
石井亮一 - 障害児施設。「孤女学院」
脇田良吉 - 「白川学園」
岩崎佐一 - 「桃花塾」
川田貞治郎 - 「藤倉学園」「日本心育園」
岡野豊四郎 - 「筑波学園」
島村保徳 - 「大阪教育治療院」
三田谷啓 - 医師。「三田谷治療教育院」
久保寺保久 - 「八幡学園」山下清を育てる。
児玉昌 - 「小金井学園」
田中正雄 - 「広島治療教育学園」(「六方学園」)
鈴木治太郎 - 知能検査を標準化。
高木憲次 - 肢体不自由児の教育の父(肢体不自由者の福祉の父)
石川倉次 - 日本訓盲点字をつくる。
小西信八 - 障害児教育の先覚者。交流教育。
石井筆子 - 障害児施設
現代の教育関係者(日本) [編集]
教育行政 [編集]
有馬朗人 - 元文部大臣・元東大学長
石井郁子 - 議員、教育学者、日本共産党副委員長
石原慎太郎 - 作家、政治家、東京都知事
小尾乕雄 - 学校群制度を実施
河村建夫 - 元文部科学大臣
永井道雄 - 元文部大臣
保坂展人 - 議員、内申書裁判
町村信孝 - 元文部大臣
三浦朱門 - 元教育課程審議会会長
鳩山邦夫 - 元文部大臣
文部官僚 [編集]
文部省・文部科学省出身の人物を参照のこと。
学者および研究者 [編集]
教育学の研究者 [編集]
秋田喜代美 - 教育学者および心理学者(発達心理学)。
天野郁夫 - 教育社会学者。
池田岩太 - 幼児教育・造形保育。
石井隆之 - 英語教育者。近畿大学経済学部総合経済政策学科教授。
板倉聖宣 - 理科教育、仮説実験授業の提唱者。
市川須美子 - 教育法学者。
伊藤健三 - 英語教育。
今井康雄 - 教育学者。
岩永雅也 - 教育学者。
潮木守一 - 教育社会学者
江森英世 - 数学教育。
大沼安史 - チャーター・スクールの紹介者。
奥田靖雄 - 日本語教育(国語教育)。
小野田正利 - 教育制度学・教育行政学者。
勝田守一 - 教育学者。
苅谷剛彦 - 教育社会学者。学力低下についての研究で有名。
黒上晴夫 - 教育工学。
国分一太郎 - 日本語教育(国語教育)、作文教育。
近藤孝弘 - 歴史教育。
駒込武 - 教育学者。京都大学大学院教育学研究科准教授。
斎藤正二 - 教育文化史。
斎藤孝 - 日本語教育
酒井ツギ子 - 教育学者。元国立教育研究所客員研究員。
坂元昂 - 教育学者(教育工学)。
佐藤学 - 教育学者。「学びの共同体」論を展開。
左巻健男 - 理科教育。
清水誠 - 理科教育。
庄司和晃 - 理科教育、宗教教育。
皇紀夫 - 臨床教育学。
高橋智 - 特別ニーズ教育、東京学芸大学教授
高橋史朗 - 臨床教育学者。
滝川洋二 - 理科教育。
竹内常一 - 教育学者。生活指導の研究。
竹内洋 - 教育社会学者。
田中耕治 - 教育学者
恒吉僚子 - 比較教育学者
所澤保孝 - 教育学者(国際理解教育)
中田基昭 - 教育学者(教育哲学)
中原淳 - 教育学者、教育工学
浪本勝年 - 教育学者(教育法学)
水越敏行 - 教育工学
野口芳宏 - 日本語教育
早川由紀夫 - 教育学者および火山学者。
林竹二 - 教育哲学者。ソクラテス的対話による教育。
樋口直宏 - 教育学者(教育方法学)。テーマは批判的思考。
平井信義 - 教育学者
広田照幸 - 教育社会学者
藤田健治 - 哲学的人間学
藤田英典 - 教育社会学者
堀尾輝久 - 教育学者。
本田由紀 - 教育社会学者。若者の労働・就労についての研究。
益田裕充 - 理科教育。
森昭 - 教育人間学、人間形成論。大阪大学教授。
横須賀薫 - 教育学者。教員養成や授業の研究。
横瀬和治 - 英語学者、暁国際学園副校長。
芳沢光雄 - 数学者、数学教育の研究者。
若林俊輔 - 英語教育。
山﨑高哉 - 教育学者。
山本哲士 - 教育学者、政治学者。
和田修二 - 教育学者。
隈部直光 - 英語教育。
葉養正明 - 教育学者。
矢川徳光 - 教育学者、ソヴィエト教育学研究。
渡邊光雄 - 教育学者。
村山英雄 - 教育学者、教育制度論。
教育学以外の研究者 [編集]
荒井一博 - 経済学者。教育問題を経済学的に分析して言及。
上野健爾 - 数学者。学力低下問題(特に数学)について言及。
大野晋 - 国語学者。国語教育に尽力。
グレゴリー・クラーク - 政治学者。国際教養大学副学長、元多摩大学長
佐伯胖 - 認知心理学者。
土井隆義 - 社会学者。いじめ・管理教育について言及。
内藤朝雄 - 社会学者。
西尾幹二 - ドイツ文学研究者。新しい歴史教科書をつくる会。
西村和雄 - 経済学者。学力低下問題(特に数学)について言及。
宮台真司 - 社会学者。現代の若者についての研究をもとに教育にも言及。
吉岡たすく - 児童文化研究家。
専門学校教師(専修学校・各種学校) [編集]
西村公男 - 学校法人愛甲学院理事長・校長、簿記会計のすべて・原価計算の解法)
濱野賢一朗 - リナックスアカデミー学校長、オープンソース教育
小・中・高等学校学校教師 [編集]
今村克彦 - よさこいソーランを教育に応用。関西京都今村組代表。
板垣昭一 - 日本語教育(国語教育)、教育科学研究会・国語部会
大村はま - 国語教育
尾木直樹 - 実践家→評論家。
陰山英男 - 小学校教育 100マス計算
