「吉彦秀武(きみこのひでたけ)」を輩出した「吉彦(きみこ)」家は「吉弥候部(きみこべ)」氏の後裔と思われます。『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮は「吉弥候部」について次のように解説しております。

 

―引用:『姓氏家系大辞典(角川書店)』―

~毛野君は東國第一の名族として、附近の諸國造・皆其の下風に立ちたりき。従って其の部曲、即ち配下の民は非常に多かりしなるべく~中略~日本武尊以来の蝦夷征伐は、専ら此の氏―毛野君―によりて行はれたるが故に、蝦夷の捕はれ、或は馴致する所となり、来りて此の氏の配下となりしもの極めて多數なりしや想像するに難からず。吉弥候部とは、即ち此等、兩毛野君の部曲、及び其の下風に立ちし蝦夷の酋長等を毛野氏の子部、後世の語を以ってすれば、子分の意にして君の子部、即ち吉弥候部とは云ひしに外ならず。斯くの如く此の部は毛野君の部曲なれば、種族の如何は問ふ處にあらざるも上述の如き原因より撥生せしものなれば、純然たる部曲にあらずして、地方豪族、殊に蝦夷の豪族たりし者、多數を示しが如く~中略~吉弥候部とあるを以って、直ちに蝦夷族とするは妄断のみ。毛野氏は東國の君にして、その配下の豪族は蝦夷族に限らざれば也。

 

 毛野氏への帰順を余儀なくされた勢力が広く吉弥候部であったと考えられるわけですが、さすればその系譜も多種多様ということになりそうです。

 『東北の古代探訪(八重岳書房)』の司東真雄(しとうしんゆう)さんは、とりわけ八世紀後半から九世紀初頭にかけて胆沢(いさわ)―岩手県奥州市―周辺に勢力を展開していたと思しき彼らを、和銅三(710)年頃に上毛野朝臣安麻呂によって上野国―現:群馬県―から引き立てられた新羅国亡命軍士系の一団ではなかったか、とみております。

 司東さんは、宮城県北から岩手県南の一帯に進駐してきた吉弥候部が原住民の信仰する神の鎮座地を横領し、そこに上野国から持ち込んだ「駒形神」を鎮座させたものと考えました。それ故に駒形神社鎮座地がすべからく原住民反乱の根拠地となり、反乱も根強くつづいたものと推察しております。

 進駐してきた彼らを新羅系亡命団とみた理由は、上毛野氏に派遣された彼らの出身地が上野国周辺であろうこと、その上野国の多胡郡に「韓級(からしな)郷」があること、その韓級郷には神護景雲二(766)年に「吉井連」と賜姓された新羅人193人の住した「吉井町―群馬県高崎市―」も含まれていること、また、その付近の古墳群に限って、楕円の川原石を積んで室だけ短冊型にした点などが岩手県地方にみられる積石塚石室の祖型を思わせること、そして上毛野氏の祖神「赤城神」の宿る赤城連峰の外輪山「駒形山」が多胡郡あたりの住民の信仰の山であり、その山の神が彼らの祀る「駒形神」であったと考えられるからのようです。

 

―引用:『東北の古代探訪(八重岳書房)』より―

 栗原郡から岩手郡までの間に鎮座の駒形神は、吉弥候部族が陸奥国按察使上毛野朝臣広人の力をかりて、上野国駒形神を移したのであろう。その鎮座の山が神を鎮座させていた山であったので、神地の横領ということになり、原住民が按察使を殺すという事件になり、按察使が殺された年以降から蝦夷地の反乱がつづくのであり、だから反乱地がいつも駒形神の鎮座地地帯であり、それが古墳群地帯と一致し、吉弥候部の名と地名と合致する地帯であることも価値ある傍証としてみなければなるまい。

 

「止止井(ととい)神社」―岩手県奥州市胆沢区南都田――附近から「駒形神社奥宮」の鎮座する駒ヶ岳を望む

 

 大変魅力的な説です。つい現代的感覚の利害関係に原因を求めてしまいがちなだけに、宗教戦争的側面への着目には目から鱗が落ちる思いです。

 ただ、度々触れているとおり、私見では少なくとも栗駒山山麓に繁衍していた渡来人の筆頭はおそらく信濃色の濃い高句麗系であり、とりわけ当地の駒形神奉斎氏族についても戦闘馬飼育のスペシャリストたる高句麗系の彼らであったものと考えております。

