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台湾 【台湾】
2009-06-13 Sat 11:57
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台湾
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この項目では、台湾島を中心とした地域について記述しています。台湾地域を実効統治している国家については中華民国をご覧ください。
台湾
繁体字: 臺灣 / 台灣
[表示]発音記号
普通話
- 漢語拼音: Táiwān
- 通用拼音: Táiwan
- ウェード式: T'ai²-wan¹
- 注音符号: ㄊㄞˊ ㄨㄢ
閩語
- 閩南語 白話字: Tâi-oân
台湾の位置台湾(たいわん)は東アジア、太平洋の西岸に在る台湾島を中心とした地域の名称。1945年以降は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発した一般命令第1号に基づき台湾へ進駐した中華民国の支配下にあり、1949年の中華人民共和国成立に伴う中華民国政府の台湾移転以降は、中華民国の実効支配範囲とほぼ重複するため、中華民国の通称としても用いられる。現在も、中華人民共和国と独立問題で係争中である。台湾における通常の字体は「台灣」、正式な文章においては「臺灣」と表記する。
この項目では台湾の地理内容以外に遷台後の中華民国についての内容も記載する。
目次 [非表示]
1 定義
2 歴史
2.1 名称の変遷
2.2 別称の由来
3 政治
4 地方行政区分
4.1 主要都市
5 地理
5.1 気候
6 経済
6.1 通貨
6.2 日本との経済関係
6.3 台湾に本拠地を置く代表的な大企業
7 交通
7.1 鉄道
7.2 道路
7.3 航空
7.4 船舶
8 住民
9 言語
9.1 文字
9.2 電子機器の文字入力
9.3 言語教育
10 教育
11 文化
11.1 料理
11.2 宗教
11.3 メディア
11.4 スポーツ
12 台湾の国家公園
13 台湾の国家風景区
14 世界遺産候補
14.1 自然遺産候補
14.2 文化遺産候補
14.3 複合遺産候補
15 出典・脚注
16 関連項目
17 外部リンク
定義
台湾
人口 - 経済
教育 - 交通
言語 - 軍事
政治
文化
遺跡 - 映画
芸術 - 文学
演劇 - 舞踊
宗教 - 民俗
地理
温泉 - 国立公園
歴史
先史時代
オランダ統治時代
鄭氏政権
清朝統治時代
台湾民主国
日本統治時代
国民政府時代
総統民選期
カテゴリ
政府機構 - 社会 - 文化
生物 - 博物館 - 台湾人
スポーツ - 原住民 - 古跡
行政区分 - メディア - 交通
食文化 - 教育 - 経済
組織 - 言語 - 地理
歴史 - 画像 - 政治
狭義の台湾
1885年に清朝が新設した台湾省に属していた地域を指しており、具体的には台湾島と澎湖島、蘭嶼島及びにその周辺諸島から範囲が構成されている。この範囲は、1895年の下関条約で大日本帝国の一部となっていたが、1945年の第二次世界大戦終結後にGHQの委託を受けた中華民国軍が進駐。1949年に大陸から中国共産党に追われる形で中華民国政府機能を台湾に移動した。ただし、日本国は1952年のサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)において、権原を含める一切の権利を放棄しているが、その帰属を明言しておらず、国際法上は依然として空白地若しくはアメリカ合衆国の暫定占領地区となっている。
広義の台湾
中華民国の政府が実効的に支配している全地域を指しており、具体的には台湾島に福建省沿岸の馬祖列島・烏坵島・金門島、及びに東沙諸島と南沙諸島の一部(太平島、中洲島)を加えた範囲から構成されている。この範囲は、国民政府が1955年に浙江省大陳列島の領有権を喪失したことで確定した。なお、福建省沿岸にある諸島を狭義の台湾地域と区別して金馬地区(金門島と馬祖列島の頭文字に由来)と呼称することもある。
これは、国共内戦を経て1949年に中国共産党率いる一党独裁国家である中華人民共和国が、成立した後に発生した地域概念である。本来、「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」は中華民国のみであったが、中華人民共和国が成立したことにより、中国は「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」として、全く、台湾に対する権利を主張する立場でないこの二つの政府が並立し、それぞれ権利を主張する事態となった。
なお、世界各国は「正統な中国政府」の選択に迫られることとなったのだが、米ソを中心とした冷戦下における微妙な軍事・政治バランスの中、1960年代後半に入り文化大革命やダマンスキー島事件などをめぐり顕在化した中ソ対立を元にアメリカと中華人民共和国が急接近し、その後1971年に国際連合で中華人民共和国が「中国」の代表権を取得してからは多くの国が中華人民共和国を「正統な中国政府」として承認し、中華民国はアメリカと共同歩調を取る西側諸国を含む多くの国から「正統な中国政府」として承認されなくなった。
だが、中華人民共和国を「正統な中国政府」として承認した後も、民主主義国家である中華民国との非公式な関係維持を望むアメリカや日本などの多くの国では前述のとおり中華民国が実効支配している地域を本来の状態のとおり、中華人民共和国の統治地域とは別個の「地域」と判断して、「台湾」という地域名称で呼称し始めた。
そのため、広義の「台湾」の地域範囲は主に中華人民共和国を「正統な中国政府」として扱っている国々で使用されており、日本も同様である。
歴史
詳細は台湾の歴史を参照
台湾原住民・卑南族の、月の形状をした石柱。1896年頃撮影。
台南市にある全台首学(台湾最初の孔子廟)
台北県にある黄金神社跡地台湾地域の歴史は、先史時代、オランダ植民統治時代、鄭氏政権植民地時代、清朝統治時代、日本統治時代、南京国民政府統治時代、台湾国民政府統治時代、そして20世紀末以降の台湾総統選挙時代に区分される。
名称の変遷
台湾島は、東シナ海上にある島として古くから中国人にその存在が認識されていた。『漢書地理志』の中に「会稽海外有東鯷人、分為二十余国、以歳時来献見...」との記載があり、一部の学者は東鯷とは台湾を指す名称であると主張している。しかし漢代の中心地は中原と称される、長安及び洛陽を中心とする地域であり、漢朝の実質的な勢力は長江下流域に限られていたと考えられる[要出典]。従って福建省や広東省の沿岸地帯に至ることは非常に稀であり、その東岸にある島嶼を正確に記録したとは考えにくく、東鯷とは海上の島嶼群を漠然と示した名称であると考えられ、台湾の呼称と即断することは困難である。東鯷の中に台湾も包括されていたと考えるべきであろう。
時代は下り三国時代の『臨海水土志』の中に「夷州在浙江臨海郡的東南、離郡二千里、土地無霜雪、草木不枯、四面皆山、衆山夷所居。山頂有越王射的正白、乃是石也。」及び「部落間互不相属、各号為王、分割土地...」という記載があり、この場合の夷州は台湾を指すものと考えられる。しかし孫権伝説の中に、「夷州亶州在海中、長老伝言、秦始皇遣方士徐福将男童女数千人入海、求蓬莱及仙薬…」という記載もあり、地名としての夷州が台湾を指す言葉として確定してはいなかったとも思われる。しかし、『臨海水土志』には別に、
夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆髡髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息。共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴
という記述もあり、このような土地はあらゆる意味で台湾島の特徴に合致し、またそれ以外でこのような地域を中国南部の沿岸の島嶼に見出すことは困難であり、台湾が少なくともこの時代には中国文明の認識する範囲に含まれていたことは明らかであると言える。
隋時代の603年に書かれた文献には、台湾への探検の記録が記載されている[要出典]。だが、当時の中国の文献において、台湾は琉球、留仇、流虬、琉求、瑠球と称されていた。その後隋末から宋までの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を迎える。元代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』、『閩書』、『世法録』では台湾を東蕃、と呼んでいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した『閩書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を毗舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と称している。
明の太祖の時代になると琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す言葉として使われ続けたため両者の区別に混乱が生じ、沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ばれるようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、雞籠、北港、東番のような名称が与えられていた。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」、「東寧」などと呼ぶようになった。
このような名称の変遷を経て、台湾が台湾と呼称されるようになったのは清朝が台湾を統治し始めてからのことである。ただし、台湾の語源は不明確で、原住民の言語の「Tayouan(タイユアン)」(来訪者の意)という言葉の音訳とも、また、「海に近い土地」という意味の「Tai-Vaong」や「牛皮の土地」という意味の「Tai-oan」などの言葉に由来するとも言われる。大員(現、台南)がタイオワンと呼ばれており、そこにオランダ人が最初に入植したためとも見られている。いずれにしても原住民の言葉が起源と見られ、漢語には由来していない。
別称の由来
台湾島には、フォルモサ(Formosa)という別称が存在し、欧米諸国を中心に今日も使用される場合がある。これは、「美しい」という意味のポルトガル語が原義であり、16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感動して「Ilha Formosa(美しい島)」と呼んだことに由来するといわれている。なお、フォルモサの中国語意訳である美麗(之)島や音訳である福爾摩沙を台湾の別称として用いることもある。
ちなみに、日本では高山国または高砂と称した。正式の使節ではないが、タイオワン事件に関して、原住民が「高山国からの使節」として江戸幕府3代将軍徳川家光に拝謁したこともある。
政治
詳細は中華民国の政治を参照
台湾を統治する中華民国の総統府。旧台湾総督府の建物を流用。
台湾を領有している中華民国の国旗今日の台湾における重要な政治的問題としては、台湾問題が挙げられる。