加藤光三 - 岩手県小学校・中学校教師、教育科学研究会・国語部会、教育国語編集長
河上亮一 - 実践家 プロ教師の会
喜入克 - 高校教師
小河勝 - 「小河式算数プリント」で知られる。
庄司和晃 - 小学校教師、仮説実験授業の立役者
長野雅弘 - "学校再建校長"、女子教育の専門家、私立高校校長
樽谷賢二 - 小学校教師
ピーター・ハウレット - 中学校・高校教師、翻訳家、環境問題研究家
長谷川潤 - 中学校教師
藤原和博 - 「よのなかnet」主宰
堀真一郎 - きのくに子どもの村学園
本城慎之介 - 横浜市立東山田中学校校長
松下哲哉 - 高校教師 運動生理(息こらえ)
三上満 - 実践家、労働組合活動家 金八先生のモデル
水谷修 - 夜間高校教諭、夜回り先生
向山洋一 - 「教育技術法則化運動」代表 教育の商業化に成功
義家弘介 - ヤンキー先生
米村でんじろう - 理科教育、教育プロデューサー
有本淳一 - 高校教師、天文教育、天文ボランティアとして活動
深谷圭助 - 小学校教育、辞書引き学習法
特別なニーズを持った子供の教育(障害児・不登校児・他) [編集]
アルフォンス・デーケン - 死の準備教育、死生学
奥地圭子 - 東京シューレ代表
沢田美喜 - エリザベス・サンダースホームの創立者
鈴木鎮一 - 音楽教育の実践家。スズキ・メソードの開発。
高橋幸子 - みみずの学校元校腸(こうちょう)
竹内敏晴 - 演出家、からだとことばのレッスン
谷昌恒 - 北海道家庭学校元校長
戸塚宏 - 戸塚ヨットスクール創始者
鳥山敏子 - 賢治の学校主宰。
福井達雨 - 止揚学園園長
宮城まり子 - 歌手、ねむの木学園
牟田武生 - 不登校・引きこもりの実践・臨床研究。NPO法人教育研究所理事長。
教育評論家・ジャーナリスト [編集]
阿部進 - 教育評論家、子ども電話相談
河西善治 - 教育評論家
斎藤貴男 - ジャーナリスト
島崎直也 - ケミカルエンターテイナー
曽野綾子 - 教育改革国民会議
高木幹夫 - 日能研社長
中井浩一 - ジャーナリスト
原田隆史 - カリスマ体育教師 態度教育
濤川栄太 - 教育評論家
吉岡忍 - 教育ジャーナリスト
山本国和-政治活動家 教育評論家
外山恒一 - 異端的な反管理教育運動家
渡辺真由子 - いじめ・メディア評論家
その他 [編集]
大橋憲三(おおはし けんぞう) - 駿台予備学校化学科非常勤講師
島悟(しま さとる) - 研究分野は、勤労者のメンタルヘルス
末延岑生(すえのぶみちお) - 英語教育学者
村上雄藏(むらかみ ゆうぞう) - 高校教諭のち兵庫県知事認可(後学校法人)の予備校神戸セミナーを創立
関連項目 [編集]
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最終更新 2009年3月20日 (金)
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端島 (長崎県)
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この項目では、長崎県長崎市の端島について記述しています。山口県岩国市の端島については端島 (山口県)をご覧ください。
端島(南西側、2009年撮影)
端島(北東側、2006年撮影)。左:小中学校(70号棟)、中央:鉱員社宅(65号棟)、右手前:端島病院(68・69号棟)、中央手前:ちどり荘(教員用住宅)端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れ現在は無人島である。その外観から軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
2.1 行政区域の変遷
3 島内の建築物
3.1 建造物(住宅等)の一覧
3.2 30号棟
3.3 日給社宅
3.4 65号棟
3.5 その他の建築物
4 現状
5 交通アクセス
6 端島を舞台とした作品など
7 その他
8 脚注
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
地理 [編集]
端島(軍艦島)の位置長崎港から南西の海上約17.5キロメートル[1]、旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島からは、南南西に約2.5キロメートルの位置にある。長崎半島との距離は約4.5キロメートルで、1955年以前は長崎半島の高浜村に属していた。端島と高島の間には「中ノ島」という小さな無人島があり、端島の住民が使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。
端島は本来は、現在の3分の1ほどの面積しかない小さな瀬であった[2](当時の瀬の大きさは南北約320メートル、東西約120メートル[3])。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって拡張したものが、現在の端島である[3][4]。その大きさは南北に約480メートル[3][4]、東西に約160メートル[3][4]で、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール[5]、海岸線の全長は約1200メートル[6]。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