 なにしろ積石塚という意味では新羅より高句麗の埋葬習慣であった印象が強く、古代朝鮮半島で騎馬を戦闘に使っていたのも高句麗人のみであったらしきことを伝える『東夷伝』の記述―大和岩雄さん『日本古代試論(大和書房)』―は看過できません。扶余人などツングース系騎馬狩猟民族の習俗を包摂していたからなのでしょうが、高麗と書いてコマと訓むのも高句麗人に「駒(こま)」の代名詞的印象があったからこそでしょう。

 しいて司東さんの説に便乗させていただくならば、上毛野朝臣の陸奥経営に随伴した新羅系亡命軍が、吉弥候部族として賜姓叙位官職仕官を認められ、そのまま先住の高句麗系馬産族繁衍地の抑えとして配されたということなのかもしれません。吉弥候部族の名は神亀元(724)年から延暦十五(796)年までの間、すなわち坂上田村麻呂が胆沢に入る以前の宮城県と福島県のほとんどの郡に確認でき―『続日本紀』・『日本後記』―、その数実に32人にものぼることも司東さんによって指摘されているわけですが、それをことさらに否定する理由は今のところみあたりません。

 しかしながら、少なくとも吉彦秀武を輩出した吉彦家については新羅系ではなく、物部系ではなかったか、という試論―私論―を拙くも持ち合わせております。なにしろ吉弥候を称す俘囚数人の「物部斯波連」姓を賜った例が『続日本後紀』に確認できる―拙記事:物部氏と桃生(ものう)―宮城県石巻市― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―ことは重要です。通常なら吉弥候部族はすべからく主君毛野系の姓氏で賜姓されるはずだからです。

 「後三年合戦金沢資料館―秋田県横手市―」を訪れた際、学芸員の何気ない余談は私の拙ない試論を刺激しました。

 学芸員は、いずれも「山北(せんぼく)山本郡―秋田県大仙市周辺―」の有力豪族である「清原武貞―荒河太郎―」と「吉彦秀武―荒川太郎―」が同じ「アラカワ太郎」なる字名(あざな)で伝わる偶然?について語ってくれました。武貞は出羽山北三郡における最高権力者と言っても良い存在です。縁戚関係にあるとはいえ、清原家に比肩する大豪族吉彦家の当主が同じ時代の同じエリアでそれと同じ字名で称されていたことには違和感があります。もしかしたら武貞と秀武が混同されて伝わったのだろうか、とも想像したのですが、学芸員によれば、各々違うエリアのアラカワだったようです。秀武を輩出した吉彦氏の本拠たるアラカワは「協和地域―秋田県大仙市―」を流れる「荒川」に由来する「荒川―同市協和荒川―」であり、武貞の本拠たるアラカワは、居城「鎧ケ崎城―秋田県仙北郡美郷町―」の北側を流れる「丸子川」が「荒川」と呼ばれていたことに因んでいたようなのです。

 

 「丸子川」の名称も私論上気になりますが、それは置くとして、「協和」という地名が私の脳内書庫に眠っていた埃まみれの情報を刺激することになりました。

 何故なら、協和地域は秋田物部氏の祀る「唐松神社―同県大仙市協和境―」の鎮座地、すなわちニギハヤヒ鳥海山降臨伝説の震源地であるからです。

 

唐松神社 参道より低い下がり宮となっております。

 

唐松神社境内「天日宮」 出雲旧家の伝を標榜する大元出版系執筆陣によれば、ニギハヤヒには道教信仰があり、浮州を仙人の住む蓬莱島に見立て尊重する考えがあったということなので、この天日宮もその思想に基づくものなのでしょう。

 

 同社に代々伝わる「秋田物部家系図」には次のように書かれているようです。

 

―引用:進藤孝一さん著『秋田「物部文書」伝承(無明舎)』より―

 「用明天皇二年、厩戸皇子、蘇我馬子カ為ニ滅亡シ尾輿ノ臣、補鳥男速、守屋ノ一子那加世三歳ナルヲ懐ニシテ奥州ニ逃ケ下リ姓ヲ包ミ名ヲ改メ処々ニ隠シ住ス」

 蘇我氏との戦に敗れた物部氏の一族は全国各地に離散し山間へき地に隠れ住むことになるが、守屋の子である那加世は尾輿の家臣である捕鳥男速(とっとりのおはや)に匿われ奥州を点々として隠れ住んだという。

 

