「前九年の役」の際、由利郡―現:秋田県由利本荘市―から援軍の動員された形跡はみられないようです。そのことについて、『象潟(きさかた)町史』は次のように説いております。

 

―引用:『象潟町史』―

 前九年の役に際して清原氏は源頼義軍のため一陣から七陣まで一万余の援軍を動員している。しかし由理郡から動員された形跡がみえない。これは当時、由理郡は俘囚主清原氏が支配する領域ではなかったこと。別の言い方をすれば、俘囚のいないところに俘囚主清原氏の力は及ばないのである。由理郡は早くから内郡化していて俘囚と呼ばれる人々はいなかった。由理郡はこの年代においては蝦夷を内属させ、「俘囚」として統治支配する段階ではなかった。鳥海山の山懐深く、あるいは俘囚と呼ばれる人々が残存していたかもしれないが、少なくとも海岸通りの平地部には俘囚長が管掌すべき俘囚はいなかった。由理郡の主要部に住むのは班田農民化した人々であった。後三年の役には山形の置賜郡から置賜四郎なる者が清原方として参陣している。しかし由理郡は清原氏圏とは一線を画していたものか、この戦いに参陣した形跡は見当たらない。由利氏を中心とする勢力が、十二世紀の由理郡支配を象徴する存在として武家的生長をみせていたものと考えられる。

 

 どうなのでしょう。そもそも、信濃色の濃い由利郡が陸奥側の栗原郡と同じく高句麗由来の卓越した馬産文化を抱える、いわば当時の最終兵器に精通した特殊技能集団のアジール的な地域であっただろうことはたびたび触れてきました―拙記事:伊達家による真田幸村遺児保護についての試論 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。それ故に、もしかしたら国司の干渉も慎重になされた可能性が高いとは想像しております。したがって、清原氏が俘囚長に過ぎない権限で当該地域の兵馬を巻き込むことには憚りがあったということも考えられそうではあります。

 しかし、特殊な馬産事情についてはあくまで私の想像の域を出るものではないので、それを考慮に入れず、あえて同町史の推察するような早くからの内郡化―ヤマト化―にのみ理由を求めてみるならば、むしろ積極的に参陣していたはずではなかろうか、と思うのです。安倍討伐の援軍要請はそもそも出羽の俘囚長清原氏発のものではなく、源頼義からの、すなわち隣国とはいえ國府の長、陸奥守兼鎮守府将軍という正規の称号をひっさげた堂々たる高級官人からの再三にわたる嘆願を受けてのものなのです。なにしろ朝廷からも安倍討伐の宣旨や官符が発布されているわけで、それが頼義の私的感情に引きずられた宣旨といえども、由利郡の民らに班田農民—国有農場耕作民—の意識が浸透していたならばむしろどん欲な参陣で朝廷への忠節をアピールしていたのではないでしょうか。

 進藤孝一さんの『秋田「物部文書」伝承(無明舎)』によれば、出羽仙北三郡の豪族が源頼義・義家父子に加担する動きを一向に見せない中、「義家の要請に応えたのは以外(ママ)にも三輪神社の吉祥院、醍醐の三島神社と光明院、大沢(横手)の旭岡神社、保呂羽山の大友、守屋の衆徒等で、神社に係わる者ばかりであった。このときの義家の要請に対し境の唐松神社も当然に呼応している」とのことでした。進藤さんはこれを物部側らの中央志向に因果づけておりました。裏を返せば、律令意識の希薄な豪族ほど陸奥安倍氏と敵対することに消極的であったということも窺えます―拙記事:出羽清原氏と吉弥候部(きみこべ)氏:後編―吉弥候部氏考― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—。なにしろその時点で安倍氏は、源氏率いる官軍を敗走させていたのです。直接援軍要請を受け入れた出羽俘囚主「清原光頼」からして、自らは手を下さず、義理的に弟の武則を派遣したばかりか、息子の「大鳥山太郎頼遠」と共に安倍良昭や安倍正任及びその家族を本拠—大鳥山―にかくまっていたというのですから、諸豪族の参戦モチュベーションも推して知るべしでしょう。

 さすれば、由利系勢力の不参陣もことさらに不思議なことではないということになりますが、とりわけ「由利中八郎」を称す系譜の中にナガスネヒコの兄「安日(あび)—登美安日彦(とみのあびひこ)―」を祖と掲げる系図の存在していることは留意すべきでしょう。何故なら、安日は陸奥安倍系氏族の系図における安倍氏の始祖だからです。これが仮冒であったにせよ、由利氏が少なからず同族意識をもって安倍氏をリスペクトしていたフシを窺えます。

