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日本一の代用教員 - 幻泉館日録@楽天 - 楽天ブログ(Blog)日本一の代用教員 「70年代サブカルチャー URC, ELEC, ベルウッド(2191)」. [ 書籍と雑誌 ]. そして最後には、再び帰り来つて此林中で代用教員をやる予定である。予は願くは日本一の代用教員となつて死にたいと思ふ。 石川啄木「林中書」 ...
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【検索・ランキング:?~?】 論述・穴埋めのトレーニング - 4 回閲覧 - 5月3日渡辺嘉重 - 日本で最初の子守学校の創立者。 大正(明治・大正) [編集] 赤井米吉 - 明星学園『愛と理性の教育』 芦田惠之助 - 綴り方教育の実践家 石川啄木 - 自称日本一の代用教員『林中日記』 稲毛金七 - 「創造教育論」 ...
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日本一の代用教員:幻泉館日録:So-net blogそして最後には、再び帰り来つて此林中で代用教員をやる予定である。予は願くは日本一の代用教員となつて死にたいと思ふ。 石川啄木「林中書」 林中書 「林中書」は1906年12月、石川啄木が渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務しながら書いた評論だ。 ...
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日本一の代用教員 - 幻泉館日録そして最後には、再び帰り来つて此林中で代用教員をやる予定である。予は願くは日本...
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[DOC] 代用教員・石川啄木についての小さな覚え書きファイルタイプ: Microsoft Word - HTMLバージョン
(中略)然し諸君、諸君に怒る位の元気があるなら、どうか壊れた時計にはなって呉れるな。代用教員でも何も構わぬから、何か人生に些少なりとも影響を与へる様な考へを起こして呉れ。 予は願くは日本一の代用教員となって死にたいと思ふ。 ...
www.wao.or.jp/user/kishi/takuboku.doc
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小樽啄木会だより・第5号「日本一の代用教員」啄木が成しえた教育そのものは今日の教育に求められている「変化への対応」とその対極にある、 ... 小生は蓋し日本一の代用教員ならむ。」と続き、「朝起きて直ちに登校す。受け持ちは尋常二年也。十分休み毎には卒業生に中等國語 ...
www.swan2001.jp/taku042.html
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はなしがい155号●「日本一の代用教員」. 最近、啄木の日記を読んで「日本一の代用教員」という文字を見つけました。そのとき、以前に聞いて印象にとどめたことに気づきました。明治三十九年(1906)四月二六日、啄木二十一歳の日記です。 「英語の時間は、自分の最も愉快 ...
www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/hana/hana155.htm
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臨時教職員-常勤・代替・非常勤-制度を考える - メルマ!啄木自身は、「余は日本一の代用教員である」「余は遂に詩人だ。そして詩人のみが真の教育者である」といった自負心をいだくようになります。 しかし、俸給は低すぎる。家族の暮らしは貧しいきわみにあり、上でふれた「ストライキ」をきっかけに「石をも ...
www.melma.com/backnumber_20812_506186/
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【師範学校】
師範学校(しはんがっこう)とは、戦前の学制において初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関である。
目次 [非表示]
1 概要