台湾問題とは、台湾の最終的な政治的地位および主権帰属をめぐる中華民国と中華人民共和国と台湾未定論の問題である。1945年の第二次世界大戦終結後、中華民国・南京国民政府は、連合国軍の委託を受けて駐台湾日本軍の武装解除を行うために台湾へ軍を進駐させ、1943年のカイロ宣言に従い(ただし、同会談後に報道関係者向けに配布されたニュース・リリースであり無効という説もある)、同年10月に台湾を統治国である日本の承諾を得ず、一方的に中華民国の領土に編入した(台湾光復)。その後に国共内戦によって中華人民共和国が成立し、かつ中華民国政府が一旦崩壊した上で“台湾国民政府”として再始動してからは、両党間で「中国を代表する正統な政府」としての権利を巡る対立が生じるようになり(中華民国の歴史参照)それと同時に台湾の政治的地位と主権帰属も対立の一要因となっていった。
今日では、国際政治上の駆け引きの結果から「中国を代表する正統な国家」として中華人民共和国を承認する国が大勢を占めている。ただし、ほとんどの国は、中華人民共和国を「承認」しながら、半官半民の組織を介して中華民国と実務関係を維持している。現在も中華民国憲法は、中国大陸を統治した時代に制定された条文を維持し、中華民国が中華国家であることの象徴とされている。その一方で憲法追加修正条項の制定以後、中華民国が台湾地域のみを統治するとの前提により民主化が進められてきた。しかし、中華民国の反独立派や中華人民共和国は、こうした動きを法理独立と非難してきた。その一方で、台湾独立運動(台独運動、または台独)の一部は、中華民国体制が長年に渡り台湾住民の国政参加を拒み、差別と弾圧を行ってきた歴史を忘れるべきではなく、中華民国支配からの解放と異なる新しい国家を自ら建設すべきであると主張している。このように、現在も台湾問題に関する様々な意見が存在し、第三者による理解を困難にしている。
しかし、台湾世論の大勢は、台湾が中華人民共和国の主権に帰属するものではなく、中華民国という国家であるという点で一致している。その上で中華民国の立法府たる立法院の議員などの政治家は今なお、「台湾も中華人民共和国も同じ中華民族の国家である」とみなす泛藍連盟派と、「台湾と中国は別々の国である」とする泛緑連盟派(台湾本土派および独立派)のいずれかに大別される。
ただし、世論調査では、早急な統一も独立も望んでおらず、実質的に中華人民共和国とは分離している現在の状態を維持することを望む声が多い。そのため、中華民国の世論は基本的には現状での安定志向にあると言え、各党も世論を配慮しながら政治活動を行なっている。2008年8月末には、中華民国からの独立デモが発生している。
地方行政区分
詳細は台湾の行政区分を参照
かつての中華民国による行政区分は、台湾を2省(台湾省、福建省)、2直轄市(台北市、高雄市)に区分し、更に省内を5省轄市(基隆市、新竹市、台中市、嘉義市、台南市)、18縣に区分していた。だが、1996年に福建省が、1998年に台湾省がそれぞれ行政機能を「凍結」(事実上の廃止)された。今日では省轄市と縣が直轄市と並んで地方行政を担っているが、直轄市との間には地方交付税の配分や人事権限の格差が残されたままである。
主要都市
台北市の夜景台湾最大の都市は北部盆地に位置する台北市であり、1949年以降は中華民国の首都機能を果たしている。ただし公式には、中華民国の首都は南京市とされており、台北市は臨時首都という扱いになっている。なお、台湾省の省都も当初は台北市であったが、1957年に台北市から台湾中部にある南投県南投市中興新村に移された。後に台湾省が凍結され、現在では省都として機能していない。
地方の主要都市としては、台北市の東北部に港湾都市である基隆市が、台湾島南西部に工業・港湾都市である高雄市(台湾第二の都市)がそれぞれあり、両都市の間に新竹市、台中市(台湾第三の都市)、嘉義市、台南市(台湾の古都にして第四の都市)などの主要都市が集中している。これらの主要都市は全て台湾西部に位置しており、台湾東部の主要都市としては花蓮市と台東市がある。
地理
詳細は台湾の地理を参照
台湾地域の略図(東沙諸島、南沙諸島は除く)
台湾の衛星写真台湾は、台湾島とその周辺諸島(澎湖諸島・蘭嶼など)、及び金馬地区と東沙諸島・南沙諸島から構成されており、面積は約35,980km²と九州程度(日本の約10分の1)の大きさである。
台湾北東部は日本の琉球諸島の西方海上に位置しており、最も近い与那国島との距離は110km以下である。また、台湾地域西端の金馬地区は台湾海峡を隔てて中国と接しており、最南端の岬である鵝鑾鼻(がらんび)は、バシー海峡を隔ててフィリピンと接している。
台湾最大の島である台湾島は、南北の最長距離が約394km、東西の最長距離が約144kmで木の葉のような形をしている。島の西部は平野、中央と東部は山地に大別されるが、島をほぼ南北に縦走する5つの山脈(中央山脈、玉山山脈、雪山山脈、阿里山山脈、海岸山脈)が島の総面積の半分近くを占めており、耕作可能地は島の約30%にすぎない。台湾最高峰の山は玉山山脈の玉山(旧日本名:新高山、海抜3,952m)であり、富士山よりも高く、同様に雪山など標高3,000mを超える高山が多数連なっている。また、このほかの重要な地勢としては丘陵、台地、高台、盆地などが挙げられる。
なお、台湾はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの交差部に位置するため、日本と同様に地震活動が活発な地域である。また日本と同じ火山帯に属し、温泉も豊富にある。
気候
台湾はほぼ中央部(嘉義市付近)を北回帰線が通っており、北部が亜熱帯、南部が熱帯に属している。そのため、北部は夏季を除けば比較的気温が低いのに対し、南部は冬季を除けば気温が30度(摂氏)を超えることが多くなっている。台湾の夏はおおよそ5月から9月までで、通常は蒸し暑く、日中の気温は27度から35度まで上り、7月の平均気温は28度である。冬は12月から2月までと期間が短く、気温は総じて温暖であり、1月の平均気温は14度である。ただし、山岳部の高標高地帯では積雪が観測されることもある。
平均降雨量は年間およそ2,515mmであるが、降雨量は季節、位置、標高によって大きく異なっている。台湾は台風の襲来が多く、毎年平均3~4個の台風に襲われている。台湾は台風で給水の大きな部分を賄っているが、同時に損壊、洪水、土砂流などの災害も発生している。1996年の台風9号は、台湾で最も大きな災害となった台風の1つである。また、台風以外にも、夏季には台湾語「サイパッホー(sāi-bak-hō)」(普通は西北雨と表記、正しいのは夕暴雨)と呼ばれる猛烈な夕立が多い。
経済
詳細は台湾の経済を参照
台北市の台北国際金融センター(Taipei 101)日本統治時代には、日本の食糧補給基地としての役割を与えられていた台湾地域では、その食料を保管・加工する軽工業が芽生えていた。第二次世界大戦後の中央政府の台湾移転後、中華民国政府は台湾を「反攻大陸」(武力による大陸部の奪還)の基地とした。これにともない軍事最優先の政策がとられ経済政策は後回しとされたが、そのような中で政府は、軽工業を発展させ、次第に重工業化する政策をとる。経済特区や政府主導による経済プロジェクトが全国に展開され、特に日本とのコネクションを利用した日本の下請け的な工業が発達する。
蒋経国の代になり、十大建設をはじめとする本格的な各種インフラ整備が始まり、また、ベトナム戦争の際、アメリカは戦略物資を台湾から調達し、そのため台湾経済は飛躍的に発展し、この頃より主な輸出先は日本からアメリカへシフトしていった。また、中華民国政府は軽工業から重工業への転換を図り、積極的な産業政策を打ち出した。しかし、中国鋼鉄や台湾造船、台湾石油などの国営企業を主体としての重化学工業化であり、必ずしも強い国際競争力を伴ったわけではない。しかし、在米華僑の技術者の協力により行った半導体産業の育成は成功を収め、後の台湾積体電路製造(TSMC・台積電)や聯華電子(UMC)を生出す。
1980年代、電子工業の発展は民間中小企業にも波及し、パソコンのマザーボードのシェアでは世界一になった。中華民国はアジアNICsの一員に選ばれ、NIEsにも引き続き含まれた。さらに、外貨準備高世界上位に入るなど、経済発展は目覚しかった。さらに1990年代はIT景気に乗り、1997年-1998年のアジア経済危機も乗り越えた。そのため、中小企業が多い点が日本と似ていることや、政府主導の産業政策や財閥主体の韓国との違いなどが強調されたのである。
1980年代後半は、台湾の現在の自転車工業への転換点でもある。1986年のプラザ合意前までは日本が自転車の生産において大きなシェアを占めていたが、プラザ合意後は日本の自転車産業・特に完成車の輸出は大幅に減少して、台湾が自転車輸出大国に成長した。現在では世界最大の自転車メーカーとなったジャイアント・マニュファクチャリング等の現在の台湾自転車業界の主要企業は1970年代後半から欧米メーカーのOEM・ODMを引き受け、現在に繋がる設計・生産の基礎を築いた。この頃からOEM・ODMの受注だけでなく、台湾の自転車企業は自社ブランドの販売にも乗り出した。
しかし2000年代にはいると、製造業で中華人民共和国への投資による空洞化の進行が目立ち、2001年のITバブル崩壊の影響を受け、2002年には中華民国の台湾移転後初のマイナス成長を記録した。台湾の電子工業はOEM、ODMなど先進国企業からの委託生産に特化し、独自のブランドを持たなかった。そのため、先進国市場での知名度が低く、知名度の高い大企業も存在しない。中華民国政府は、自国企業による中華人民共和国への投資を未だ完全には開放していない。また、中華人民共和国市場での利益の自国回帰も呼び掛けているが、目立った効果は見られない。一方、陳水扁政権は新十大建設を打ち出し、新たなインフラの整備と次世代産業の育成を掲げた。政府はライフサイエンスも重要視しているが、ライフサイエンスがITほどの経済規模を見込めるのかどうか、疑う声も強い。
日本経済との強い関連下で発展してきた台湾経済は、日本経済と互換性のある面が強い。即ち技術力、工業生産力を利用し、世界市場で優位に立てる製品を開発提供することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。しかし日本と異なる面も多い。 それは漢民族の伝統やアメリカの影響によるものと考えられるが、代表的なものは起業指向であろう。 台湾では有能な人ほど起業を志し、それが経済に活力と柔軟性を与えている。 個人主義的なのであるが、反面、社会道徳の弱さという弱点も持つ。また、華僑ネットワークに支えられた、全世界ネットを駆使した世界戦略も中華民国独特の強みである。 アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。
通貨
台湾の通貨はニュー台湾ドル。
詳細はニュー台湾ドルを参照
日本との経済関係
台湾は旧日本領であり歴史的に関係が深く、地理的に近く自由主義陣営の国家であり、貿易を初めとした経済的交流が強い。
民間貿易以外に台北国際金融センタービルや台湾高速鉄道(台湾新幹線)の建設など、台湾の主要公共事業も日本企業によるものがあり、台湾経済における日本への依存は大きいものがある。また日本企業による台湾進出以外にも、古くは衣料業関連、現在では電子工業関連を中心に日本進出を果たす台湾企業もある。
