出羽富士(でわふじ)と俗称される鳥海山(ちょうかいさん)―。この山自体を御神体とする出羽国飽海(あくみ)郡―現:山形県飽海郡―の式内名神大「大物忌(おおものいみ)神社」は、しばしば「物忌(ものいみ)」と称される伊勢神宮の巫女のうち最も重要な職責を担う「大物忌」と結び付けて論じられます。明治の改革で廃止されたそうですが、「大物忌」たる巫女は正殿の床下で神饌(しんせん)を捧げ、また斎王にかわって太玉櫛を捧げるなどの大役を務めていたといい、内宮では荒木田禰宜家、外宮では度會禰宜家の子女があてられていたようです。「大物忌」なる語彙の用例にはその職掌以外の類例が見当たらず、大御饌(みけ)に関わる職掌故か鳥海山大物忌神も食物神格の「倉稲魂(うかのみたま)神」なり「豊受大神―外宮の神―」と推断されるに至っております。

 しかし、そういった解釈に対して新野直吉さんは疑問を呈しております。

 

―引用:新野直吉さん寄稿「鳥海山大物忌神社」:谷川健一さん編『日本の神々(白水社)』所収―

~そう簡単に両者を結びつけることはできない。大物忌神社というような社は、山形県内を主とする限られた分布しかもたない神社で、伊勢神宮の大物忌と直接関係があるとはまったく認めがたいのである。また山王二十一社といわれる集合形式をとる近江の日吉大社の中七社のなかに食物にかかわる大物忌社・新物忌社があるが、これら摂社が山王一実神道によって鳥海山にもたらされたのだとも考えられない。時代的に合致しないからである。なかには鳥海山の大物忌神を天武紀の大忌神と関係づけようとする考えもあるが、大忌と大物忌はけっして同一ではない。仮に同じだとしても、天武紀の大忌神を鳥海山に結びつけることには何の根拠も存しない。両者を同一神と断定する理由はまったくない。むしろ、この山の噴火の脅威に対する畏れを背景とした、慎みと忌みの最大至高の対象としての神というのが、この神の真の神格であり、本来の神格であるとみるべきである。

 このことは、平安期におけるこの神の史上への表れ方をみれば明白になる。『続日本紀』承和五年(八三六)五月十一日条に「出羽国従五位勲五等大物忌神に正五位下を授け奉る」という記述があり、これが正史にこの神の登場する最初である。そしてそこでは、この神は何の神なのかまったくわからない。少なくとも食物の神であるなどという言い方は全然ない。~以下省略~

 

 なるほど、たしかにそのとおりだと思います。京から遠く離れた辺境にありながら朝廷を噴火情報で震撼させていた鳥海山の神が食物神格を忌まれ始めたとは考え難いものがあります。

 しかし、もし「大物忌」なる語彙自体が「瀬織津姫神」なる神名の言挙げを憚って創出された一種の隠語であったとしたならばどうでしょう。

 

大物忌神社吹浦口の宮

 

 

 『円空と瀬織津姫(風琳堂)』の菊池展明さんは、陸奥國玉造郡―現:宮城県大崎市―の式内社「荒雄川神社」を経由して大物忌神の正体を「瀬織津姫神」と推断しております。菊池さんに言わせれば、「出羽の鳥海山においては、瀬織津姫という神名を消去して大物忌命などと表示しているが、陸奥国にくると、この曖昧の霧は一変して晴れることになる」ということになります。

 荒雄川神社はかつて三十六所明神と呼ばれ、荒雄川―江合川―の流域三十六ヶ所に祀られておりました。その水源となる荒雄岳のカルデラ縁辺に鎮座する奥宮―宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(なるごおんせんおにこうべ)―は祭神を大物忌神と公称しております。ところが、奥州藤原三代秀衡が奥州一之宮として崇敬した同市岩出山池月地区の里宮、及び、村内各社が合祀されて「大崎神社」と改称した流域の一社―同市大崎古川―は、「瀬織津姫神」を公称しているのです―拙記事:荒雄川の河畔:後編―三十六所明神― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 

荒雄川神社奥宮

 

 

 新野さんは、「なかには鳥海山の大物忌神を天武紀の大忌神と関係づけようとする考えもあるが、大忌と大物忌はけっして同一ではない。仮に同じだとしても、天武紀の大忌神を鳥海山に結びつけることには何の根拠も存しない」としておりますが、「大忌神―広瀬の水神―」については『わが悠遠の瀬織津比咩(河出書房新社)』の内海邦彦さんや、『エミシの国の女神(風琳堂)』の菊池展明さんが瀬織津姫であることを例証しておりました―拙記事:伊豆國の三島:その4―相模國府と賀茂三島郷― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 つまり、新野さんにとって想定外であろう「瀬織津姫神」の属性を介すならば、大和の「大忌神―広瀬の水神―」と鳥海山の「大物忌神」は結びつき得るのです。

 新野さんは「大物忌神社というような社は、山形県内を主とする限られた分布しかもたない」ことをもっていぶかしがっていたわけですが、大和盆地や伊勢から遠く離れた北辺の出羽國にその神が忽然と湧出したのは、鳥海山麓の有力者が大和盆地や伊勢から追われた一党の係累であったからに他ならないと私は考えます。

 大和盆地で語り部を自称する田中八郎さんは、大忌神と称された広瀬の水神が地元民からナガスネヒコと認識されていた旨を伝えております―『大和誕生と神々 三輪山のむかしばなし(彩流社)』:拙記事:いかるが―後編― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。言うまでもなく、ナガスネヒコの係累を自称していたのが陸奥安倍氏でありました。