2 明治19年-昭和18年(1886年-1943年)
2.1 高等師範学校・女子高等師範学校
2.2 尋常師範学校(師範学校)
3 昭和18年-昭和24年(1943年-1949年)
3.1 高等師範学校・女子高等師範学校
3.2 師範学校
3.3 青年師範学校
4 その他の教員養成機関
4.1 師範学校以外の官立教員養成学校
4.2 臨時教員養成所
4.3 実業学校教員養成所
4.4 私立大学高等師範部(科)・師範科
4.5 図画、音楽、体育、家庭科教員の養成機関
5 関連項目
6 外部リンク
7 関連書籍
概要 [編集]
1872年(明治5年)、同年に公布された学制に基づき、東京の湯島聖堂内に、1871年に閉鎖された昌平坂学問所を一部引き継ぐ形で官立の師範学校が設立され、その後、大阪・仙台・名古屋・広島・長崎・新潟と各大学区に設置された。
1878年(明治11年)までに、官立の師範学校は、東京師範学校と東京女子師範学校を除いてすべて府県に移管された。このほか各県が小学校教員養成を目的として独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢ともにまちまちであった。
1881年(明治14年)、教育令のもとで師範学校教則大綱が定められ、師範学校のレベルが初めて統一された。
1886年(明治19年)、師範学校令が制定され師範学校は高等師範学校と尋常師範学校に分けられた。
1897年(明治30年)、師範教育令が制定され尋常師範学校は師範学校と改められた。
1907年(明治40年)、小学校の6年制化に伴い師範学校規程が定められ、中等学校卒業者対象の師範学校第二部が制度化された。
1943年(昭和18年)、師範教育令の改正により、師範学校はすべて官立移管されかつ専門学校と同格の教育機関に昇格、あらたに青年師範学校が設置された(翌年さらに改正)。(なお旧外地のうち台湾の師範学校については、日本統治時代の台湾の師範教育機関も参照のこと)
師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たしていた。師範学校→高等師範学校→文理科大学というコースをとれば、学費無料で中等学校→高等学校→帝国大学という正規のルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
この制度に助けられた人物に、明治・大正期の陸軍軍人秋山好古や昭和期の軍人・韓国大統領朴正煕(どちらも教師を経て陸軍士官学校入学)、実業家五島慶太(東急グループ初代総帥、旧制上田中学卒業後、小学校の代用教員を経て東京高等師範学校→英語教師→東京帝国大学)らがいる(なお作家菊池寛は家庭の経済的事情で東京高等師範学校に進むことを余儀なくされたものの、素行が原因で退学処分を受け、素封家からの援助を取り付けて一高に入学し直した)。
しかし、戦後になると連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) が日本の民主化のため、軍国教育の温床となった師範学校制度を解体し、米国にならって教員養成を大学で行うよう指導した。全寮制の師範学校の寮生活は大日本帝国陸軍の内務班そのままで、上級生への絶対服従を植えつけるため下級生へのいじめ、しごきは日常茶飯事であり、古事記の記述を盲目的に正史として教えるなど教育内容にも問題が多く、その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、教え子を続々と戦地に送り続けてきたという批判が出たのである。
かかる教育の結果として、いわゆる「師範タイプ」と称される、形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまっている教師を大量に生み出しており、このような「師範タイプ」の存在は戦前においても問題視されていた。
このため、各地の師範学校はアメリカ合衆国の「リベラルアーツカレッジ」などを手本にして、旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部、学芸学部として再出発することになった。しかし、大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは審査の結果不適格として教壇を追われた。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化した。