 ちなみに、安倍良昭らを匿った「大鳥山系清原氏―清原光頼・頼遠父子—」にもその祖が安倍氏であることを窺わせる伝説があります―『三熊野社別当華厳院古記』他:拙記事:横手盆地―秋田県横手市周辺―を開拓した鹽竈(しおがま)大明神ノ御末葉後胤 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。厳密には、横手盆地の鳥海なる湖を干拓した陸奥鹽竈(しおがま)大神神裔の子孫であると伝えていたわけですが、中世以前の鹽竈大神は鹽竈神社左宮一禰宜安太夫家の氏神、すなわち安倍氏の祖先神と認識されていたのでしょうから、間接的に大鳥山系清原氏が安倍氏の係累であった可能性、少なくとも伝説の震源たる「三熊野社別当華厳院」の信徒らからは大鳥山系清原氏が「安倍氏の裔」と認識されていた可能性が窺えるのです。もしかしたら由利氏にせよ大鳥山系清原氏にせよ、限りなく安倍氏に近い系譜であったが故に参陣しなかったのかもしれません。

 ところで、奥州藤原氏の重臣「由利八郎」を鎌倉御家人の「由利中八維平」と同一人物とみるならば、彼は藤原氏滅亡の後、捕虜の立場で源頼朝に啖呵をきりながらも生かされ、それどころか何故か鎌倉幕府の御家人として命脈を保ったことになります。私はこのことを由利郡のアジール的特殊性に忖度した措置の最たるものとみているわけですが―拙記事:伊達家による真田幸村遺児保護についての試論 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―、とにかく由利郡だけが平泉体制のまま温存されたフシがあります。『由利郡中世史考(矢島公民館)』の姉崎岩蔵さんは、「不思議にも藤原氏配下の旧勢力が由利氏のもとで余勢を保っていることが認められる。これは藤原氏の旧臣中で、鎌倉の御家人として残ったのは由利氏以外には少なかったのではなかろうか」と指摘しているわけですが、その旧勢力にはアベ系と思しき鳥海氏も含まれていたようです。かつての日高見王家末裔ともいうべき存在であろう鳥海氏は、鎌倉の御家人と化した由利氏の保護下にあまんじることになったわけですが、後に鳥海山北麓にて由利氏を凌ぐ勢力に成長し、最終的には由利氏を事実上滅ぼすことになります。とはいえ、それは十四世紀前半すなわち前九年の役からみて二世紀半も後の話でありますので、前九年の役の頃であれば、安日後裔を自称する由利氏が安倍氏と争ういわれはなかったことでしょう。

 蛇足な情報というべきか、大鳥山系清原氏の本拠と考えられている大鳥井山遺跡には十三塚があります。それが彼ら以前から存在したものか後世の何者かによって築かれたものかは不明です。しかし、「トミ」ブランドの使用を禁じられたアベ氏が方便として「十三湊(とさみなと)」や「鳥海山(ちょうかいさん)」などのように同音異字で訓みを変えたという旨の出雲系情報―富士林雅樹さん『出雲王国とヤマト政権(大元出版)』拙記事:宮城県内出土の遮光器土偶周辺考:後編 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—を信じて良いならば、当地の十三塚についても同根の可能性を勘繰ってみたくなります。妥当であれば大鳥山系清原氏安倍同族説の補強にもなり得そうです。「十三塚」の属性はおしなべて謎めいているわけですが、大風呂敷を広げるならば、全国各地の十三塚についても一旦その属性をあてはめて検証してみる価値はありそうで、今後新たな気付きなり情報を得ることが叶うならば、もう少し深掘りしてみたいところです。

 

大鳥井山遺跡の十三塚

 

 ところで『由利町史』は「由利中八郎の碑」と題した項で、大正八年十月付秋田魁新報のプロパガンダ的記事を取り上げております。

 

―引用:『由利町史』―

~略~ そもそも由利は上代より一に天地をなし、由利家これを支配して戦国時代に至る。この間多少の波瀾なきに非ざるも、終始一貫よく郡政に参したるは正に由利氏の威武を語るに足るべく、あたかも奥州の安部氏に於けるが如し。

 祖先は安倍氏と同じく、長髄彦の兄安日より出づ。神武天皇の討政に逢いて越に下り酋長の娘真栄の姥と婚して寿速を生む。これすなわち安倍、安東、由利の祖にして民族研究上過眼視せられざるものの一なり。

 寿速由利の台の酋長の娘若姫を娶り、寿久世を生む。若姫の母は大物忌神の子孫たる豊岡姫にして、柑潟明神即ち豊岡姫を祭るところなり。寿久世鳥海山に祭り、その祖大物忌神を祭る。

~中略~

 一夜閑を得て管見の記憶を辿り、本文を草し隠れたる古碑と隠れたる由利氏のために聊か気焔を挙げんとするものなり。

 

『仁賀保町史』所載系図

 