歴史 [編集]
端島(軍艦島)の埋立の歴史端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[7]。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされ(発見者は不明)[8][9][10]、これは日本における石炭の発見(三池では15世紀頃)や隣の高島でのそれ(1700年頃)よりもだいぶ遅い[8](この頃には既に高島炭鉱から相当な量の石炭が産出され[11]、燃料として使用されていた)。しかし『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(埋め立てにより現在は高島の一部となっている)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[12]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[12]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[12][7]。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)[7]。
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった[8]。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた[13]。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である[13]。
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[14]。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって[15]端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)[15]までに成長した。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。
1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[16]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[16][9]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし「軍艦島」とはあくまで外部からの呼び名であり、島民は専ら「端島」と呼んでいた。また、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートはまだ少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。
戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだという逸話があるが、実際は停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を狙って撃沈したもの(1945年6月11日)であった[17]。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[18]。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[19]。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年(昭和40年)に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた[20]。
行政区域の変遷 [編集]
江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していた[7][21]。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、安永2年(1773年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていない[12]。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村大字端島となる。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入された。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、現在は長崎市高島町端島となっている。
島内の建築物 [編集]
端島の地図。紫は炭鉱関連施設(ほとんどが閉山時に破壊されたか、風雨により自然に倒壊している)、青は鉱員社宅、水色は職員社宅、緑はその他の住宅・公共施設等。2009年4月現在、見学(立ち入り)が許可されているのは赤色の見学通路・見学広場のみ。端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである[22](ただし1916年の竣工時は4階建て)。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった。
高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず[23](1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であった[24]が、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。
岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)に建てられた。正式名称は『肥前端島灯台』。現在の灯台は、1998年に強化プラスチック製で建て替えられた2代目である。
建造物(住宅等)の一覧 [編集]
「建設年代」は、大正時代を赤、昭和(戦前・戦中)を緑、昭和(戦後)を青で色分けしている。「構造・階数」の背景色は木造を赤、鉄筋コンクリート造(RC造)を青、その他を緑とし、「建物用途」は上記の図に同じ。
建物名 建設年代 構造・階数 建物用途 住居戸数・増築歴・内部の公共施設・倒壊の有無
1号棟 1936年(昭和11年) RC+木造1F 端島神社 拝殿は木造(全壊)、本殿と境内はRC造(現存)
2号棟 1950年(昭和25年) RC造3F 職員社宅 9戸
3号棟 1959年(昭和34年) RC造4F 職員社宅 20戸。内風呂あり(集合住宅では3号棟のみ)
5号棟 1950年(昭和25年) 木造2F 鉱長社宅 1戸。内風呂あり。ほぼ全壊
6号棟 1936年(昭和11年) 木造2F 職員合宿 全壊
7号棟 1953年(昭和28年) 木造2F 職員クラブハウス ほぼ全壊
8号棟 1919年(大正8年) RC+木造3F 職員社宅 4戸。1階に共同浴場
12号棟 1925年(大正14年)以前 木造+鉄筋3F 職員社宅 3戸。半壊
13号棟 1967年(昭和42年) RC造4F 町営住宅(教職員用) 12戸
14号棟 1941年(昭和16年) RC造5F 職員社宅(中央社宅) 15戸
16号棟 1918年(大正7年) RC造9F 鉱員社宅(日給社宅) 66戸。1階に外勤詰所
17号棟 1918年(大正7年) RC造9F 鉱員社宅(日給社宅) 54戸。屋上に簡易遊園地
18号棟 1918年(大正7年) RC造9F 鉱員社宅(日給社宅) 50戸。屋上に農園
19号棟 1918年(大正7年) RC造9F 鉱員社宅(日給社宅) 45戸。屋上に弓道場
20号棟 1918年(大正7年) RC造7F 鉱員社宅(日給社宅) 26戸
21号棟 1954年(昭和29年) RC造5F 鉱員社宅 15戸。内部に警察派出所
22号棟 1953年(昭和28年) RC造5F 町営住宅(公務員用) 12戸。1階に町役場端島支所
23号棟 1921年(大正10年) 木造2F 寺院(泉福寺) 6戸。1階は社宅、2階が泉福寺。ほぼ全壊
25号棟 1931年(昭和6年) RC造5F 職員社宅 6戸。2階に宿泊所。スナック「白水苑」・旅館「清風荘」も
26号棟 1966年(昭和41年) プレハブ2F 下請作業員飯場(旧船頭小屋) 8戸。全壊
30号棟 1916年(大正5年) RC造7F 下請飯場(旧鉱員社宅) 140戸。竣工時は4階建て(その後まもなく7階建てに増築)。日本最古のRC造アパート
31号棟 1957年(昭和32年) RC造6F 鉱員社宅 51戸。1階に端島郵便局、地下に共同浴場。2階部分をボタ捨てベルトコンベアが貫通
39号棟 1964年(昭和39年) RC造3F 町立端島公民館
48号棟 1955年(昭和30年) RC造5F 鉱員社宅 20戸。地下にパチンコ屋・雀荘など
50号棟 1927年(昭和2年) 鉄骨レンガ造2F 映画館(昭和館) 閉山までの数年間は卓球場。1991年の台風によりほぼ全壊
51号棟 1961年(昭和36年) RC造8F 鉱員社宅 40戸。地階に個人商店
56号棟 1939年(昭和14年) RC造3F 職員社宅 6戸
57号棟 1939年(昭和14年) RC造4F 鉱員社宅 8戸。地下にピロティ商店
59号棟 1953年(昭和28年) RC造5F 鉱員社宅 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(60号棟地下と連結)
60号棟 1953年(昭和28年) RC造5F 鉱員社宅 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(59号棟地下と連結)
61号棟 1953年(昭和28年) RC造5F 鉱員社宅 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に共同浴場
