岩手県陸前高田市から広田湾に注ぐ気仙川流域、とりわけ同市横田地域―旧横田村―には瀬織津姫神祭祀が集中しております。広田湾なる名称自体も「廣田神社―兵庫県西宮市―」を彷彿とさせ、気になるところではあります。廣田神社は、『日本書紀』の神功皇后紀摂政元年二月条で、天照大神が「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」と神託したことに始まった古社であるわけですが、『神道五部書』の『倭姫命世紀』や『大和志料』はその「天照大神荒魂」が「瀬織津比咩神」と同体である旨を伝えております。また、えびす信仰の総本社「西宮神社―兵庫県西宮市―」もかつては廣田神社の摂社でありました。

 ちなみに、廣田神社の祭神「天照大神荒魂=瀬織津姫」が伊勢國五十鈴宮の神「撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」と同体であるとする定説は、以前触れたとおり、大和岩雄さんによって否定されております。すなわち、それは天照大神が伊勢の神でなければならない国学士鈴木重胤の『日本書紀伝』―文久二(1862)年―によって創られたものであって、根拠がない―『日本神話論(大和書房)』―ということでありました。しかし、『日本書紀伝』の87年前に書写された『ホツマツタヱ』和仁估安聡(わにこやすとし)=三輪安聡本―安永四(1775)年―において既に「ムカツヒメ=セオリツヒメ」なる概念の顕れていたことは指摘しておきたいと思います。

 それはともかく、広田湾からみて唐桑半島を隔てた鼎(かなえ)が浦―気仙沼湾―には、その名もずばり「瀬織津姫神社―宮城県気仙沼市唐桑町西舞根―」が鎮座しております。その奥宮となる「室根(むろね)神社―岩手県一関市室根町折壁―」の由緒では、養老二(718)年、鎮守府将軍「大野東人(おおのあずまんど)」が夷賊平定のために勅願で紀州熊野の御神霊を勧請したのが同社である旨を伝えております。熊野神が瀬織津姫神と異名同神という扱いなのか、唐桑町西舞根の瀬織津姫神社旧鎮座地―津波被災によりやや内陸の現在地に遷座―はその紀州熊野神勧請の縁故地とされているようです。 

 

 

 

「瀬織津姫神社―気仙沼市唐桑町西舞根―」東日本大震災大津波被災前

 

移築再建後の瀬織津姫神社

 

 

 

室根神社

室根山

 

 

 

 『古里零れ話 唐桑史談』の加藤宣夫さんは次のように語ります。

 

―引用:『古里零れ話 唐桑史談』―

~瀬織津姫神社として祀られている由緒は、勅命によってこの地に住んだ御師(いくさ人)湯浅権太夫の母が供奉の海上で病み室根山遷座の御神霊に詣りかねて死んだ。遺言により十一面観音の尊像に御鏡を添えて海に投げたところ、これが舞根に流れ着いた。よって母の霊とともにこの所に祀ったものという。

 

 はて、「瀬織津姫神社として祀られている由緒は~」と切り出してはいるものの、神社名以外に神名が本文に顕れておりません。熊野神を厚く信仰していた母の霊、あるいは、舞根に漂着した母の護持仏たる十一面観音に瀬織津姫神が宿った、ということになるのでしょうか。同書は『「せおりつひめ」について』と題した別項にて、唐桑町内における年中行事として伝わっている十二月八日の「八日行」にからめて「清(ママ)織津姫は、滝織津姫とも書き厄災を海上に流す神とされている」と解説しておりますので、「遺言により十一面観音の尊像に御鏡を添えて海に投げたところ、これが舞根に流れ着いた」という顛末の一切を瀬織津姫神の神威と解すべきなのかもしれません。