カリキュラムは、当初「リベラルアーツカレッジ」にならって教養教育に重きが置かれ、大学によっては医学部への進学課程等も置かれていたが、戦後、小・中学校が整備されるとともに卒業生の進路も教員が主流となり、昭和41年に改正国立学校設置法が施行されると、ほとんどの学芸学部は教職以外の分野に進むコースを順次廃止し、その名称を「教育学部」へ変更するようになった。
現在の制度では、あらゆる学部から教員免許を取得できるようになっている。しかしこれに伴い教育学を専門に学ばなかった学校教員の力量不足が指摘されるようになり、師範学校制度を復活させるべきであるという議論も一部にはあった。しかし、専門職養成は大学院レベルで行うことが世界的な潮流であり、日本においても法曹を含む高度専門職養成のために、専門職大学院制度が導入されたことともあいまって、これからの教員に必要とされる高度なスキルの習得は大学院レベルで行うこととなった。そこで専門職大学院のひとつとして教職大学院制度が導入され、2008年4月1日(平成20年度)から開設された。
明治19年-昭和18年(1886年-1943年) [編集]
高等師範学校・女子高等師範学校 [編集]
高等師範学校は、中等教員を養成する学校である。以下の学校が存在した。
高等師範学校(1886年 - )1902年から東京高等師範学校。
女子高等師範学校(1900年 - )1908年から東京女子高等師範学校。
広島高等師範学校(1902年 - )
奈良女子高等師範学校(1908年 - )
1897年(明治30年)の師範教育令により、高等師範学校は師範学校、尋常中学校、高等女学校の教員、女子高等師範学校は師範学校女子部、高等女学校の教員を養成することが定められた。
高等師範学校は中学校卒業、女子高等師範学校は高等女学校卒業を入学資格とした。
学士の称号を授与されるのは大学の卒業者のみが原則であるが、東京高等師範学校専攻科と広島高等師範学校徳育専攻科の卒業生についてのみ、特に文学士と称することが認められていた(高等師範学校専攻科卒業者の称号に関する件(昭和5年勅令第36号))。
尋常師範学校(師範学校) [編集]
尋常師範学校は初等教員を養成する学校である。各府県に1校設置され男子部と女子部が置かれた。 1897年(明治30年)の師範教育令により尋常師範学校は師範学校に改められ、各道府県に1校または数校設置されることになった。1920年代後半までに女子部は女子師範学校として分離された。
高等小学校(小学校高等科)卒業を入学資格とする本科第一部(1925年から5年制)と、中学校もしくは高等女学校卒業を入学資格とする本科第二部(1907年に制度化、1931年から2年制)が置かれた。
昭和18年-昭和24年(1943年-1949年) [編集]
高等師範学校・女子高等師範学校 [編集]
1943年(昭和18年)の師範教育令により、高等師範学校は中学校と高等女学校の教員、女子高等師範学校は高等女学校の教員を養成することが定められた。1947年の学校教育法制定と1949年の国立学校設置法により、東京高師は文理大と合併し東京教育大学に、広島高師は広島女高師とともに広島文理大、旧制広島高校、旧制広島工専等と合併し広島大学に、東京・奈良両女高師は大学に昇格しそれぞれお茶の水女子大学と奈良女子大学に、金沢高師は金沢大学教育学部になった。また、岡崎高師は、戦災で岡崎市から豊川市に疎開後、岡崎市に戻ることなく、名古屋大学教養部(現・情報文化学部)の豊川分校になった。(名古屋大学教育学部は戦後の新制大学発足時に改めて学部として新設されたもので、高師の系統を汲んでいない。)
東京高等師範学校(1886年 - ): 東京文理科大学に昇格(1929年)以後、同大学に併設。
東京女子高等師範学校(1900年 - )
広島高等師範学校(1902年 - ): 広島文理科大学に昇格(1929年)以後、同大学に併設。
奈良女子高等師範学校(1908年 - )
金沢高等師範学校(1944年 - )
岡崎高等師範学校(1945年 - )
広島女子高等師範学校(1945年 - )
師範学校 [編集]
1943年から師範学校は国民学校教員を養成する、官立の、専門学校程度の教育機関となった。師範学校には本科と予科が置かれ、本科は中学校もしくは高等女学校卒業生、予科は国民学校高等科の卒業生および中学校もしくは高等女学校2年修了者が入学できた。 全国に以下の師範学校があった。カッコ内は新制大学。
北海道第一師範学校(北海道学芸大学札幌分校)