 この記事が、「由利中八郎の碑」にて執筆者を案内した「田村義雄」なる老人の語ったことを書き残したものか、執筆者自身の知見なのかは詳らかではありませんが、高さ一尺五寸円形にして周囲二尺五寸座石五寸五分の当該石碑は、大正八(1919)年からみて120年前に存在した庵寺の庵主が、夢に顕れた中八郎のお告げに従って西滝沢村川西字奉行免「根城舘―現:秋田県由利本荘市川西字奉行免—」附近の河中から拾い上げたもののようです。それらしき現地に行ってみると、「由利仲八郎政春の墓」なるものがあり、おそらくそれが当該石碑であろうとは思うのですが、由利町教育委員会の説明板には「土中に埋もれていたものを掘り出し~」とありました。田村翁の話では霊夢に導かれた寺の庵主が河中から拾い上げたとのことなので、幾つかの言い伝えがあるのかもしれません。

 

由利仲八郎政春の墓

 

 この地には白鳥神社もあり、ヤマトタケルと天照大神を祭神としているのですが、秋田県神社庁のHPによれば「由理領主仲八郎政春が、正和元年鳴瀬台から根代館に移住のとき捧持した乗馬姿の日本武尊の木像を城地に祀ったのが、神社の草創だと、古記に見られる」のだそうです。乗馬姿というところに信濃系馬産の面影が窺えます。境内に「不動滝」と称された一筋の滝があり、それが滝沢の語源であると「滝沢伝来記」にみられるようですが、以前触れたように、由利氏自体が元々信濃國小縣郡瀧澤邑―長野県上田市周辺―に発祥した氏族と思われるので、むしろ彼らが根城舘—根代館—に来たことで信濃由来の滝沢ブランドがこの地に持ち込まれたのでしょう。

 

白鳥神社

 

西滝沢水辺公園

 

 そもそも由利中八郎の「中」については中原姓を意味する「中」であるのでしょうから、由利氏を安倍氏の同族とは考え難いと思っていたのですが、大元出版系の情報に触れたことで考えが変わってきました。

 富士林雅樹さんの『出雲王権とヤマト政権(大元出版)』によれば、オオビコは信濃で亡くなったと地元—長野県長野市篠ノ井周辺―に伝わっているといい、オオビコの屋形跡に「布制神社―長野県篠ノ井布施五明—」が建てられ、近くの「川柳将軍塚古墳―長野県長野市篠ノ井石川—」はオオビコの墓であるとのことでした。同書によれば、その後その地はオオビコ系の「布施氏」によって治められたとのことです。

 ふと、伝説の越の魔王「阿彦」の祖が「布施神―布勢大神―」と伝わっていたことを思い出しますが―拙記事:古代越中の神話 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―、それは置くとして、一帯は由利系瀧澤氏が発祥したと思しき信濃國小縣郡瀧澤邑―長野県上田市周辺―からみて「千曲(ちくま)川—信濃川—」のすぐ下流域なのです。10キロメートルほど南南西の「千曲高原」のすぐ先には栗原や由利に縁のある「真坂(まさか)」ブランドとも無縁ではなかろうと私が妄想する「麻績(おみ)盆地」もあり、「安坂将軍塚古墳」をはじめ、高句麗系と思しき積石塚古墳群がその盆地全体を見おろします―拙記事:真坂の地名由来について考える | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 もしかしたら天武天皇の裔とされる中原氏も本来はオオビコの裔なのでしょうか。兄・天智天皇との年齢逆転疑惑から新羅人説まで飛び交う天武天皇の出自ですが、例えば実父—高向王?―なり乳母なりがオオビコ系の人物で、その家が天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」にあやかって中原姓を名乗るようになったということは考えられないでしょうか。それは極端にしても、オオビコと中原氏の関係については、機会があれば実際に信濃の地を踏んでもう少し深掘りしてみたいと念願しております。なにしろ「中(なか)」という言霊が諏訪の「名方(なかた)の神―御名方神:タケミナカター」なり事代主神に関係する「長(なが)」との関わりをも包摂し得るだけに捨て置けません―拙記事:長阿比古(ながのあびこ) | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—。

 ともあれ、秋田魁新報所載の伝説は、由利氏の母系祖たる「豊岡姫―越の酋長の娘真栄の姥=柑潟(きさかた)明神―」を鳥海山大物忌神の子孫としておりました。「祖先は安倍氏と同じく、長髄彦の兄安日より出づ。神武天皇の討政に逢いて越に下り酋長の娘真栄の姥と婚して寿速を生む。これすなわち安倍、安東、由利の祖にして民族研究上過眼視せられざるものの一なり」ということなので、その神々は必然的に安倍氏の母系祖でもあるということになります。大物忌神が瀬織津姫神のことであったとするならば、とりあえず辻褄はあっているのかもしれません―拙記事:出羽富士と津軽富士 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—。