65号棟 1945年(昭和20年) RC造9F 鉱員社宅 317戸。竣工時は北側の棟のみ、7F建て(1947年から1958年にかけて増築)。屋上に幼稚園。端島で最大のアパート
66号棟 1940年(昭和15年) RC造4F 鉱員合宿(啓明寮)
67号棟 1950年(昭和25年) RC造4F 鉱員合宿 48戸
68号棟 1958年(昭和33年) RC造2F 高島鉱業所端島病院(隔離病棟)
69号棟 1958年(昭和33年) RC造4F 高島鉱業所端島病院
70号棟 1958年(昭和33年) RC造7F 町立端島小中学校 1961年に7階部分を増築(鉄骨)
71号棟 1970年(昭和45年) RC造2F 町立端島小中学校体育館 1階が武道場・給食室、2階が体育館
ちどり荘 1958年(昭和33年)以降 木造2F[25] 教員用住宅 6戸。RC造2Fとする資料も[26]
30号棟 [編集]
30号棟(写真中央)30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである[27][28](日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である[29]。吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している[29]。その周囲に巴形に住居が配置されている[29]。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり[29]、閉山時は売店が入っていた。戸数は140戸[29]、総床面積は3808.0平方メートル[29]。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ[29]。25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている[29]。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある[29]。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している[30]。
日給社宅 [編集]
日給社宅とは、1918年(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称である。「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによる(職員は当時から月給制だった)[31]。30号棟に続いて建てられた、島内でも特に古い住宅である。同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路で繋がっており、全ての階が一体となっている。地下には店舗が、屋上には公園や農園があった。トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていた。この住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことである(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど)[32]。
65号棟 [編集]
左:65号棟(鉱員社宅/屋上幼稚園)、右:70号棟(端島小中学校)、手前:資材倉庫65号棟は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められた鉄筋コンクリート造の鉱員社宅。コの字型をしており、まず1945年に北側の7階建て『報国寮』が完成[33]。その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している[33]。最終的には317戸、総床面積16895.5平方メートル(屋上・地下含む)[29]となり、端島で最大のアパートである[34]。計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたキャンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている[34]。基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が[33]、地下1階には理容室がある[29]。
1958年に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた[35]。端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。
その他の建築物 [編集]
端島の西側には鉱員のための集合住宅が立ち並ぶ。手前右から48号棟、51号棟、日給社宅(16号棟など)、59号棟、60号棟、61号棟、66号棟
同じく端島西側。中央は手前から48号棟、14号棟、3号棟、左は51号棟、右は手前から39号棟、13号棟
木造建築物は大半が風雨により倒壊している。
仕上工場跡。炭鉱関連施設には閉山時に破壊されたものが多い。
現状 [編集]