台湾に本拠地を置く代表的な大企業
エバー航空のボーイング747貨物機鴻海精密工業(Foxconn) 台湾最大の民間企業のひとつ
台塑関係企業(台プラグループ。Taiwan Plastic Group)台湾最大の民間企業のひとつ
ASUS(華碩) マザーボードを始めとするPCパーツ、周辺機器、およびPCメーカー
エイサー(宏碁・Acer)
AOpen(エーオープン)マザーボード、ビデオカードメーカー
BenQ(明基・ベンキュー) 2001年、エイサーグループから独立した。
AU Optronics(友達・AUO) BenQグループの液晶パネルメーカー
Realtek(リアルテック)コンピューター用半導体メーカー。カニのマークでお馴染み
GIGABYTE(技嘉)
クアンタ・コンピュータ(広達)
HTC (High Tech Computer) 世界的なスマートフォン、PDA製造メーカー
裕隆汽車
統一超商
エバーグリーン・グループ
長栄海運
エバー航空(長栄航空)
立栄航空
チャイナエアライン(中華航空)
台湾銀行(Bank of Taiwan)
Micro-Star International(微星・MSI)
Delta Electric(台達電子)
D-Link(友訊) インターネット関連製品における世界的企業
ジャイアント・マニュファクチャリング(捷安特・GIANT) 自転車メーカー
トランセンド(Transcend) メモリなど半導体製品
トレンドマイクロ(趨勢科技) Anti-Virus Software company
MAXXIS Tire(正新橡膠)
CyberLink(zh:訊連科技) PowerDVDなどを開発するソフトメーカー
交通
詳細は台湾の交通を参照
台湾は鉄道・道路・航路ともに発達しており、日帰りで台湾を一周することも可能である。
鉄道
詳細は台湾の鉄道を参照
台湾高速鉄道の桃園駅台湾の鉄道は、国営の台湾鉄路管理局(略称は台鉄)の路線が台湾を一周しており、自強号(日本の特急に相当)、莒光号(日本の急行に相当)、復興号(日本の準急に相当)、区間車、区間快車、普快車(共に日本の普通列車に相当)が各都市を繋いでいる。以上は機関車(電気・ディーゼル)が客車を牽引する編成であるが、これとは別に通勤電車と称される電車が大都市近郊を走っている。なお、台湾では列車のことを「汽車」ではなく「火車」と呼ぶ。
市内や近接地区を結ぶ鉄道交通ネットワークとしては日本の地下鉄や新交通システムに相当する捷運(MRT)が運行されている。1996年に台北市政府による最初の捷運として台北木柵線が、翌年には淡水線の一部区間が開業した。2008年3月には高雄市において高雄捷運の開業し、他の都市でも捷運路線の建設また計画されている。
台湾を代表する台北・高雄を連絡する都市間鉄道として、2007年1月に両都市を最高速度300km/hで運行する台湾高速鉄道が開通した。日本の新幹線車両(700T型)を導入し、台湾初の大型BTOとして建設・運営が行われている(台鉄の路線ではない)。日本の新幹線技術の初めての海外輸出となったが、受注の混乱や、各国の技術が混在する折衷型システムにより開業までに様々な問題が発生した。開業後は既存の縦貫線で最速3時間59分であった所要時間を87分に大幅に短縮し、また料金も自強号と航空機の中間に設定するなど大きな競争力を有している(台鉄捷運化を参見)。
高速鉄道の整備計画のない台湾東部の東部幹線に関しては車両の高速化と高速化に対応した軌道改修を行っている。車両に関しては2004年に日本から885系新型車両を導入し太魯閣号の運行が開始された。
またかつては34路線の軽便鉄道として糖業専用鉄道があったが、1980年代にそれらの旅客営業は全廃された。林業鉄道は1914年開業の阿里山森林鉄路が現在も運行されている。
道路
台湾の国道も参照
中山高速公路高速道路は基隆・台北と高雄を結ぶ中山高速公路と、フォルモサ高速公路を中心に整備され、更に主要国道・省道が台湾全土にネットワークに構成している。これらの道路網を利用し 多くのバス会社が高速バスを運行し都市間輸送を担っている。都市間交通は台北や高雄という大都市以外に、地方都市間を連絡する路線も整備されており、鉄道輸送が整備されていない地区の主要交通手段である。
バス輸送はかつては国営の「台湾汽車客運」(中国語の汽車は自動車の意味)が高速バス事業を担っていたが、2001年の民営化に伴い「国光汽車客運」に再編された。それと同時に高速バス事業の自由化が進み、複数事業者による競合の結果、二列シート・軽食・飲物のサービス付き・カーテン・トイレ完備などの豪華なバスが大都市間で24時間運行されるようになっている。このために、民営バス会社は台湾における旅客輸送の重要な地位を占めているが、台北や中壢などでの慢性的、連休期間中の渋滞などによる遅延が発生している。
都市部では市内バス路線が整備されている。以前は旧型車両が多用され、慢性的な市内渋滞や乗客の乗降がスムーズでないなどの理由で利用頻度は高くなかったが、近年は台北市を中心に新型車両への更新、バス専用レーンの設置などで輸送能力に大幅な改善が見られ利用者も増加傾向にある。
これら交通網が整備されているが、特に市内交通での交通網が未完成であり利便性に問題があるため、タクシーや自家用車の利用が多く、簡便に移動可能なスクーターの利用が多いのも台湾の特徴である。これら各種車両が入り乱れる市内地域では激しい渋滞と、運転マナーに起因する交通事故が多発している。
国際運転免許証に関しては中華民国がジュネーブ条約に加盟していないため多くの外国人が台湾で運転する場合には現地での運転免許取得が必要であったが、日本人に関しては2007年9月19日より日本と中華民国両政府の間で短期旅行者に限定して免許証の相互承認が認められるようになり、短期旅行者がレンタカーなどを運転できるようになった。ちなみにアメリカの国際免許はそれよりもはやくから台湾で有効とされていた。
航空
航空機は台湾島と金門島などの各離島を結んでいる他、主要都市を結んだ高頻度運行サービスを提供しており、料金も割引チケットを使えば鉄道やバスと遜色ないので人気は高い。また、日本各地や香港、フィリピンのマニラなどとの間には高密度な国際線が運行されている他、アジア圏内やヨーロッパ、アメリカなどとの間にも多くの国際線が運行されている。
台湾の航空会社としては、日本では成田空港や中部国際空港、福岡空港などに乗り入れているチャイナエアライン(中華航空)が有名であるが、最近では成田空港や関西国際空港、新千歳空港などに乗り入れているエバー航空(長栄航空)も日本に浸透してきている。これらの航空会社以外にも、復興航空、立栄航空や華信航空などがある。なお、これらの航空会社のいくつかはチャイナエアラインやエバー航空の子会社である。
国際空港としては、台湾桃園国際空港、高雄国際空港、台中清泉崗国際空港があり、最近では、花蓮空港を国際空港に昇格させる計画もある。
船舶
台湾島と澎湖諸島、金門島などの離島との間は船便によっても結ばれており、航空路線が発達した今日でも利便性がある。台湾島と澎湖諸島を結ぶ船便は高雄港(台華輪)・台南安平港(今日之星)・嘉義布袋港(満天星客輪)から毎日出ている。
尚、台湾島と緑島・蘭嶼を結ぶ船便は台東富岡港から、台湾島と金門島を結ぶ船便(金門快輪というフェリー)は高雄港から、台湾島と馬祖列島を結ぶ船便(台馬輪及び合富輪)は基隆から、それぞれ出航している。
日本からは沖縄・那覇新港から、宮古島、石垣島を経由し、基隆、高雄へ向かう航路が有村産業により運航されていたが、会社破産により運休(実質廃止)となっている。
住民
台湾地域の住民は、漢民族と原住民族に大別される。原住民族は平地に住んで漢民族と同化が進んだ「平埔族」(ケタガラン族、パゼッヘ族、バブザ族など)と高地や離れ島に住む「高山族」14民族(アミ族、タイヤル族、パイワン族、ブヌン族、プユマ族、ルカイ族、ツォウ族、サイシャット族、タオ族、サオ族、タロコ族、クバラン族、サキザヤ族、セデック族。クバラン族とサオ族は平埔族に分類されていたこともある。なお、「高砂族」は日本統治時代の呼び名)に分かれる。台湾の漢民族は、戦前(主に明末清初)から台湾に居住している本省人と、国共内戦で敗れた蒋介石率いる国民党軍と共に台湾に移住した外省人に分かれる。本省人が台湾で85%を占めており、本省人は福建(閩南)系と客家系に分かれる。外省人13%、原住民2%(タイヤル、サイシャット、ツォウ、ブヌン、アミなど14民族)。左図を参照。
2005年(民国94年)現在、在台外国人は約51万人で、うち在台ベトナム人が約15万人と30%を占める(民国94年の台湾の内政部統計処調べ)。
台湾移民署の2008年11月の調査によると、台湾在住の日本人は男性6,628人と女性4,056人、合計10,684人である。そして、職業別のアンケート調査によれば、[ビジネス・男性1,933人-女性99人]、[エンジニア・男性733人-女性8人]、[会計・男性3人・女性0人]、[レポーター・男性8人-女性2人]、[教師・男性324人-女性271人]、[医師・男性7人-女性1人]、[看護師・男性0人-女性1人]、[宗教・男性58人-女性8人]、[木工・男性68人-女性0人]、[失業・男性188人-女性90人]、[主婦・1,601人]、[学生・男性410人-女性431人]、[其の他・男性1,952人-女性681人]。また、15歳以下の人数は1,807人である。
台湾での総資産が500万ニュー台湾ドルを超えるか、あるいは仕事の技能や専業を例証すれば、台湾移民署に永住を申請することができる。
言語
台湾の公用語は中国語(北京語)であり、国内では国語と称されている。国語は中華人民共和国の公用語である普通話と基本的に同一言語であるが、現在では語彙などの細かい部分に多少の相違点が生じている。他にも日常生活では福佬語(台湾語)、場所によっては客家語、原住民の諸言語が使用される。福佬語は言語上は福建方言の一種である閩南語であるが、平埔族の言語や日本語の影響を受けており、その意味でも閩南語とは分化し福佬語と呼称される[1]。
注:台湾に固有な言語という意味から、台湾語は客家語、原住民諸語をも意味するのではないか、という指摘があり、最近では福建南部系言語を台湾語と呼ばず、代わりに福佬語(ホーロー語)と呼称するケースが増えてきている。
なお閩は虫・蛇の意味で侮蔑的であるうえ、福建南部においても閩南語だけが使われているわけではないこともあって、「閩南語」の呼称は廃れつつある。ポリティカル・コレクトネス、多文化主義を参照。
音声言語の他、日本手話と比較的近い(共通性は6 - 7割といわれる)台湾手話を母語とする人たちがいる。
文字
国語は普通話と同様に漢字により表記されるが、中華人民共和国で使用されている簡体字ではなく、伝統的な繁体字(正字体)が用いられている。ただし、日常生活ではある程度略字の使用が行われている(「臺灣」を「台灣」と表記)。
また発音記号としては注音符号という発音記号を現在でも教育現場で使用しており、小学生向けの教科書にルビとして振られている他、鉄道貨車の形式を表したりするのに使われている。それ以外にもラテン文字系の通用ピンインや注音符号二式、ウェード式のような発音表記方式も存在している。
日本統治時代に教育を受けた世代ではひらがなやカタカナを利用している例もあるが、21世紀初頭では日本語を使用して福佬語を表記(台湾かな)している台湾人は極めて限定的となっている。