 試みにあえて食物属性を鑑みたとしても、古代朝廷の食膳を管掌していた膳(かしわで)臣はオオビコの裔、すなわち安倍氏の同系氏族であり、そこはかとなく辻褄が合いそうではあります。ふと、伝説上の越の魔王「阿彦」の祖「布勢大神」が「倉稲魂(うかのみたま)神」と伝えられていたことを思い出しますが、式内「布施神社―富山県氷見市―」の祭神「大彦命」が「布勢一族の祖先神」と伝えられていることなどから、阿彦はオオビコの投影であったのだろうというのが現段階における私の認識です―拙記事:古代越中の神話 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 

 

 とはいえ、私は必ずしも倉稲魂(うかのみたま)神なり豊受大神なりを瀬織津姫神とは考えておりません。その詳細は割愛しますが、「氷川神社―埼玉県さいたま市―」において地主神のアラハバキ神が門客神化させられていたように、もしかしたら支配権を簒奪された側の氏神が食物神格に変質させられるような不文律があったのかもしれません。いずれ、最上位巫女の職掌に「大物忌」なる「慎みと忌みの最大至高」な名称が冠されたのは、伊勢神宮祭祀に潜在的な男性神格が意識され、「大物忌」に「正后」の意味が投影されていたからではなかろうか、とは想像しております。『ホツマツタヱ』における男神アマテルの「正后(むかつひめ)」はいみじくも瀬織津姫でありました―拙記事:瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛なのか―後編― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 ところで、先の菊池さんは、津軽富士と俗称される岩木山(いわきさん)の神についても瀬織津姫神とみております。独立峰と言われる岩木山ですが、望見場所によっては三つの峰からなっていることがわかります。それらの三峰は岩木山・岩鬼(がんき)山・鳥海山と区別され、各々に本地仏を配し岩木山三所権現と呼ばれていたわけですが、そのことについて菊池さんは次のように推察しておりました。

 

―引用:『円空と瀬織津姫(風琳堂)』―

縁起が記す「三峯三所一体分身」は重要な認識というべきで、これら三峯三所の神々は「一体」つまり一神の「分身」にすぎず、その要の一神が「秘神」ゆえに、仮に三つの神仏に体現・分身していることになる。

 

 

 

 

 要の「秘神」についてはもちろん瀬織津姫神を念頭に置いて前振りをしているわけですが、前述の荒雄川神社の例から鳥海山大物忌神が瀬織津姫神であると推断した上で、菊池さんは次のように続けます。

 

―引用:『円空と瀬織津姫(風琳堂)』―

岩木山には、その名を伏せるも鳥海山神がまつられている。縁起が記す「三峰三所一体分身」をおもえば、瀬織津姫祭祀が秘されているとみざるをえない。『岩木山信仰史』によれば、「岩木山の最初の寺院」は「松代の鳥海山叡平寺景光院」とされる。同寺は延元二年(一三三七)に廃寺となっていて(『新撰陸奥国誌』)、その由緒をつまびらかにできないが、岩木山神のルーツは鳥海山であった可能性があることを指摘しておきたい。岩木山三峰の一つに鳥海山の名を残しているのも、勧請元の山への尊意の痕跡かとおもわれる。

 

 ここで私が重視したいのは、岩木山神のルーツが鳥海山であった可能性への指摘です。何故なら、鳥海山名研究の啓蒙的存在といえる姉崎岩蔵さんが「岩手宮城兩縣に属する鳥海の地名は、何れも安倍宗任との關係から出来たものであった。それが藤原氏滅亡後、安倍氏の勢力が出羽の由利郡方面に移つてから、その領内の山として鳥海山の名稱を生み、又それが元になつてその山名が出羽の雄勝郡に或は北方津輕の岩木山に移されるといつた經路を辿つたものと考える―『鳥海山史(国書刊行会)』―」としていたからです。

 鳥海山名の初出は、北朝年号歴応五(1342)年に鳥海山上の社に奉納された鰐口の銘がそれとされており、その頃鳥海山の北麓で勢力をふるい全盛期にあったのが「鳥海(とりみ)彌三郎」でありました。彼が「前九年の役」時代の「安倍鳥海三郎宗任」なり「安倍鳥海彌三郎家任」の係累にあたるものかは詳らかでありませんが、その可能性は高く、少なくとも安倍氏の権威を受け継がんとしていたが故に「鳥海」を名乗っていたことは間違いないでしょう。また、仮にそれが戦略的な仮冒であったとしても、それはそれで当地における鳥海ブランドの威光が依然有効であったことを物語っていると言えます。

 少なくとも岩木山を望む津軽地方、とりわけ「十三(じゅうさん)湖」が陸奥安倍氏の一大拠点であったことは間違いなく、そこには中世14世紀後半から15世紀前半頃まで、「鳥海三郎宗任」の兄「厨川二郎貞任」の裔を称する安東水軍の本拠「十三湊(とさみなと)―青森県五所川原市―」が展開し、国際交易都市として繁栄していたことは考古学的に裏付けられております。

 

十三湖から望む岩木山

 

 なにしろ「鳥海」も「十三」もおしなべて安倍ブランドであった可能性が考えられます―拙記事:宮城県内出土の遮光器土偶周辺考:後編 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。私は、いわゆる日高見國をアベ王国とみているわけなので、その隆盛期は中世どころかヤマトタケル時代―十二代景行天皇時代―以前にまで遡り得るという認識になりますが、岩木山の山名はもしかしたら石城(いわき)國造家が称したところのイワキと関係するのではないでしょうか。たびたび触れているとおり、陸奥安倍氏と石城國造家は同系氏族と考えられるからです。さすれば岩木山神のルーツが鳥海山であった可能性についてもさもありなんといったところでしょうか。