 いずれ、信心深い女性が老衰で参詣のままならないことを悔やむくだりや、何某かの観音像が海浜に流れ着くくだりは、名取熊野系の伝説に通ずるものがあります―拙記事:紀州熊野別当と名取熊野 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。征討軍の先鋒神として持ち込まれた紀州熊野神の本質を瀬織津姫神とみるべきなのか、あるいはそれ以前から気仙に浸透していた瀬織津姫神祭祀が八世紀の征討を機に紀州由来の熊野信仰に包摂され、そこに十二世紀の名取系熊野信仰が上書きされたものかはわかりません。少なくとも、信心深い老女の老衰譚や観音像漂着譚の色合いからすれば、室根山がらみの信仰にも名取熊野系の影響は窺えそうです。なにしろ奥州征伐の戦後処理で鎌倉幕府から赦免された名取熊野神人らは、奥州藤原氏滅亡時の悲劇を嘆き広めるいわば恨み節のエネルギーで地下水脈のように広く浸透していったフシがあります―拙記事:鹽松勝譜をよむ:その6―御釜神社鹽竈神起源説:後編― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 ともあれ、室根山系の神祀りは熊野信仰の体を採りつつも西舞根の宮のみは忘れてくれるなと言わんばかりに「瀬織津姫神社」なる直球の神社名で公称しており、また、『横田村誌』に典拠した「横田町内地域奉斎神社」リスト―『陸前高田市史』所収―によれば、気仙川流域の旧横田村地区では、槻沢「清瀧神社」・舞出「舞出神社」・小坪「多藝神社」・橋ノ上「四十八瀧神社」・本宿「大瀧神社」の5社が瀬織津姫神を祭神として掲げております。特筆すべきは、これらが当該リスト所載の旧横田村内全12社中5社にも及んでいることです。祭祀特区とでも言いたくなるほどの割合です。

 令和二(2020)年に発行された気仙歴史文化研究会会長「甘竹勝郎」さんの著書『気仙の歴史探訪』は、旧横田村の神社として「熊野神社」と「山神社」を挙げておりますが、不思議なことに、いずれも先の「横田町内地域奉斎神社」リストには確認できません。旧横田村12社のうちのいずれかが近年になって社名を変えたのでしょう。

 とりわけ前者の熊野神社については、延徳年間(1489~1492)に「紺野家」の祖「宝珠院養源法印」が紀州東牟婁郡新宮村国幣大社熊野神社から分霊して開基し、社殿を建てたと言われているようです。紺野家は金氏の係累ですから、気仙地区における一連の熊野祭祀に金氏の関わっていたことが推察されます。甘竹さんによれば熊野神社の裏側は本宿舘跡とのことです。もしかしたら先の「横田町内地域奉斎神社」リストでいう本宿「大瀧神社」が社名を熊野神社に変えたのかもしれません。仮にそうであれば、この熊野神社は近年まで瀬織津姫神祭祀を公称していた神社であったということになります。本宿舘は「金為時」の曾孫「時盛」が築城したと伝わり、その後、葛西家の家臣「昆野氏」が居城にしたようです。昆野氏は館内に熊野神社を移し、それが明治五年に村社となったようですが、同家も金氏の一係累でありますので、やはりこの一連の熊野祭祀には金一族が大きく関わっていたとみるべきでしょう。

 

旧横田村地区を流れる気仙川

 

瀬織津姫神を祀る「清滝神社―陸前高田市横田町槻沢―」の鳥居

 

 何を隠そう、この旧横田村は平安時代の一時期、金一族の本拠でありました。「金氏家譜」を伝える米崎舘ノ下の金家は、平安時代に「千厩(せんまや)町奥玉(おくたま)―現岩手県一関市千厩町―」から「横田村―同陸前高田市横田町―」を経て、そののちに「米崎舘ノ下―同市米崎町―」に移ってきた旧家だといいます。

 

千厩奥玉の風景

 