電子機器の文字入力
台湾式キーボードの例パソコン等の文字入力方法は、マイナーなものもふくめれば十数種類の入力方法が存在しているが、習得が容易なことから日本のかな漢字変換に似た注音輸入法がもっとも一般的である。注音輸入法はパソコンだけでなく携帯電話での文字入力にも利用されている。また、習得が困難だが入力速度の速い倉頡輸入法、嘸蝦米などもプロ向けの入力方法として人気がある。
言語教育
民主化以降になって、国語以外の言語、即ち台湾語、客家語、原住民語の教育が義務付けられたが、中国国民党による戒厳令時代はすべて標準中国語(北京語)のみで教育する事とされていた。このため、高齢者や農村部では台湾語または客家語のみで北京語が話せない者がいる。その下の世代では基本的には「国語」と台湾語の両方とも話せるが、在中年世代以下では北京語のみで台湾語を「聞いて理解できるが話せない」という者も少なくない。外省人が人口に占める割合の多い都市部でその傾向は大きい。従って、同じ「台湾人」であるはずなのに世代間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。また、日本統治時代においては日本語での教育が義務付けられたため、高齢者には日本語を話せる人が多く、中には母語並みに日本語を読み書きできる人も少なくない。
この他、英語の教育熱が高く、幼稚園時代から英語のみ使用する施設などに子供を預ける者も多い。アメリカへの修士号への取得、学士号の取得を目標とする留学者も多い。また、若者の間では日本ブームなどの流れに乗り日本語の学習者も増えている。彼らの中には日本の大学や専門学校の日本語を専攻とし、日本で就職する者も少なからず存在する。
教育
詳細は台湾の教育を参照
現在の台湾の教育制度は、中華民国憲法の規定(第二十一条、第百六十条)と各種の教育関連法に基づいて体系化されている。学制は6・3・3・4制が採用され、国民小学6年、国民中学3年、高等中学3年、大学4年となっている。ただし大學の教育、建築学部は5年、歯学部6年、医学部は7年とされている。普通学校と並行して特殊学校(盲学校、聾学校、養護学校など)と補習学校(専科学校や語学学校など)がある。義務教育(台湾語では国民敎育)は、当初は国民小学の6年のみであったが、1968年度から国民中学3年も含めて9年制とされ、公立校の教育費は無料とされている。学年度は8月1日から翌年7月31日までで、日本の4月1日~3月31日とは異なる。中華民国には二十歳の男子国民に兵役の義務があるが、大学と専科学校の在学生は卒業まで徴兵延期が許されている。
一般に台湾人は教育に熱心であり、国語(中国語)識字率は96.3%(2002年度)に達する。しかし教育熱心な人が多いゆえに台湾は学歴社会となっており、就職では日本以上に学歴が重視される傾向にある。この為、日本の高校に相当する高等中学校の進学率は92.02%、大学への進学率は70.07%(共に1997年度)と共に高い。特に有名高等中学校・大學への入試は熾烈を極める。大学進学・卒業後に海外の大学・大学院へ留学する学生も多く、台湾には日本やアメリカの大学・大学院が出した学位・博士号を持つ者も多い。
大学には総合大学のほかに短期大学(2年制)、工科大学、文科大学、国立空中大学(日本の放送大学に相当)があり、2002年度時点で大学総数154校、学生総数は約124万人に及ぶ。このような大学増設の影響から、最近では大学合格率が100%を超える問題も生じている。著名な大学として、台北市の国立台湾大学(1945年改編)・国立台湾師範大学(1946年創立)・国立政治大学(1954年復校)、新竹市の国立清華大学(1955年復校)・国立交通大学(1958年復校)、台南市の国立成功大学(1961年創立)、桃園県の国立中央大学(1968年復校)、台中市の国立中興大学(1971年改称)がある。
国外には華僑子息・子女のための教育機関として、約3750校の華僑学校(日本での名称は中華学校)が設置されており、日本には横浜中華学院、東京中華学校、大阪中華学校の3校がある。日本の華僑学校は歴史が古く、1897(明治30)年に孫文が設立した私塾に由来する。華僑学校は中国語教育および中華文化の普及を目的としている。教育対象の年齢は各学校によって異なる。
[ 中略】
台湾の国家公園
陽明山国家公園
雪覇国家公園
玉山国家公園
太魯閣国家公園
墾丁国家公園
金門国家公園(福建省)
馬告国家公園(計画)
東沙環礁国家公園
台江黒水溝国家公園(規画)
能丹国家公園(廃止)
蘭嶼国家公園(廃止)
台湾の国家風景区
台湾の国家風景区
世界遺産候補
候補のひとつである太魯閣渓谷世界遺産は、1972年のユネスコ (UNESCO) 総会で採択された通称「世界遺産条約」に基づいて、世界遺産リストに登録された普遍的な価値を持つ遺跡のことである。しかし、中華民国は1971年に国際連合における「中国の国家」としての代表権を喪失し、以来ユネスコへの加盟を認められていないことから、中華民国政府の統治下にある台湾地域では世界遺産が一つも登録されていない。
「世界遺産条約」成立以来、永らく中華民国は国内遺産の世界遺産登録に向けた行動を起こしてこなかった。しかし、2000年の台湾総統選挙で民主進歩党の陳水扁政権が発足すると、中華民国行政院・文化建設委員会は「中華民国は世界遺産条約を締結はしていないが、地球村の構成員であり、遺産を継承・保護しなければならない」との方針を打ち出し、2003年に国内で世界遺産登録の候補地を募集した。その結果、世界遺産登録の基準を満たす可能性がある遺産として12か所の遺産が選定され、現在では、将来の世界遺産登録に向けた資料作成や住民向けの講座開設等の教育活動、考古学、地理、建築などの専門家で組織する世界遺産諮問委員会の設置等の活動、及びに国際的なPRを進めている。
なお、世界遺産登録候補の内訳は、自然遺産が5か所、文化遺産が5か所、複合遺産が2か所となっている。
自然遺産候補
大屯山の陽明山地熱(台北市)
棲蘭山ヒノキ林(宜蘭県)
太魯閣渓谷(花蓮県)
玉山国家公園(南投県)
澎湖諸島の玄武岩(澎湖県)
文化遺産候補
淡水の紅毛城とその周辺の文化的景観(台北県淡水鎮)
金瓜石の太子賓館周辺の産業(台北県瑞芳鎮)
卑南史前文化遺址(台東県)
蘭嶼のタオ族集落と自然景観(台東県)
金門島の伝統的集落(金門県)
複合遺産候補
阿里山森林鉄路(嘉義市、嘉義県)
旧山線鉄路(苗栗県、台中県)
出典・脚注
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^ 片倉佳史「台湾の言葉について」『旅の指さし会話帳8:台湾』第2版、情報センター出版局、2004年、p82-86、ISBN 978-4-7958-2593-2
^ http://www2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/money/banknote/p05_taiwan.htm
^ http://www.asahi.com/sports/update/1117/TKY200811170189.html
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関連項目
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資生堂ショップ・イベント情報 ■プレゼント・占い ■企業・カルチャー情報 ■資生堂グループ ■メール配信登録/変更. ━━━. ○会員登録/変更 ○お問い合わせ└資生堂お客さま窓口 ○利用規約 ○個人情報保護方針 ●マイメニュー登録 ●マイメニュー解除. ━━━. (c)2000-2009 Shiseido.
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4911 (株)資生堂 資生堂 NIKKEI NET 株価サーチ日経が運営する「株価サーチ」と「スマートチャート」。 証券コードか社名を入力し上場企業およそ3800社のページを検索。株価から財務、適時開示、ニュース、人事まで一覧できます。テクニカル分析ツールを搭載したスマートチャートも.
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第3回企業のデザイン展「資生堂・サントリーの商品デザイン展」資生堂とサントリー両社が創業以来現在まで、1世紀以上に渡り発表してきた数々の商品をデザインの側から光を当て、この機会に一堂に集めて概観します。来場者の方々にはデザインがいかに私たちの生活と密接に結びついているかをぜひ確認して頂きたいと ...
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【資生堂】
株式会社 資生堂
Shiseido Co.,Ltd.
種類 株式会社
市場情報 東証1部 4911 1949年5月16日上場
略称 資生堂、SHISEIDO
本社所在地 〒104-8010
東京都中央区銀座七丁目5番5号
電話番号 03-3572-5111
設立 1927年(昭和2年)6月24日
業種 化学
事業内容 化粧品、化粧用具、トイレタリー製品、理・美容製品、美容食品、医薬品の製造・販売
代表者 前田新造(代表取締役執行役員社長)
資本金 645億06百万円
売上高 連結:7,234億84百万円
単独:2,731億58百万円
総資産 連結:6,758億64百万円
単独:4,910億09百万円
従業員数 連結:28,793名 単独:3,497名
決算期 3月31日
主要株主 日本マスタートラスト信託銀行(株)(信託口) 5.48%
(株)みずほ銀行 5.17%
ステート・ストリート・バンク&トラスト 4.99%
主要子会社 資生堂グループ参照
関係する人物 福原有信(創業者)
福原信三(初代社長)
山名文夫(デザイナー)
杉山登志(CMディレクター)
福原義春(名誉会長)
外部リンク www.shiseido.co.jp
特記事項:各種経営指標は2008年3月期のもの
創業1872年
表・話・編・歴
株式会社 資生堂(しせいどう、英称:Shiseido Co., Ltd. )は、東京都中央区銀座七丁目5番5号に本社を置く、化粧品の製造や販売を中心とする日本の企業である。東京証券取引所第一部上場。
目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 主なブランド(アルファベット順)
4 以前あったブランド
4.1 女性用化粧品
4.2 男性用化粧品
4.3 その他
4.3.1 洗濯用洗剤
4.3.2 歯磨
4.3.3 清涼飲料水
4.3.4 生理用品
5 アトリエマサ
6 資生堂グループ
7 広告
7.1 提供クレジット
7.2 特別番組
7.3 スポンサー番組
7.3.1 テレビ
7.3.2 ラジオ
7.4 かつて提供した番組
7.4.1 テレビ
7.4.2 ラジオ
7.5 代表的なCMソング
8 資生堂TECH21限定車
9 鈴鹿8耐とTECH21
10 資生堂ランニングクラブ
10.1 主な指導者
10.2 主な部員
10.3 元所属部員
10.4 移籍選手
11 不祥事・裁判など
11.1 「薄毛は子孫も迷惑」CM
11.2 裁判
12 関連項目
13 外部リンク
概要 [編集]