北海道第二師範学校(北海道学芸大学函館分校)
北海道第三師範学校(北海道学芸大学旭川分校)
青森師範学校(弘前大学教育学部)
岩手師範学校(岩手大学学芸学部)
宮城師範学校(東北大学教育学部→宮城教育大学)
秋田師範学校(秋田大学学芸学部)
山形師範学校(山形大学教育学部)
福島師範学校(福島大学学芸学部)
茨城師範学校(茨城大学教育学部)
栃木師範学校(宇都宮大学学芸学部)
群馬師範学校(群馬大学学芸学部)
埼玉師範学校(埼玉大学教育学部)
千葉師範学校(千葉大学学芸学部)
東京第一師範学校(東京学芸大学学芸学部)
東京第二師範学校(同上)
東京第三師範学校(同上)
神奈川師範学校(横浜国立大学学芸学部)
新潟第一師範学校(新潟大学教育学部)
新潟第二師範学校(新潟大学教育学部高田分校→上越教育大学)
富山師範学校(富山大学教育学部)
石川師範学校(金沢大学教育学部)
福井師範学校(福井大学学芸学部)
山梨師範学校(山梨大学学芸学部)
長野師範学校(信州大学教育学部)
静岡第一師範学校(静岡大学教育学部)
静岡第二師範学校(同上)
愛知第一師範学校(愛知学芸大学学芸学部)
愛知第二師範学校(同上)
岐阜師範学校(岐阜大学学芸学部)
三重師範学校(三重大学学芸学部)
滋賀師範学校(滋賀大学学芸学部)
京都師範学校(京都学芸大学学芸学部)
大阪第一師範学校(大阪学芸大学学芸学部)
大阪第二師範学校(同上)
兵庫師範学校(神戸大学教育学部)
奈良師範学校(奈良学芸大学学芸学部)
和歌山師範学校(和歌山大学学芸学部)
鳥取師範学校(鳥取大学学芸学部)
島根師範学校(島根大学教育学部)
岡山師範学校(岡山大学教育学部)
広島師範学校(広島大学教育学部)
山口師範学校(山口大学教育学部)
徳島師範学校(徳島大学教育学部→鳴門教育大学)
香川師範学校(香川大学学芸学部)
愛媛師範学校(愛媛大学教育学部)
高知師範学校(高知大学教育学部)
福岡第一師範学校(福岡学芸大学学芸学部)
福岡第二師範学校(同上)
佐賀師範学校(佐賀大学教育学部)
長崎師範学校(長崎大学学芸学部)
熊本師範学校(熊本大学教育学部)
大分師範学校(大分大学学芸学部)
宮崎師範学校(宮崎大学学芸学部)
鹿児島師範学校(鹿児島大学教育学部)
沖縄師範学校
樺太
樺太師範学校
朝鮮
京城師範学校(ソウル大学校師範大学)
大邱師範学校(慶北大学校師範大学)
平壌師範学校
全州師範学校(全州教育大学校)
咸興師範学校
光州師範学校(光州教育大学校)
春川師範学校(春川教育大学校)
晋州師範学校(晋州教育大学校)
清州師範学校(清州教育大学校)
新義州師範学校
清津師範学校
海州師範学校
大田師範学校
京城女子師範学校(ソウル大学校師範大学)
公州女子師範学校(公州教育大学校)
元山女子師範学校
関東州
旅順師範学校(女子部は旧・旅順女子師範学校)
台湾
台北師範学校(本科(旧・台北第二師範学校)→国立台北教育大学、予科と女子部(旧・台北第一師範学校)→台北市立教育大学)
台中師範学校(本科→国立台中教育大学、予科(旧・新竹師範学校)→国立新竹教育大学)
台南師範学校(本科→国立台南大学、予科(旧・屏東師範学校)→国立屏東教育大学)
青年師範学校 [編集]
1944年の師範教育令改正により、青年学校の教員養成をしていた都道(庁)府県立の青年学校教員養成所が、官立の、専門学校レベルの教育機関である青年師範学校になった。予科を修了した者、中学校または高等女学校を卒業した者が入学でき、男子部と女子部がおかれていた。全国に以下の青年師範学校があった。カッコ内は新制大学。
樺太青年師範学校
青森青年師範学校(弘前大学教育学部)
岩手青年師範学校(岩手大学学芸学部)
秋田青年師範学校(秋田大学学芸学部)
山形青年師範学校(山形大学教育学部)
福島青年師範学校(福島大学学芸学部)
茨城青年師範学校(茨城大学教育学部)
群馬青年師範学校(群馬大学学芸学部)
埼玉青年師範学校(埼玉大学教育学部)
千葉青年師範学校(千葉大学教育学部)
新潟青年師範学校(新潟大学教育学部)
富山青年師範学校(富山大学教育学部)
石川青年師範学校(金沢大学教育学部)
福井青年師範学校(福井大学学芸学部)
山梨青年師範学校(山梨大学学芸学部)
長野青年師範学校(信州大学教育学部)
岐阜青年師範学校(岐阜大学学芸学部)
静岡青年師範学校(静岡大学教育学部)
宮城青年師範学校(東北大学教育学部→宮城教育大学)
三重青年師範学校(三重大学学芸学部)
滋賀青年師範学校(滋賀大学学芸学部)
兵庫青年師範学校(神戸大学教育学部)