 「物部家に忠誠をつくす捕鳥家」という体の主従関係は『日本書紀』にもみられますが、捕鳥氏に匿われて奥州を点々と隠れ住んだというならば、岩手県の式内「止止井(ととい)神社」―奥州市胆沢区南都田―を奉斎した勢力も関係してくるのかもしれません――拙記事:日高見國と外物部(そともののべ)なる概念:前編 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)及び、都鳥(ととり)邑―岩手県奥州市胆沢区― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんは、止止井神社を奉斎していたであろうトトリ一族を物部氏に関連付けて論じておりました。私はアメノユカワタナとスクナヒコナの関係などを鑑みて捕鳥氏と陸奥安倍氏を同族とみているわけですが、谷川さんは物部氏と安倍氏をニギハヤヒとナガスネヒコ以来の不可分の関係性をもって論じておりました。

 しかし、唐松神社に伝わる伝承によれば、源頼義・義家父子が清原氏をはじめ出羽山北三郡の豪族らに陸奥安倍氏討伐への加勢を要請した際、ほとんどの豪族が安倍寄りであったにもかかわらず、唐松神社―秋田物部氏―はすんなり源氏側についたようです。

 このことについて、『秋田「物部文書」伝承(無明舎)』の進藤さんは、物部側に中央志向の強かった旨を指摘したうえで次のように論じております。

 

―引用―

~かつて神武天皇東征の昔、共に両者の祖先であった饒速日命と長髄彦が神武天皇への帰順をめぐって争ったことがあった。それがいまここで再び対決することになったことは、因縁深い出来事といわなければならない。これは神武東征の折、大和朝廷との権力闘争に敗れた安日彦、長髄彦は蝦夷地に脱れて原住民と同化して安倍氏を名乗った。一方の物部家の子孫は蘇我・物部の戦で敗れ、後蝦夷の住む東北に逃れたもののいつかは再起しようとする気持ちを持っていた。従って、同じ敗者であるものの両者が敵対しなければならない理由がここにあったのである。

 

 なにやら谷川さんとはまるで反対の解釈です。谷川さんは、物部・安倍の連携が神武東征時のニギハヤヒ・ナガスネヒコ以来維持されていたとみていて、私もそれに便乗していたわけですが、今現在ではむしろ進藤さんの説くところが妥当に思えております。同書における進藤さんの論は、昭和五十九(1984)年の初版ゆえか『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の引用も散見されるので注意を要しますが、ナガスネヒコがニギハヤヒないしウマシマヂ―ニギハヤヒの子で物部氏の祖―に裏切られたこと自体は『日本書紀』や『先代旧事本紀』に記されていることです。

 物部大連家は共に双璧を成していた大伴大連家の失脚以降、単独で人臣最高権力者であったわけですから、物部尾輿なり守屋と同時代の朝廷中枢で活躍していた政府高官であれば、崇仏派として台頭してきた蘇我氏の改革に与していない限りすべからく物部大連家にすり寄っておく必要のあったことは想像に難くなく、捕鳥家の忠誠が必ずしもニギハヤヒ・ナガスネヒコ以来継承されていたものとは限らないと思うのです。

 ともあれ、聖徳太子と蘇我馬子に当主を討たれ離散した守屋一族の中には、東国の雄「上毛野(かみつけの)氏」の子部―子分―、すなわち吉弥候部族として命脈を保った一派もいただろうことは想像に難くなく、秀武を輩出した吉彦氏もその流れだったのではないでしょうか。だとすれば彼らの内には本来の物部へ復姓を念願していた人たちもいたでしょうし、その実現した例が先に触れた「物部斯波連」の賜姓であった可能性は濃厚と思われます。

 進藤さんは、吉彦秀武が八幡太郎義家方に加担したことについて、次のように語っております。

 

―引用:前掲同書―

~吉彦秀武は、荒川太郎とも言い協和町荒川の附近に住んでいた豪族といわれている。この荒川というのは、唐松神社から東へ二キロ程離れた畠鉱山の入口にあたる要所で、地元民は今でもこの附近の地を「吉彦坂(きびこざか)」と呼んでいる。ところで共に義家の求めに応じた物部家と荒川太郎はどのような関係にあったのか、義家が出羽の豪族に応援を求めて回ったが、各豪族はこれを拒否した。その中にあって最後に荒川太郎は、清原武則と共に義家方に加担したのは、荒川太郎に対し、物部家の影響があったと考えたらどうであろうか。このことが後に義家が唐松神社を崇敬する要因になったのである。

 

 思うに、吉彦氏が秋田物部氏と同じ協和地域を本拠としていたのは、やはり彼らのその実が物部氏であったからではないのでしょうか。

 

※ 当初予定よりだいぶ字数が増えたので、後編を「吉弥候部氏考」と「清原氏考」に分けることにしました。