汐留オフィス (汐留タワー)国内第1位の化粧品メーカーであり、世界では第5位である。登記上の本店は東京都中央区銀座七丁目の資生堂銀座ビルだが、実質的な本社機能は東京都港区東新橋一丁目の汐留タワー(日本テレビ向かい側)内に移管している。
商号の由来は、中国の古典『易経』の一節「至哉坤元 萬物資生」。「資生」は中国清代の文献に良く見られ、日本語で「経済」と翻訳された時期があった。
シンボルマークは「花椿」と呼ばれ、資生堂に関連する活動にも「椿」の名称がよく用いられる。このシンボルは1987年に広告での使用を中止し、1989年以降は製品からもはずすなど対外的な使用を取りやめていたが、2004年に復活している。
資生堂商品は世界的にも品質の評価が高く、欧米でも高級品として定着している。また近年ではアジア(特に中国)での成長が著しい。また、芸術関係への助成(企業メセナ)にも定評がある。
過去には生理用品や洗濯用洗剤、歯磨剤も発売されていたが、売上不振によりいずれも撤退している。
第一勧銀グループの一員である。
沿革 [編集]
1872年9月17日 - 日本初の洋風調剤薬局として福原有信が銀座に開業。
1880年 - 育毛剤の販売を開始。
1888年 - 福原衛生歯磨石鹸を発売。
1897年 - 高等化粧水「オイデルミン」を発売し、化粧品事業に進出。
1902年 - 薬品部店舗にソーダファウンテンを設置。後に資生堂パーラーに発展。
1919年 - 大阪の心斎橋に支店を開設。
1923年 - 関東大震災で煉瓦造り3階建ての薬品部と化粧部の建物(現:資生堂ザ・ギンザの場所)が倒壊。
1928年 - 5月18日に化粧部の建物が落成。7月3日に資生堂パーラーが営業開始。
1934年 - 高島屋、神戸大丸にて当時銀座にさえなかった百貨店を舞台に華麗なキャンペーンを実施した。
1940年 - 中国大陸向けに香水を量産し日本を代表する高級輸出品となる。
1949年 - 東京証券取引所市場第一部に上場。
1983年 - 中国(北京市)でシャンプー、リンスの生産開始(輸入販売の開始は1981年)。
1988年 - ゾートス社を傘下におさめる。
1989年 - ハーバード医科大学などとハーバード皮膚化学研究所を設立。
2001年 - 東京銀座資生堂ビル完成。
2005年 - 新しいコーポレートメッセージ「一瞬も 一生も 美しく」を策定。
主なブランド(アルファベット順) [編集]
Actea Heart(アクテアハート)
Ag+(エージープラス) - 銀イオンを使った制汗剤
ANESSA(アネッサ)- サンケア商品
AUSLESE(アウスレーゼ)- 男性用
AQUALABEL(アクアレーベル) - メガブランド第3弾
BEAUTY VOLTAGE(ビューティーボルテージ) 略称はBTV
BENEFIQUE(ベネフィーク) - 専門店専用 略称はBQ
BRAVAS(ブラバス) - 男性用
cl醇P de peau BEAUT遵ッ(クレ・ド・ポー ボーテ)- 最高級ライン 略称はCPB
cl醇P de peau BEAUT遵ッ synergique(クレ・ド・ポーボーテ シネルジックライン)より略称はCPB超高級ライン
d Program(ディー・プログラム) 略称はDP
de Luxe(ドルックス) - 初代は1932年発売の超ロングセラー
ELIXIR SUPERIEUR(エリクシール シュペリエル) - メガブランド第6弾 略称はEIS
ELIXIR PRIOR(エリクシール プリオール)
EUDERMIN(オイデルミン) - 初代は1897年発売。調剤薬局
HAKU(ハク) 略称はHK
HG(エイチジー) - 男性用
INOUI(インウイ)- アイライナーが人気。
INTEGRATE / INTEGRATE GRACY(インテグレート/インテグレート グレイシィ) - メガブランド第5弾
KIRYO(キリョウ)
LORDES(ロードス)- 男性用
MA CH遵ッRIE(マシェリ) - シャンプーなどのヘアケア商品 略称はMR
MAJOLICA MAJORCA(マジョリカ・マジョルカ)
MAQuillAGE(マキアージュ) - メガブランド第1弾 トータルメーキャップブランド 略称はMQ
Naturals(ナチュラルズ)- 無添加自然素材使用
MG5(エムジーファイブ) - 男性用
qiora(キオラ) - 専門店専用 略称はQR
REVITAL(リバイタル ) 略称はRE
REVITAL GRANAS(リバイタル グラナス) 2008年10月21日に誕生した新ブランド。
SEA BREEZE(シーブリーズ) - 1902年にアメリカで発売されたブランドで、メントールを使ったローション・シャンプーなど。2000年にグループ会社のエフティ資生堂が外資系製薬会社ブリストル・マイヤーズ・スクイブから買収。現在は資生堂が販売。
SHISEIDO(シセイドウ) - グローバルSHISEIDOブランド第1弾。百貨店専用。
SHISEIDO MEN(シセイドウ メン) - 男性用
SINOADORE(シノアドア) 略称はSND
SUPER MILD / SUPER MILD チカラ(スーパーマイルド/-チカラ) - 1988年から発売されているヘアケアブランド
TACTICS(タクティクス) - 男性用
The Makeup(ザ・メーキャップ) - 百貨店専用。略称はSTM
TSUBAKI(ツバキ) - メガブランド第4弾
uno(ウーノ) - メガブランド第2弾
Zen(禅)
& Face(アンドフェイス)
2000年代に入り、100以上に増えすぎてしまったブランドを整理・統合し、新ブランドなどに集約・特化する「メガブランド構想」を打ち出し大再編に踏み切ったが、一時的な混乱が生じた。低価格品や普及品分野においては「SHISEIDO」を冠さない方針により、エフティ資生堂の商品は「資生堂」の文字が外され「FT」としたが、すぐに復活した。コスメニティ事業では「FITIT」と名乗ったがどちらも浸透せず、ブランド価値が分散する結果になった。組織をブランド単位に分割する施策は縦割りの弊害を招き、元に戻された。
また、子会社である大阪資生堂(現・資生堂大阪工場)は、製品表記を「資生堂」のみに一本化させる目的で会社が消滅した。
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
以前あったブランド [編集]
女性用化粧品 [編集]
ELIXIR(エリクシール) 略称はEI
UV WHITE(ユーヴィーホワイト) 略称はUVW
※いずれもELIXIR SUPERIEURの前身となるスキンケアブランド。共に現行品だが、縮小が進んでいる。
EVENESE DR(イブニーズDR)
※資生堂インターナショナルのd program(dプログラム)の前身となる敏感肌向けスキンケアブランド。縮小が進んでいる。
TAPHY(タフィ)略称はTA
※BEAUTY VOLTAGEの前身となるスキンケアブランド。まだ現行品だが、縮小が進んでいる
TAPHY MILD(タフィマイルド)略称はTAM
※TAPHYと同時に展開する敏感肌向けライン。EVENESE DR(イブニーズDR)とコンセプトが似ている。縮小が進んでいる。
OPTUNE(オプチューン)
※TAPHYの前身となるスキンケアブランド。
プルミエ
※OPTUNEの前身となるスキンケアブランド。
PORCELIA(ポーセリア)
※プルミエの前身となるスキンケアブランド。CMキャラクターは薬師丸ひろ子で、自身の曲も使用された。
ff(フフ)
SELFIT:
※INTEGRATEおよびINTEGRATE GRACYの前身となるセルフメーキャップブランド。
INOUI ID(インウイ アイディー)
※一部の百貨店で専用カウンターを設けて発売していた。
PN(ピエヌ)略称もPN
PROUDIA(プラウディア)
※以上2ブランドは2005年にMAQuillAGE(マキアージュ)へ統合。
RECIENTE(レシェンテ)
※ピエヌの前身となるメーキャップブランド。
WHITIA(ホワイティア)
※アクアレーベルの「青の美白ライン」の前身となるセルフスキンケアブランド。
ASPLIR(アスプリール)
※アクアレーベルの「赤の保湿ライン」の前身となるセルフスキンケアブランド。
NOMBRE NOIR(ノンブルノアール)
※資生堂の高級香水のひとつ。原料の調達難航のため、製造が中止された。
Neue(ノイエ)
※ヘアケアブランド。CMキャラクターは第1期は江角マキコ、第2期はGackt。
男性用化粧品 [編集]
GERAID(ジェレイド)
※ワックスなどの整髪料が中心。2005年にunoに統合され、ラインナップ縮小が進んでいる(一部商品は存続)。男性用ファンデーションやアイブロー、接着剤のボンドそっくりの形をしたヘアワックスなど、当時無香料でモノクロカラーを押し出していたunoとは正反対の奇抜な製品が多かった。
LORDOS NEUES(ロードスノイエス)
※1993年発売。資生堂の男性用化粧品の中では最高価格の商品であった。3種類の香りのコロンと10種類の無香料基礎化粧品からなるラインナップであり、現行のSHISEIDO MENよりも更に高い価格設定(3000円~15000円)であった。2008年3月をもってSHISEIDO MENに移行する形で全商品生産終了。事実上のブランド閉鎖となった。ちなみに同じく男性用のLORDOS(ロードス)とブランド名が類似するが、こちらは全種類に香料が含まれていることや、パッケージのデザイン、ラインナップの差異、容器の形状などが異なることから完全に別のブランドである。LORDOSは1972年発売以来の現行品である。
TECH21(テック21)
資生堂商事(現エフティ資生堂)からの発売。平忠彦を起用したCMで大きな話題に(後述)。
Wing(ウィング)
※コンビニエンスストア専用ブランド。初期のCMキャラクターは柳葉敏郎。現在コンビニ向け販売は、ミニサイズのunoが引き継いでいる。
Gear(ギア)
※unoの前身となった若者向け男性化粧品。CMキャラクターに陣内孝則を起用し話題になった。
Rupo(ルポ)
※若者向け男性化粧品。上條淳士のイラストレーションが広告に使われた。
Aleph(アレフ)
※オウム真理教がアーレフへ改称し、名称が酷似するため廃止したとされる。
TRENDY(トレンディ)
※資生堂商事からの発売。CMキャラクターはBARBEE BOYS。
MG5 GALAC(エムジーファイブ・ギャラック)
※MG5からの派生ブランド。容器のデザインがMG5の円筒状に対し、角柱状のボトルであった。1980年代に廃止。
BECAUSE(ビコーズ)
※CMキャラクターは石原裕次郎。
その他 [編集]
洗濯用洗剤 [編集]
ミラクル
※1960年代に発売されていた。ザ・ピーナッツによるCMソングも作成されていた。
YES
※1980年代に発売されていた。現在は洗濯用洗剤事業から撤退。
歯磨 [編集]
パール歯磨
エコー歯磨
MEDIC(メディック)
※1980年代に展開していた歯磨剤ブランド。ヒノキチオール配合。
On-Air・On-Wave(オンエアー・オンウェーブ)
※1980年代に展開していた歯ブラシ・歯磨剤ブランド。仲村トオルを起用したCMも話題になった。現在は歯磨事業から撤退。
清涼飲料水 [編集]
DRINK PORT
※1980年代~1990年代初期に展開していた清涼飲料水ブランド。化粧品店等の店頭に自動販売機が設置してあった。現在は清涼飲料水部門から撤退。