近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る[36]。現在は無人化により建物の崩壊が進んでいる[37]。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年、高島町(当時)に無償譲渡され[38][39]、現在は長崎市の所有である。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された[40][41]。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決できたため、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。解禁後の1ヶ月では合計4601人の観光客が端島に上陸している[42]。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる[42]。
一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり[43]、2009年1月に記載された。
交通アクセス [編集]
かつては三菱が社船「夕顔丸」を運航していた(1962年まで)ほか、野母商船が長崎港より、伊王島、高島を経由して端島に至る航路を運行していた。1970年の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。これらの航路は島の無人化により廃止され現存しないが、やまさ海運により長崎港から島への上陸ツアーや、周囲を巡る遊覧船が運航されている。
上陸が禁止されていた頃も上陸を試みる無法者は多く[39][44]、その場合は海上タクシーが利用されていた。
端島を舞台とした作品など [編集]
映画『緑なき島』(1949年公開)の舞台[45]。
映画『純』(1980年公開、江藤潤主演)では主人公・純の出身地となっており[46]、端島でのシーンもある。
映画『冒険者カミカゼ』(1981年公開、千葉真一・秋吉久美子主演)
1982年にTV-CMや新聞広告等で公共広告機構が端島を題材にした資源問題キャンペーン(「私たちの資源」)を行い、反響を呼んだ[47][48]。
映画『魚からダイオキシン!!』(1992年公開、内田裕也主演)のロケ地[49]。
赤川次郎の小説『三毛猫ホームズの無人島』(1997年)の舞台[50]。
2000年放送のNHK制作連続ドラマ『深く潜れ~八犬伝2001~』の主なロケ地ともなった[48][51][52]。
内田康夫の小説『棄霊島』(2006年)の舞台[52]。
西木正明の小説『端島の女』(直木賞受賞)の舞台
ゲーム『SIREN2』(2006年、ソニー・コンピュータエンタテインメント) - 物語の舞台は、この島をモデルとした『夜見島』[53]。
その他 [編集]
端島出身の人物として、歌手・作曲家の岡崎律子がいる。
やまさ海運が「軍艦島クルーズ」を、株式会社共同が「軍艦島クルージング」をそれぞれ商標として登録している。(ただし後者は2009年1月に軍艦島クルージングの運航を休業している)
脚注 [編集]
^ 『軍艦島の遺産』13頁。
^ 『軍艦島の遺産』33-34頁。
^ a b c d 『軍艦島の遺産』38頁。
^ a b c 『軍艦島の遺産』158頁。
^ 「注目浴びる日本一小さな町 艦船に間違えられ「軍艦島」に」『月刊地域づくり』2001年4月号。
^ 「長崎の軍艦島35年ぶり上陸解禁 元島民ら70人訪問」熊本日日新聞、2009年4月22日。
^ a b c d 平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系43 長崎県の地名』 平凡社、2001年、ISBN 9784582490435、250-251頁。
^ a b c 『軍艦島の遺産』34頁。
^ a b 『軍艦島実測調査資料集 追補版』625頁。
^ 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、1984年、700-701頁。
^ 『軍艦島の遺産』30頁。
^ a b c d 三和町 『三和町郷土史』 三和町、1986年、250-257頁。
^ a b 『軍艦島の遺産』34-35頁。
^ 『軍艦島の遺産』35頁。
^ a b 『軍艦島の遺産』36頁。
^ a b 『軍艦島の遺産』40-42頁。
^ 『軍艦島の遺産』52-55頁。
^ 『軍艦島の遺産』51頁。
^ 『軍艦島の遺産』61-62頁。
^ 『軍艦島の遺産』172頁。
^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 『角川日本地名大辞典42 長崎県』 角川書店、1987年、ISBN 9784040014203、769-770頁。
^ 『軍艦島の遺産』184頁。
^ 『軍艦島の遺産』188頁。
^ 『軍艦島の遺産』106-107頁。
^ 『軍艦島実測調査資料集 追補版』 669頁。
^ 『軍艦島 : 住み方の記憶』 7頁。
^ 鈴木博之 『近代建築史』 市ヶ谷出版社、2008年、ISBN 9784870711471、153頁。