 前述『気仙の歴史探訪』の甘竹さんは、「横田・アカマイ舘跡の麓に建つ常光寺境内の金野家累代の墓には、気仙初代郡司阿部(安倍)兵庫丞金為雄を始祖とする記入がありました」と語っております。そのような碑文を刻む累代の墓があったことからみて、同寺は大船渡市の長安寺と並んで金家の主軸をなす一係累の菩提寺と思われますが、そもそも何故同家は父祖伝来の磐井(いわい)郡千厩奥玉(せんまやおくたま)を離れ、気仙郡に移ってきたのでしょう。思うに、前九年の役で「安倍貞任」側に加担して滅ぼされた磐井郡河崎柵主「金為行」系の一族郎党生き残り組が、源頼義・義家父子側に加担した気仙郡司「金為時」の保護下に逃げ延びて匿われたということではないでしょうか。仮にそうであるならば、それは当時トップシークレットなわけであり、横田エリアは奥州藤原時代が到来するまで鎮守府の目を忍ぶ落人部落の様相を呈していた可能性もあります。紺野なり昆野なりと同音異字で派生していったのもそれ故なのかもしれません。そのような地域に瀬織津姫神を祀る神社が集中していたのははたして偶然なものか・・・。ひとつ考えられる要因としては、気仙川の氾濫に対する対症療法的な水神祭祀があります。先の甘竹さんによれば、横田川―気仙川―はしばしば氾濫したらしく、美女を犠牲にした人柱伝説もあったようです。「舞出御殿はその美女を祀ったともいわれます」とのことですが、舞出地区には瀬織津姫神を祀る「舞出神社」が先のリストに確認できます。荒雄川―江合川―の氾濫を鎮めんと集中的に瀬織津姫神―大物忌神―の祀られた「三十六所明神―荒雄川神社:宮城県大崎市―」を彷彿とさせます―拙記事:荒雄川の河畔:後編―三十六所明神― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 それを置いたにしても、金家が安倍姓から分かれた系譜であるならば、氏神として瀬織津姫神を崇敬していたとしても不思議ではありません。

 

千厩奥玉地区から望む室根山

 

室根山から千厩方面を望む

 

気仙川に架かる舞出橋

 

 金一族が筆頭総代家を務めていた「蚶満寺(かんまんじ) ―秋田県にかほ市象潟(きさかた)―」の守護神「柑潟(きさかた)明神―八島(やつしま)神社―」は「鳥海山大物忌神」の同神と伝えられておりました。前に触れたように、大物忌神は神名の憚られる瀬織津姫神の隠語的神名であった可能性があります―拙記事:出羽富士と津軽富士 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。江合川―荒雄川―流域三十六ヶ所で瀬織津姫神を祀っていた三十六所明神―荒雄川神社―の奥宮は、祭神を大物忌神としておりました。

 また、由利氏を登美安日彦―陸奥安倍氏自称の祖―の裔と伝える系図―拙記事:由利氏の登美安日彦後裔説 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―では、大物忌神の別称とされる柑潟明神を安倍氏や由利氏の母系祖としており、鎮座地の小島―八ツ島―には金家の墓碑群もありました―拙記事:蚶満寺(かんまんじ)の筆頭総代家 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。以上のことから、安倍系譜を称する金一族もまた瀬織津姫神を信仰していた可能性について留意しておきたいところです。とりわけ気仙地域の瀬織津姫神祭祀は気仙郡司家たる彼らに持ち込まれたものと推測しておくのが自然ではないでしょうか。「気仙(けせん)」と同義であろう「計仙麻(けせま)」を冠する神の本質は、海上安全や大漁を祈願すべき蝦夷の海神と考えるのが自然と思われますが、おしなべて穀物神たる倉稲魂神が祭神として掲げられているのは、おそらく倉稲魂神が謎めく大物忌神の異名同神と考えられるようになったからでしょう。

 

余滴

千厩奥玉にもこれがありました―拙記事:栗原郷の神秘なる混沌 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―

 

東日本大震災の大津波で生き残った奇跡の一本松―陸前高田市―は、流域に瀬織津姫神祭祀の散見される気仙川の河口に立っております。