生理用品 [編集]
センターイン
※現在は生理用品事業から撤退。ユニ・チャームに譲渡。
アトリエマサ [編集]
マサ大竹(まさおおたけ) 本名:大竹 政義(おおたけまさよし)MASA代表他、
資生堂ビューティークリエーション研究所長、資生堂美容室(株)取締役副社長、SABFA校長 日本ヘアデザイン協会副理事長、I.C.D.JAPAN理事
資生堂全ブランドメーキャップのイメージやソフト情報を統括すると同時に、自らも各種メディア、ファッションコレクションショーなどの幅広い分野でヘア・メーキャップのクリエーション活動を行っている。
海外はニューヨークカーネギーホールでのビューティークリエイティブショーをはじめとし、美容セミナー等のトータルビューティープレゼンテーション活動を国内外で意欲的に行っている。
1987年 国際的に多くの功績があったとしてイタリア美容協会より「ランボー賞」を受賞
1996年 世界美容家協会(I.C.D)世界大会において、I.C.Dシュバリエ(ナイト)賞を受賞
2008年 黄綬褒章を受章
国内では毎年、資生堂ZOTOSゾートスヘアコングレスを大規模なショーとして開催している。
資生堂グループ [編集]
エフティ資生堂 - トイレタリー事業。資生堂ファイントイレタリー(旧資生堂商事)を吸収合併し、トイレタリー製品専門会社となっていたが、現在はほぼすべて資生堂本体に移管されている。
オービット - コンビニ専用ブランドの化粧惑星などを販売。
資生堂パーラー - 銀座を本店とする洋食・喫茶・高級洋菓子の老舗(1902年より)。
資生堂薬品 - 資生堂の医薬品や医薬部外品を製造する部門。医薬部外品は掛川工場で製造しているが、飲み薬はゼリア新薬工業に製造を委託。
資生堂美容室
資生堂フィティット - コスメニティ部門。旧資生堂コスメニティ。セルフ化粧品など一部の商品の発売元。
資生堂ビューティーフーズ
資生堂アメニティグッズ - 主に旅館やスポーツクラブなどで利用される業務用化粧品を製造販売すると共に、ノベルティなども製造。
資生堂プロフェッショナル - 主に美容室やエステティックなど、プロ専用の化粧品を製造販売すると共に、経営者向けのセミナーなどを実施。
資生堂開発 - 不動産部門は美容院やブティックの設計。グラフィックアーツ部門では商品パッケージや販促物のデザイン設計も。
資生堂リース - 社用車や備品の原価償却を行う。現在は経理処理のみを行い、実際のリース物件はNECリース、芙蓉総合リース、東京オートリースから受けている。
資生堂情報ネットワーク - 主に店頭で使われるスキンビジオムやフォーカス、コーナーポスの保守を行う。
資生堂販売 - 美容部員の教育や店舗への派遣を行う。資生堂の顔ともいえる。
資生堂アステック - 主に資生堂の従業員の福利厚生を管理。資生堂内では「管理部」とも呼ばれる。
資生堂ランニングクラブ
資生堂ホネケーキ工業 - 主にせっけんを製造。
資生堂医理科テクノロジーズ
学校法人資生堂学園 - 資生堂美容技術専門学校
財団法人資生堂社会福祉事業財団
株式会社アユーラ ラボラトリーズ - 別会社化した化粧品会社。アウト・オブ・シセイドーとよばれる。
株式会社イプサ - 同上
株式会社ディシラ - 同上
株式会社エテュセ - 同上
株式会社アクス - 同上。発売ブランドはフリーソウルピカデリー、キリョウ。
資生堂物流サービス - 2007年4月1日付けで日立物流へ譲渡。現在は「日立物流コラボネクスト株式会社」と名称を変え、日立物流の子会社として資生堂の物流機能を請け負っている。
広告 [編集]
提供クレジット [編集]
一社提供の場合、提供クレジットに「提供」と付かず、単に「SHISEIDO」もしくはCIマークのみ表示する場合が多い。
かつてのクレジットの文言は「東京・銀座 資生堂」だった。90年代初期には「ヒトを彩るサイエンス SHISEIDO」というクレジットも存在した。
特別番組 [編集]
2006年8月28日夜9時にTBS系(毎日放送制作)でCMづくりにかける製作者たちの2時間ドラマ「メッセージ~伝説のCMディレクター・杉山登志~」が放送されたが、資生堂の単独提供で、内容も資生堂のCM作りにかけた男たちの物語だった。CMのCMキャンペーンの一環でもあり(放送直前にCMの60秒バージョンが放送されている)資生堂とCMの関係の強さを表していた。この放送でのクレジットは「一瞬も、一生も、美しく SHISEIDO」で、これはこの番組を制作した毎日放送が同様に制作している「皇室アルバム」におけるスポンサースローガンと同じである(資生堂は現在の「皇室アルバム」のスポンサーでもある)。
スポンサー番組 [編集]
※印はエフティ資生堂(旧資生堂ファイントイレタリー)名義での提供番組。
テレビ [編集]
日本テレビ
ズームイン!!SUPER※(現在は事業再編で資生堂のみ)
おしゃれイズム - 一社提供。
TBS
金曜ドラマ - ※(現在は事業再編で資生堂のみ)
hito 今を生きるあなたへ - 一社提供。
フジテレビ
フジテレビ火曜ドラマ
テレビ朝日
報道ステーション - 月曜日。番組開始~提供していたが東京国際女子マラソンが2008年大会で閉幕するのを受けて、2008年9月で降板。
テレビ東京
シネマ通信
毎日放送・TBS系列
皇室アルバム(一部地域のみ)。
TOKYO MX
TOKYOモーニングサプリ - 一社提供(天気情報)。
BSジャパン
ファッション通信 - 一社提供。かつてはテレビ東京で放送していた。
ラジオ [編集]
ニッポン放送
ショウアップナイター - 火曜日。
HBCラジオ.CBCラジオ.ABCラジオ.KBCラジオのスポンサーネット。
かつて提供した番組 [編集]
テレビ [編集]
日本テレビ
11PM
光子の窓
資生堂・サンデーヒットパレード
おしゃれ
オシャレ30・30
おしゃれカンケイ
三枝成章の気まぐれ
スター誕生! - 末期は当時人気を得ていた洗顔料ブランドの「エクボ」として表記。しかし番組性格上、CMは「バスボン」シリーズを優先的に放映。
クローズアップNOW
太陽にほえろ!
金曜劇場
もっとあぶない刑事
刑事貴族
夜もヒッパレ一生けんめい。→THE夜もヒッパレ ※
エンタの神様 - 波田陽区に「おしゃれカンケイ」を斬られたため降板。
TBS
TBS木曜8時枠の連続ドラマ
クイズ悪魔のささやき※
筋肉番付
どうぶつ奇想天外 ※ - 日曜移動後、途中降板。
フジテレビ
夜のヒットスタジオ - 1969年4月から1990年10月の放送終了時まで提供。
サザエさん - 東芝一社提供の時代にヒッチハイクCMを流していたが、提供の表示は無かった。
ゴールデン洋画劇場
小川宏ショー
プロ野球ニュース - 1994年3月(ニュースJAPAN内包前)まで、前半部分のみ提供
チョット待った!!
運命GAME
ヒットパレード'90s
G-STAGE
うれしたのし大好き
フジテレビ水曜10時枠の連続ドラマ
フジテレビ水曜劇場 - 火9へ移行。
テレビ朝日
ニュースステーション - 1999年10月頃に起こった久米宏の降板騒動と同時期に降板。
パパパパPUFFY - 資生堂フィティットが提供。
東京国際女子マラソン - 1979年から1999年まで。スポンサーだった。
テレビ東京
少女雑貨専門TV エクボ堂 - 資生堂エクボ(現在は消滅)が提供。資生堂本体もヒッチハイク部分でCMを流していた。
BSデジタルで民放5局の土曜日23時台の番組のスポンサーになって話題を呼んだことがある。
ラジオ [編集]
TBSラジオ
明石家さんまのおしゃべりツバメ返し
ニッポン放送
ひかる一平の恋のサインはSEE SAYS DO!
田原俊彦 誘惑トゥナイト・SEE SAYS DO!
田原俊彦 君とSHOWERING NIGHT・SEE SAYS DO!
仲村トオル 待たせてゴメン
大槻ケンヂのセニョール!セニョリータ!
知ってる?24時。 - 2003年4月~12月。プログラムサポーターとして。
FM東京
American Top 40
J-WAVE
SHISEIDO MIDNIGHT FACES - 初期はOPTUNE MIDNIGHT FACESだった。
代表的なCMソング [編集]
りりィ 『春早期』(1975年)
りりィ 『オレンジ村から春へ』(1976年)
小椋佳 『揺れるまなざし』(1976年)
尾崎亜美 『マイ・ピュア・レディ』(1977年)
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 『サクセス』(1977年)
南沙織 『春の予感‐I've been mellow‐』(1978年)
矢沢永吉 『時間よ止まれ』(1978年)
堀内孝雄 『君のひとみは10000ボルト』(1978年)
南こうせつ 『夢一夜』(1979年)
ツイスト 『燃えろいい女』(1979年)
竹内まりや 『不思議なピーチパイ』(1980年)
クリスタルキング 『蜃気楼』(1980年)
加藤和彦 『お帰りなさい 秋のテーマ』(1980年)
松原みき 『ニートな午後3時』(1981年)
忌野清志郎+坂本龍一 『い・け・な・いルージュマジック』(1982年)
矢沢永吉 『LAHAINA』(1982年)
EPO 『う、ふ、ふ、ふ。』(1983年)
ラッツ&スター 『め組のひと』(1983年)
原由子 『恋は、ご多忙申し上げます』(1983年)
高見知佳 『くちびるヌード』(1984年)
大沢誉志幸 『その気×××(Mistake)』(1984年)
香坂みゆき 『ニュアンスしましょ』(1984年)
薬師丸ひろ子 『冬のバラ』(1984年)
大貫妙子 『ベジタブル』(1985年)
松任谷由実 『メトロポリスの片隅で』(1985年)
中山美穂 『色・ホワイトブレンド』(1986年)
KUWATA BAND 『BAN BAN BAN』(1986年)
中山美穂 『ツイてるねノッてるね』(1986年)
小林明子 『くちびるスウィング』(1987年)
プリンセス・プリンセス 『GO AWAY BOY』(1988年)
今井美樹 『彼女とTIP ON DUO』(1988年)
中山美穂 『ROS遵ッCOLOR』(1989年)
Wink 『咲き誇れ愛しさよ』(1993年)
DREAMS COME TRUE 『go for it!』(1993年)
B'z 『FIREBALL』(1997年)
矢沢永吉 『Still』(1997年)
L'Arc~en~Ciel 『NEO UNIVERSE』(2000年)
L'Arc~en~Ciel 『STAY AWAY』(2000年)
矢井田瞳 『Look Back Again』(2001年)
Tommy february6 『Bloomin'!』(2002年)
山田タマル 『My Brand New Eden』(2006年)
SMAP 『Dear WOMAN』(2006年)
BONNIE PINK 『A Perfect Sky』(2006年)
平井堅 『美しい人』(2007年)
資生堂TECH21限定車 [編集]
薄紫に塗装された車輌の両サイドに黒文字で、資生堂とTECH21のロゴを配置したカラーリングである。 ヤマハ発動機ワークス・チームのスポンサーカラーであるTECH21カラーは、1980年代後半に人気を博したため、排気量別に何種類かモーターサイクルが、ヤマハ発動機から限定販売された。
FZ250-PHAZER(1型)
FZR250(1型)
YSR50(1型)
CUTE(50?)