^ 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 44頁。
^ a b c d e f g h i j k 『軍艦島実測調査資料集 追補版』
^ 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 44頁。
^ 『軍艦島 : 住み方の記憶』 17頁。
^ 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 46頁。
^ a b c 『軍艦島 : 住み方の記憶』 5頁。
^ a b 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 47頁。
^ 『軍艦島の遺産』94頁。
^ 「[アングル]軍艦島再び脚光 炭鉱遺産-廃虚ブーム」『読売新聞西部本社版』2002年9月27日付夕刊、3面。
^ 長崎沖の軍艦島、35年ぶり上陸解禁 元島民ら一歩 - YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年4月23日付
^ 「“軍艦島”町に譲渡 長崎・高島 観光活用へ」『読売新聞西部本社版』2002年11月23日付朝刊、34面。
^ a b 「炭鉱跡、産業遺産で再出発 長崎・高島町が『軍艦島』取得」『朝日新聞西部本社版』2001年11月26日付朝刊、31面。
^ 「軍艦島の姿、2005年夏 長崎市の無人島・端島」『朝日新聞西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。
^ 「軍艦島:公開 炭鉱閉山、無人31年-長崎」『毎日新聞西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。
^ a b 軍艦島 上陸解禁から1か月、来島者の9割「満足」 - YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年5月24日付
^ 「九州・山口の近代化産業遺産群が世界遺産暫定リスト入り 軍艦島など本県4カ所」長崎新聞、2008年9月27日。
^ 『軍艦島の遺産』81頁。
^ 『軍艦島の遺産』58頁。
^ 「純」MovieWalker全映画作品データベース。
^ 公共広告機構「1981年度作品」
^ a b 「心も失ってきたのか」西日本新聞、2001年12月。
^ 「内田裕也の都知事選映画『魚からダイオキシン!』 グローバルに自画像を描く」『毎日新聞東京本社版』1991年11月26日付夕刊、9面。
^ 九州物語委員会「九州物語 小説」国土交通省九州運輸局、2008年。
^ 「哀愁の軍艦島 かつての炭鉱、TVドラマ舞台に(報!)」『朝日新聞西部本社版』2001年3月8日付夕刊、1面。
^ a b 酒井竜次監修・編 『ニッポンの廃墟』 インディヴィジョン、2007年、212頁。
^ ソニー・コンピュータエンタテインメント監修 『サイレン2 オフィシャルアートブック』 イースト・プレス、2006年。
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、端島 (長崎県)に関連するカテゴリがあります。建築史
日本の住宅
集合住宅
廃墟
炭鉱住宅
ゴーストタウン
参考文献 [編集]
後藤惠之輔・坂本道徳 『軍艦島の遺産 : 風化する近代日本の象徴』 長崎新聞社、2005年、ISBN 9784931493537
阿久井喜孝・滋賀秀實 『軍艦島実測調査資料集 追補版』 東京電機大学出版局、2005年、ISBN 9784501620707
阿久井喜孝 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 岩波書店、1995年、ISBN 9784000084956
軍艦島を世界遺産にする会 『軍艦島 : 住み方の記憶』 軍艦島を世界遺産にする会、2008年、ISBN 9784990452407
外部リンク [編集]
軍艦島オデッセイ - 端島の歴史、建築物、施設配置図、建物の個別データベース、軍艦島百景等。
やまさ海運 - 軍艦島クルーズ案内
軍艦島を世界遺産にする会 - NPO軍艦島を世界遺産にする会
軍艦島特集 / 西日本新聞 - 西日本新聞社
Towards a virtually accessible Gukanjima(英語)
軍艦島 Ver 3.0 - FLASHによる長崎県端島の紹介。
インダストリア - PN.神村小雪さん(軍艦島出身女性)のサイト。
7人の侍、長崎へ行く。(後編)
高島町-軍艦島 - 北海道の廃墟フォトサイト「廃墟マップ」
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C
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最終更新 2009年6月2日 (火)
【検索の達人 軍艦島(端島)】 約 353 件 2009-6-3 6:00
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