鳥取青年師範学校(鳥取大学学芸学部)
島根青年師範学校(島根大学教育学部)
岡山青年師範学校(岡山大学教育学部)
広島青年師範学校(広島大学教育学部)
山口青年師範学校(山口大学教育学部)
徳島青年師範学校(徳島大学学芸学部)
香川青年師範学校(香川大学学芸学部)
愛媛青年師範学校(愛媛大学教育学部)
高知青年師範学校(高知大学教育学部)
佐賀青年師範学校(佐賀大学教育学部)
長崎青年師範学校(長崎大学学芸学部)
熊本青年師範学校(熊本大学教育学部)
大分青年師範学校(大分大学学芸学部)
宮崎青年師範学校(宮崎大学学芸学部)
沖縄青年師範学校
彰化青年師範学校(台湾彰化にあった、廃止)
東京青年師範学校(東京学芸大学学芸学部)
愛知青年師範学校(愛知学芸大学学芸学部)
京都青年師範学校(京都学芸大学学芸学部)
大阪青年師範学校(大阪府立浪速大学教育学部)
奈良青年師範学校(奈良学芸大学学芸学部)
福岡青年師範学校(福岡学芸大学学芸学部)
北海道青年師範学校(北海道学芸大学岩見沢分校)
神奈川青年師範学校(横浜国立大学学芸学部)
栃木青年師範学校(宇都宮大学学芸学部)
和歌山青年師範学校(和歌山大学学芸学部)
鹿児島青年師範学校(鹿児島大学教育学部)
その他の教員養成機関 [編集]
師範学校以外の官立教員養成学校 [編集]
帝国大学及び官立専門学校 専門学科の他教育に関する一定の科目を修了した者にも中学校、高等女学校の免許状が授与された。
臨時教員養成所 師範学校、中学校、高等女学校の教員養成
実業学校教員養成所 実業学校の教員養成
実業補習学校教員養成所 道府県市において設置される実業補習学校の教員養成
臨時教員養成所 [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
高等師範学校とは別に帝国大学及び直轄諸学校内に臨時教員養成所が設けられ、師範学校、中学校、高等女学校の教員不足の解消が図られた。ことに大正末から昭和初期にかけては、臨時教員養成所の定員は高等師範学校の定員の半分を超える規模で(1926年(大正15年)当時:臨時教員養成所生徒数1542名、高等師範学校生徒数2719名)、多数の中学校教員を供給するなど、大きな役割を果たした。臨時教員養成所官制(1902年(明治35年)3月28日勅令第百号)
第一期(1902年臨時教員養成所規程制定~)
第一臨時教員養成所 東京帝国大学
第二臨時教員養成所 第一高等学校
第三臨時教員養成所 第二高等学校
第四臨時教員養成所 第三高等学校
第五臨時教員養成所 東京外国語学校
第六臨時教員養成所 東京女子高等師範学校
第二期(1922年臨時教員養成所規程改正頃)
第一臨時教員養成所 東京高等師範学校、東京文理科大学(1922年 - 1944年)
第二臨時教員養成所 広島高等師範学校(1922年 - 1937年)
第三臨時教員養成所 奈良女子高等師範学校(1922年 - 1931年)
第四臨時教員養成所 東京音楽学校(1922年 - 1931年)
第五臨時教員養成所 大阪外国語学校(1922年 - 1927年)
第六臨時教員養成所 東京女子高等師範学校(- 1938年)
第七臨時教員養成所 京都帝国大学(1923年 - 1930年)
第八臨時教員養成所 九州帝国大学(1913年 - 1932年)
第九臨時教員養成所 東北帝国大学(1923年 - 1932年)
第十臨時教員養成所 第四高等学校(1923年 - 1931年)
第十一臨時教員養成所 浜松高等工業学校(1924年 - 1930年)
第十二臨時教員養成所 東京外国語学校(1926年 - 1930年)
第十三臨時教員養成所 第五高等学校(1913年 - 1931年)
第十四臨時教員養成所 小樽高等商業学校(1927年 - 1929年)
第十五臨時教員養成所 佐賀高等学校(1929年 - 1930年)
第十六臨時教員養成所 北海道帝国大学(1929年)
第三期(戦時体制下)
東京臨時教員養成所 東京文理科大学(1941年 - 1942年)
浜松臨時教員養成所 浜松高等工業学校(1940年 - 1942年)
広島臨時教員養成所 広島文理科大学(1941年 - 1948年)
名古屋臨時教員養成所 名古屋高等工業学校(1911年 - 1942年)
大阪臨時教員養成所 大阪帝国大学(1942年 - 1943年)
札幌臨時教員養成所 北海道帝国大学(1943年)
仙台臨時教員養成所 東北帝国大学(1942年 - 1943年)
福岡臨時教員養成所 九州帝国大学(1942年 - 1943年)