CHAMP-RS(50?)※2型迄存在する。
JOG-SPORTS EDITION(50?:3型)※他の限定車とは異なり、1989年モデルをモチーフにしたパールホワイトベースに銀文字の塗色となっている。
鈴鹿8耐とTECH21 [編集]
1985年、資生堂は新しい男性用化粧品としてTECH21を発売、主たる販売ターゲットである若年層に訴求するために、イメージキャラクターとしてレーシングライダーの平忠彦を起用した。さらに資生堂は、鈴鹿8時間耐久ロードレース(以下、鈴鹿8耐)に出走するヤマハワークス・チームのメインスポンサーとなり、TECH21のロゴをFZR750(1985年)とYZF750(1986年~1990年)の車体及びライディングスーツやスタッフウェアに展開した。1980年代半ばの日本のレースシーンにおいて、モータースポーツに全く関係のない異業種がレーシングチームをフルスポンサーすることはまだとても珍しく、原色ばかりの当時のレーシングマシンのカラーリングの中にあってこれまた異色の紫色のマシン、そしてイメージキャラクターである平の知名度も相まって、TECH21チームはレース関係者やレースファンのみならず、レースに関心の薄い一般の人々の注目をも集めることとなった。サーキットを疾走する印象的な紫色を纏ったマシンとライダーである平が織り成すドラマティックとも悲劇的とも形容されるレース展開と内容は観る者を惹きつけ、その注目の度合いは参戦を重ねるとともに高まることとなった。そして資生堂のスポンサー開始から6年目の1990年、平とTECH21チームは遂に悲願の鈴鹿8耐優勝を達成し、この年をもって鈴鹿8耐における資生堂のスポンサーも終了した(TECH21チームとしては1987年にも優勝しているが、このとき平は怪我のため出走していない)。
詳細は平忠彦の項目を参照のこと。
資生堂ランニングクラブ [編集]
資生堂は、女子陸上部を持っており、「資生堂ランニングクラブ」と称している。所属選手は近年、各競技大会において目覚しい成果をあげるようになってきている。2006年12月の全日本実業団対抗女子駅伝ではアンカーに弘山晴美を擁して、悲願の初優勝を果たした。
主な指導者 [編集]
弘山勉 元選手でマラソン自己記録は2:11:37。2007年4月より監督就任となる。資生堂ランニングクラブはかつて弘山と、安養寺俊隆(現資生堂RCコーチ)、川越学(現セカンドウィンドAC監督)、比嘉正樹(現セカンドウィンドACコーチ)など男子選手も所属していたが、会社として男子選手の採用を行わなくなったため選手の引退で自然消滅した。
弘山晴美 夫は監督の弘山勉。1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネと、長距離トラック種目で3大会連続の五輪代表選手となる。また1999年世界陸上セビリア大会女子10000mでは4位入賞、2006年名古屋国際女子マラソンでマラソン初優勝を成し遂げた。マラソン自己記録2:22:56、2009年引退。
主な部員 [編集]
佐藤由美 - 2004年水戸国際陸上競技大会女子1500m・優勝。2005年アジア陸上選手権女子10000m・第2位、女子5000m・第3位。資生堂陸上部キャプテン(2009年4月現在)
藤川亜希 - 2004年名古屋国際女子マラソンでは2:27:06の自己記録で3位。2007年青梅マラソンでは1:47:40の記録で優勝
平田裕美 - 初マラソンの2008年名古屋国際女子マラソンでは2:29:23の記録で7位。翌2009年名古屋国際女子マラソンでは2:30:16の記録で6位
藤永佳子 - 初マラソンの2009年名古屋国際女子マラソンでは2:28:13の記録でいきなり初優勝。同年世界陸上ベルリン大会女子マラソン内定代表選出
元所属部員 [編集]
松田千枝(東京国際女子マラソンに1979年の第1回大会から参加、1985年大会では2:36:38の自己記録で4位。2008年定年退職)
谷川真理(1994年まで所属。1991年東京国際女子マラソン、1994年パリマラソンなどで優勝、自己記録2:27:55。現在はアミノバイタルAC所属)
野村洋子(初マラソンの1997年大阪国際女子マラソンでは2:29:26の記録で5位、後にシドニー五輪金メダリストの高橋尚子に先着。2001年引退)
山内美根子(2000年東京国際女子マラソンで2:28:51の自己記録で7位。2003年引退、現セカンドウインドACコーチ)
寺内多恵子(元バレーボール選手で、初マラソンデビューがホノルルという異色ランナー。マラソン自己記録2:28:10、2005年引退)
移籍選手 [編集]
下記選手は2007年4月1日をもってセカンドウィンドAC(SWAC)へ移籍した。
嶋原清子(2007年世界陸上大阪大会女子マラソンでは6位入賞と健闘、2008年ホノルルマラソン優勝)
尾崎朱美(2006年東京国際女子マラソンでは高橋尚子を抑え準優勝、2007年同マラソンは自己新記録で4位)
加納由理(2007年北海道マラソン優勝、2008年東京国際女子マラソンは終盤渋井陽子を追い抜き自己記録で2位)
吉田香織(初マラソンの2006年北海道マラソンで初優勝。2009年にSWACを退部、現在はアミノバイタルAC所属)
不祥事・裁判など [編集]
「薄毛は子孫も迷惑」CM [編集]
新しい発毛促進剤「薬用アデノゲン」の発売に向け、2004年12月に30~59歳の男性1550人に対してネット上で意識調査を実施し、集まったデータをもとに『薄毛はあなた一人の問題ではありません、子孫も迷惑です。』といった内容をホームページ上に掲載した。「薄毛の人は部長どまり?」、「偉くなるのは薄毛じゃない人」など、薄毛で悩んでいる人を侮辱するかの内容に対し、抗議が殺到した。
裁判 [編集]
店頭で商品の説明をする「対面販売」を守らなかったことを理由に特約店契約を解除され、資生堂化粧品の出荷を停止された小売業「冨士喜本店」(東京都台東区)が「対面販売の義務付けは値引き販売の防止が狙いであり、独占禁止法違反」などとして、訴訟を起こした。
1991年 「対面販売」をしないのは契約違反として契約を解除された東京の冨士喜本店が「(対面販売を義務付けるのは)価格拘束をするためのもので違法。」とし、資生堂東京販売を提訴した。
1993年 東京地裁の判決は冨士喜本店勝訴。さらに同年、今度は千葉の河内屋もほぼ同様な理由で契約を解除されたため資生堂を公正取引委員会に申告した。
1994年 冨士喜訴訟の控訴審判決は資生堂勝訴となった。訴訟で敗訴した冨士喜本店は上告した。
1995年 公正取引委員会は価格拘束の疑いがあるとして資生堂に排除勧告を行った。資生堂は排除勧告を受けいれた。その流れで価格の乱れを防ぐため、化粧品専門店だけの限定ブランド(ベネフィーク)を発売した。
1996年4月1日 化粧品の再販撤廃。
1998年12月18日 最高裁は同訴訟でのメーカー側勝訴を確定した。判決で金谷利広裁判長は「対面販売は顧客の信頼保持など合理的な理由があり、独占禁止法に反しない。」との初判断を示して、冨士喜本店の逆転敗訴とした二審判決を支持、同社の上告を棄却した。
裁判では「価格拘束をするのは違法だが、カウンセリング契約は合法。」という判断になり、その結果、2006年から発売された「マキアージュ」や「エリクシールシュペリエル」などのメガブランド戦略を実施するにあたって、大前提の価格拘束(維持)につながっている。
ノープリントプライスの商品であっても、暗にメーカー希望小売価格が存在している。資生堂商品のバーコード付近、成分表示付近のいずれかに2781Pから始まる記号が付いている商品はP以降でSより左側の数字が1000円単位、Sより右側が左から順に100円10円単位になっている。例として「2781P01S98」と表示されていた場合は1980円が、「2781P00S85」なら850円が暗黙のメーカー希望小売価格である。
関連項目 [編集]
安達潮花
榎本武揚(創業者の遠い親戚)
汐留
乃木静子(日露戦争開戦時に、1つ9円の香水2つと8円の香水1つの計3つの超高級化粧水を購入したことで有名)
外部リンク [編集]
資生堂
[隠す]表・話・編・歴TOPIX 100
Core30 JT - セブン&アイ - 信越化学 - 武田薬品 - アステラス - 第一三共 - 新日鐵 - JFE - コマツ - 日立 - パナソニック - ソニー - 日産 - トヨタ - ホンダ - キヤノン - 任天堂 - 三井物産 - 三菱商事 - 三菱UFJ - 三井住友 - みずほ - 野村 - 東京海上 - 三菱地所 - JR東日本 - NTT - KDDI - NTTドコモ - 東電
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隠しカテゴリ: 書きかけの節のある項目
最終更新 2009年6月8日 (月)
【㈱資生堂】【東証】
【特色】【化粧品国内トップ、目下中国を攻略中】
【修士・大卒採用数】108
【09年4月入社者の採用実績校】
慶應義塾大学14
早稲田大学9
東京大学6
大阪大学6
中央大学6
上智大学5
同志社大学5
京都大学3
青山学院大学3
学習院大学3
日本大学3
関西大学3
関西学院大学3
他
※計47校
【08年4月入社者の配属勤務地とその人数】
【事務系】首都圏26近畿16関越14中四国10九州10中部9北海道・東北5他
【技術系】神奈川21大阪1埼玉1静岡1
【出典:就職四季報 2010年度版東洋経済 p143】
松下幸之助
【検索の達人 ■■■】■■■に文字を記入!
高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】
松下幸之助
パナソニックミュージアム・松下幸之助歴史館 松下幸之助の銅像松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家。
パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた日本屈指の経営者で、経営の神様とも、関係者からは社主とも称された。
自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 エピソード
3 語録
4 栄典
5 系譜
5.1 閨閥
6 記念碑等
7 脚注
8 主著
9 評伝
10 松下幸之助を演じた俳優
11 関連項目
12 外部リンク
来歴・人物 [編集]
松下幸之助, タイム, 19621894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。
1899年頃、父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し下駄屋を始めた。しかし父には商才もなく店を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。奉公先を五代自転車に移した後、大阪に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、16歳で大阪電燈(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。
在職中に、簡単に電球の取り外しが可能な電球ソケットを考案。当時の電球は、自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、画期的な発明であった。1917年、大阪電燈を依願退職、大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。当時の電灯線電力は電球数に基づく固定料金制が主流だったため、次第に評判を取る。その後、兄弟喧嘩で電球を取り合う光景をヒントに、コンセント・スイッチ付き二股電球ソケット『1号国民ソケット』を考案。創業2年目にしてヒット商品を作り出し、経営が軌道に乗る。
事業拡大に伴い、1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所を創業。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925年から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げ、1929年の松下電器製作所への改称と同時に『綱領・信条』を設定した。
1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示。1935年には松下電器産業株式会社へと社名変更した。
第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力。1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機『明星』を終戦までに7機試作、試験飛行に漕ぎ着けたものの1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から[1]惨憺たる失敗に終わった。
戦後直ちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・井植以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。暖簾分けの形で井植を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する一方、1946年11月にはPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出すことで世評を高め、社内留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する。
続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮・人員大量整理・賃金抑制を断行し、危機を乗り切った。この経営手法を当時のマスコミが揶揄して物品税の滞納王などと報道された。
1950年以降、長者番付で10回全国1位を記録(1955年~1959年、1961年~1963年、1968年、1984年)。また40年連続で全国100位以内に登場した。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000億円の資産を築いたと推定される。
1951年テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年に蘭フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工業として分社化、1997年4月松下電器に統合)。
1954年には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した[2]。
1960年に初の和歌山市名誉市民に選定される。1961年に会長に就任し第一線を退くが、ヒット商品欠如が岩戸景気後の反動不況と相俟って赤字に転落。
1964年には家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内功と30年に亙る戦争が勃発した。
社内外の引き締め目的で熱海ニューフジヤホテルを借り切り、全国の販社・代理店と直談判する機会を設けたものの、新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈なノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して紛糾し、丸3日間に亙って逆に吊し上げられた(全国販売会社代理店社長懇談会、いわゆる『熱海会談』)。
このため『共存共栄』と自筆した色紙を配布し沈静化を図る一方、営業本部長代行を兼務しトップセールスとしての現場復帰を余儀なくされた。
1967年7月、公正取引委員会からヤミ再版制度の排除勧告を受けたものの、これを拒否したため批判を浴びた。
1970年にはナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立。後に中村邦夫が立ち上げる「スーパープロショップ」の母体となった。
1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。
1974年には明日香村名誉村民となる。1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界にも影響力を及ぼそうとした。
1989年4月27日に肺癌のため、松下記念病院に於いて死去。享年94。法名は光雲院釋眞幸。
エピソード [編集]
浅草寺大提灯浅草寺(東京都台東区)の雷門と大提灯は、100年近く仮設状態のままになっていたところ、1960年に幸之助がポケットマネーを寄進して現在の形に再建された。提灯の『雷門』の下加輪には『松下電器産業株式会社 松下幸之助』と金文字で大きく刻んだ一際目立つプレートが貼られているが、これを『パナソニック』へ書き換える予定は無い。
トヨタ自動車中興の祖・石田退三を師と仰ぎ、尊敬しており、自社の役員さえも石田の元に勉強させに行かせるほどであった。
自転車屋奉公時代、店主に度々タバコを買いに行かされた。その際一々買いに出かけるより纏め買いして置けば、直ぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた。しかし丁稚仲間から告げ口され、店主から大目玉を食らう。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づく。
同郷の後輩の八尾敬次郎は、幸之助の成功を追って上京し、浅草の蓄音器屋の丁稚から身を起して、八欧電機、後のゼネラル(現:富士通ゼネラル)を創業。八尾は終生幸之助を敬愛していた。
小売り業者の立場から、松下商法を辛辣に批判し続けた宮路年雄(城南電機)も、同郷の後輩に当る。
1932年、事業拡大のため門真市に本社・工場を移転した。当時門真市から枚方市にかけての地域は大阪市内から見て鬼門に当たるとして開発が遅れていたが、東北に細長く延びる日本地図を指して「日本列島はほとんどが鬼門だ」と述べて断行した。
創業地の大阪市大開に思い入れがあり、本籍を大阪市大開から動かさなかった。
スバル・360に発売前から興味を示し、初期ロットを本人名義で購入したが、自動車製造進出のための研究に供したのみで、結局断念した。現車は分解され行方不明。
同時期に勃興したコンピュータの将来性を見抜けず、「得体が知れん」「ソロバンで十分」との理由で厳しく諌めたことで、同社はこの分野への参入機会を逸した。
米タイム誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は日本郵船の各務鎌吉が戦前に)[3]。
1965年の第16回NHK紅白歌合戦に審査員として出場した。
1970年の日本万国博覧会(大阪万博)に松下電器館を出展。話題になったタイムカプセルには、全国の小中学生の手紙や、当時の物品が埋蔵された(30周年の2000年に一度発掘開封、中身を虫干ししている)。
酷暑にも関わらず、入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に日陰が無いことに気付き、「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示した。これが会場外でも宣伝になって、松下館は更に人気を呼んだ。またタイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布し、販売強化に繋げた。
趣味は株式投資。ナショナル証券を自らの肝入りで1948年に設立したが、この分野で大成するには至らなかった。
終生紀州弁で通した。晩年は声量が落ち、筆頭秘書が通訳を務めた。
郷里の和歌山市に、友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑(同郷の湯川秀樹の揮毫)と、幸之助がポケットマネーで寄付した和歌山市立松下体育館や、和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)内の茶室・紅松庵がある。
東京ディズニーシーのインディ・ジョーンズ・アドベンチャーのキューライン(cue line―並ぶ列)に展示中の、インディ博士の作業卓上の新聞に、幸之助の顔写真が載っている。パナソニックが同アトラクションのスポンサーであるため。
語録 [編集]
「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、通行人が之を飲んでも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」(『水道哲学』)
「商売は世の為、人の為の奉仕にして、利益はその当然の報酬なり」
「企業は社会の公器である」
「商人に好況、不況は無い。何れにしても儲けなくてはならぬ」
「商売人が、事業をやって儲けないということは、戦争に行って負けたのと一緒です。医者だったら誤診と一緒です。絶対に許されないことです。」(『熱海会談』にて)
「二階に昇りたい、何とかして昇りたい、二階に昇ることが唯一の目的だ、と熱意のある人はハシゴを考える。」
「他所(よそ)さんの品もんのええ所を徹底的に研究して、何か1つか2つ、足せばええんや。」(二番手商法、マネシタ電器と揶揄された所以)
「ご苦労さん。ええもんが出来たな。さあ、今日からこの商品が売れなくなるような新商品をすぐに作ってや。」(新製品内覧会で)
「ベータは100点満点。でもVHSは120点や[4]。」(子会社の日本ビクターで高野鎮雄に)
栄典 [編集]
称号 - 和歌山市名誉市民(1960年)、明日香村名誉村民(1974年)、早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws)、同志社大学名誉学位
位階勲等 - 正三位勲一等旭日桐花大綬章(それ以前に、勲一等瑞宝章 紺綬褒章 藍綬褒章)
爵位 - マレーシアタン・スリ(伯爵相当)
その他、オランダ経済提携親善功績章受章。
創設に関わった賞としては「日本国際賞」など。
系譜 [編集]
松下房右衛門
保田興一郎 とく枝 松下政楠 平田東助 前田利昭 三井高棟
井植歳男 むめの 松下幸之助 平田栄二 静子 前田利定 慶子 三井八郎右衛門
井植敏 幸子 松下正治 平田克己 宣子
井植敏雅 ヒロ松下(弘幸) 松下正幸 敦子
閨閥 [編集]
義弟の井植歳男は創業期からのパートナーだったが、GHQの公職追放処分への対抗目的で、暖簾分けされ三洋電機を創業し独立。
長女幸子の婿養子に旧華族(伯爵)で日本画家の平田栄二の次男正治をむかえた。正治の祖父東助は旧米沢藩士で桂太郎内閣では内務大臣を務めた人物である。また、正治の母方の家系・前田家は上野七日市藩藩主の家系。正治の兄弟・平田克己の妻・宣子は三井惣領家に連なる。
系図外だが、三井高棟の孫・博子はトヨタ自動車の元社長・豊田章一郎の妻であるため、豊田家とも遠縁の関係にある。また、幾人かの婚外子を残し、全員が相続人になっている。
記念碑等 [編集]
大阪市東成区内にある松下幸之助起業の地の石碑
松下幸之助創業の地(パナソニックグループ発祥の地)の案内看板
野田阪神付近にある松下幸之助創業の地(パナソニックグループ発祥の地)への案内看板
商店街にある松下幸之助創業の地(パナソニックグループ発祥の地)への案内看板
脚注 [編集]
^ 納入部品を検査不合格にしたところ、「しゃぁない、ほな、2割引でどうだす?」と持ち掛けられる有様だった。
^ 1931年にはテイチクに出資しているが、RCAビクターへの強い憧憬があった。
^ Time:1962年2月23日
^ VHSは当初画質で劣ったが、部品点数・調整箇所が少なく、製造原価が安い。また軽量で客が店頭から持ち帰れるため、配送費も掛らない。後に3倍モードが追加され、録画時間でも優位に立った。
主著 [編集]
『PHPのことば』(PHP研究所・甲鳥書林、1953年4月) - 一般向けで初の著作
『道をひらく』(PHP研究所、1968年5月) - 450万部を超える大ベストセラー。カラーテレビの景品として頒布された大阪万博松下館タイムカプセルの模型にも、数cm角の豆本化されて内蔵されている
『続・道をひらく』(PHP研究所、1978年1月)
『商売心得帖』(PHP研究所、1973年2月) - 85万部
『経営心得帖』(PHP研究所、1974年7月) - 45万部
『指導者の条件』(PHP研究所、1975年12月) - 55万部
『社員心得帖』(PHP研究所、1981年9月) - 45万部
『人生問答(上・中・下)』(共著:松下幸之助・池田大作)潮出版社
評伝 [編集]
『同行二人 松下幸之助と歩む旅』(北康利、PHP研究所、2008年)
松下幸之助を演じた俳優 [編集]
渡辺いっけい ドラマ「田原総一朗の人間発掘スペシャル 故・松下幸之助の経営戦略に迫る」 テレビ朝日(2001年)
仲代達矢 映画「陽はまた昇る」(2004年)
藤村俊二 ドキュメンタリー「世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS」 テレビ東京(2008年)
宝田明 映画「破天荒力 箱根に命を吹き込んだ男たち」(2008年)
関連項目 [編集]
和歌山県出身の人物一覧
歌のない歌謡曲
松下政経塾
パナソニック - 旧・松下電器産業
PHP総合研究所
PHP研究所
陽はまた昇る (映画)
石清水八幡宮
パナソニックショップ - 旧・ナショナルショップ
系列電器店
阪神間モダニズム
稲盛和夫
司馬遼太郎 - 対談記録が司馬の対談集「土地と日本人」(中央公論社、後に中公文庫)に収録されている。
神宮茶室
坂崎幸之助(THE ALFEEのメンバー、幸之助の名前は本名ではなく芸名。自分の名前が嫌だったことから家の隣が電器屋だったので幸之助と付けた。)
森戸辰男
パナソニック ドラマシアター - 旧・ナショナル劇場
椿大神社(境内末社に松下幸之助を祀る「松下幸之助社」がある)
外部リンク [編集]
創業者・松下幸之助 一日一話(パナソニック公式)
松下幸之助 成功塾~道をひらく
松翁論語 - 松下幸之助に学んだ経営
東成まちかどツアー、松下幸之助起業の地(大阪市東成区ホームページより)
『松下幸之助創業の地』(福島区「大開町と松下幸之助に関する事業」委員会ホームページ)より
松下幸之助 「経営百話」(mora 音声コンテンツ)
早稲田大学|大学案内|名誉博士学位贈呈者一覧
先代:
- 松下電器産業・パナソニック
社長
初代:1935年 - 1961年 次代:
松下正治
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[表示] スポーツ活動
パナソニック女子陸上競技部(パナソニックエンジェルス) | パナソニック電工インパルス | パナソニックトライアンズ | パナソニック・パンサーズ | パナソニック野球部
[表示] 関連項目
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最終更新 2009年6月11日 (木)