実業学校教員養成所 [編集]
大学および直轄諸学校内に実業学校教員の養成所が設置された。実業学校教員養成規程(1899年制定)
農業教員養成所→東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所(1899年)→東京帝国大学農学部附属農業教員養成所→東京農業教育専門学校(→東京教育大学)として独立
東京高等商業学校附設商業教員養成所(1899年-)→東京商科大学附属商業教員養成所→1949年5月廃止
東京高等工業学校附設工業教員養成所(1899年-)→東京工業大学附属高等工業教員養成所
大阪高等工業学校附設工業教員養成所(1920年-)→大阪工業専門学校附設工業教員養成所
横浜高等工業学校附設工業教員養成所(1929年-)→横浜工業専門学校附設工業教員養成所
名古屋高等工業学校附設工業教員養成所(1929年-)→名古屋工業専門学校附設工業教員養成所
熊本高等工業学校附設工業臨時教員養成所(1939年)→熊本工業専門学校附設工業教員養成所
広島高等工業学校附設工業教員養成所(1939年)→広島工業専門学校附設工業教員養成所
仙台高等工業学校附設工業教員養成所(1943年)→仙台工業専門学校附設工業教員養成所
金沢高等工業学校附設工業教員養成所(1943年)→金沢工業専門学校附設工業教員養成所
室蘭工業専門学校附設工業教員養成所(1945年)
多賀工業専門学校附設工業教員養成所
これらは学制改革でそれぞれ東京工業大学・熊本大学・広島大学・室蘭工業大学・茨城大学・金沢大学・東北大学の一部となって、商業教員養成課程・工業教員養成課程が設置された。
私立大学高等師範部(科)・師範科 [編集]
私立大学専門部(大学専門部 (旧制)=専門学校令による専門学校にあたる)・私立専門学校に、師範学校・中学校、高等女学校の教員を養成するための高等師範部・高等師範科が、小学校の教員を養成するための師範科が、設置された。
日本大学専門部高等師範科(1901年) → 日本大学文理学部
早稲田大学専門部高等師範部(1903年) → 早稲田大学教育学部
國學院大學専門部高等師範部(1927年)
駒澤大学専門部高等師範科(1929年)
大正大学専門部高等師範科
法政大学専門部高等師範部
立正大学専門部高等師範科(1925年)
同志社専門学校英語師範部(1922年)
東北学院専門部師範科(1918年)→高等部師範科(1929年)
青山学院高等部英語師範科
日本女子大学師範科
図画、音楽、体育、家庭科教員の養成機関 [編集]
師範学校、高等師範学校などの他に、官立の専門学校、私立の専門学校・各種学校において図画、音楽、体育・武道、教員の養成課程があった。家庭科教員の養成は高等女学校専攻科、女子専門学校が大きな役割を果たしていた。
官立
東京美術学校図画師範科
東京音楽学校甲種師範科
東京高等体育学校(1941年)→東京体育専門学校→東京教育大学→筑波大学
私立
日本体育会体操練習所→日本体育会体操学校→日本体育専門学校→日本体育大学
大日本武徳会武術教員養成所→武術専門学校→武道専門学校
実践高等女学校専攻科・高等師範部→実践女子専門学校→実践女子大学
日本音楽学校高等師範科・師範科
武蔵野音楽学校→武蔵野音楽学校→武蔵野音楽大学
女子美術専門学校師範科
弘前和洋裁縫女学校師範科(1928年)、弘前和洋裁縫女学校高等師範科(1933年) →東北女子大学
関連項目 [編集]
学制改革
学芸学部
教育学部
新制大学
旧官立大学 - 旧二文理大
日本の学校制度の変遷
日本のサッカー
外部リンク [編集]
「女高師から帝国大学に入学した女性たち」文献紹介
関連書籍 [編集]
海後宗臣(監修) 『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年
『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1978年
尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典;1868 - 2000』 東京大学出版会、2001年
「主要高等教育機関一覧」参照
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" より作成
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最終更新 2009年4月1日 (水)