延喜式内陸奥國桃生(ものう)郡六座の一「日高見神社―石巻市桃生町太田―」は、「桃生(ものう)」のこの地に日高見國があったことを窺わせます。谷川健一さんの「日高見國=物部王国」説―『白鳥伝説(小学館)』―が妥当であれば、当地には物部氏の痕跡も濃厚であるはずです。

 その可能性について、つい最近までの私は以下の点をもって納得しておりました。

 

1、「日高見神社」の西北西2キロあまりのところに「白鳥神社―石巻市桃生町城内―」があること

 

2、「日高見神社」の南西6キロ足らずの「和渕(わぶち)神社―石巻市和渕字和渕―」が延喜式内陸奥國牡鹿(おしか)郡十座の一「香取伊豆御子神社」の論社に挙げられていること

 

3、『和名類聚抄』に「毛牟乃不(もむのふ)」と記されているところの「桃生(ものう)」の地名を「物部(もののふ)」に因んだものとみる日本地名研究所鈴木市郎さんの仮説―『ちめい3(宮城県北部地名研究会)』―があること

 

白鳥神社

 

 

 

 今あらためて顧みるに、1の白鳥神社を物部氏に由来するとみるのは、そもそも谷川さんの『白鳥伝説』を前提にしなければ成り立たず、3の鈴木さんの仮説も同様で、日高見國は物部王国なのだからその鎮守であろう日高見神社の鎮座する桃生郡には当然物部氏が土着していたはず、という前提の上に立ってこそ成り立つものです。鈴木さんは谷川さんの主宰する日本地名研究所の要職に就いていた人で、『白鳥伝説』などの谷川説をベースに考察を重ねているので、物部氏の土着を裏付ける客観的な根拠には出来ません。

 そうなると、少なくとも前述のうちで当地への物部氏の土着を傍証し得る直接的な情報は、2の「香取伊豆御子神社」の存在のみということになります。

 しかし、同社は『延喜式』「神名帳」において、あくまで「牡鹿郡」の社であるわけなので、「桃生郡」の先住領主を窺う痕跡としてはやや間接的です。

 

白鳥神社鳥居前から和渕山―香取伊豆御子神社論社鎮座地―を望む

 

 「桃生郡」の式内社をあらためて確認しておくと、「日高見神社」の他に「飯野山神社」、「二俣神社」、「石神社」、名神大の「計仙麻大嶋神社」、「小鋭神社」の五座、計六座が挙がります。香取系の社はみえませんが、社名だけの類推なら「石神社」は「石上神社」を彷彿させますし、「小鋭神社」は剣神「フツノミタマ」を思わせ、物部氏の気配も勘繰れそうです。ただ、それらは同時に諏訪のミシャグチ祭祀やアイヌ系祭祀などの可能性もよぎるので、また別の機会にあらためて考えてみたいと思います。

 いずれ、日高見國の王家か否かは別として、例えば出羽にあっては、ニギハヤヒ鳥海山降臨伝説の震源である秋田物部氏が、今なお「唐松神社―秋田県大仙市協和―」の宮司家として継承されております。

 また、『続日本後紀』や『日本三大実録』における正史上の陸奥・出羽関連記事でも物部を名乗る人物は散見し、遅くとも九世紀以前には既に土着していたものと思われます。 

 『続日本後紀』の承和七(840)年条に、宮城郡の権大領「物部己波美(もののべのいわみ)」が私池を築き公田を灌漑し、私稲一万束を提供し、民に恵みを与えた旨の記述があります。領民ファーストの領主であったようです。

 『日本三大実録』元慶五(881)年条には、陸奥國蝦夷の譯語(おさ) ―通訳―「物部斯波連永野」が外従八位下から外従五位下まで一気に昇進した記事もあり、物部氏が蝦夷の諸事情に通じていたことを窺わせます。

 ただ、この「物部斯波連」については、『続日本後紀』承和二年(835)条に俘囚勳五等の「吉弥候宇加奴(きみこのうかめ)」・「吉弥候志波宇志(きみこのしわうし)」・「吉弥候億可太(きみこのおくかた)」らが「物部斯波連(しはのむらじ)」の姓を賜わったことが記されているので、物部を名乗りつつも実際は「吉弥候部(きみこべ)」氏であったことが推察されます。

 その点について『白鳥伝説』の谷川さんは、「ふつう吉弥候部は上毛野公(朝臣)または下毛野公(朝臣)と賜姓されるのに、ここに物部姓を賜ったことは物部氏の勢力が胆沢城の北に及んでいたことを物語る」としておりましたが、もしかしたら「吉弥候部(きみこべ)」氏自体が零落した物部氏なのだろうか、という想像も頭をよぎります。

 謎めく吉弥候部氏については、いずれあらためて考えてみるつもりですが、もしかしたら蘇我氏に敗北した物部氏が毛野一族の預かるところとなり、蝦夷討伐の前衛部隊として派遣された可能性があるようにも思うのです。

 そもそも「物部」の言霊自体が氏族名であること以前に、古来「強者(つわもの)」を称賛する「武士(もののふ)」の意味で認識されていたフシもあります。

 例えば『日本書紀』の垂仁天皇三十九年条には、「一云」として、「石上神宮」の神宝(一千口の太刀)を治めることとなった「物部首(おびと)」の祖が「春日臣の市河」なる人物、「春日臣」すなわち「和邇(わに)氏」の系統であることが語られており、同皇極天皇二年条には、「蘇我大臣蝦夷」が子の「入鹿」に紫冠を授けて「物部大臣」と呼んだ旨が記されております。対立して滅ぼした側の蘇我氏までが「物部」を名乗っていたことは留意しておくべきでしょう。

 ちなみに先の唐松神社宮司家たる秋田物部家は、ニギハヤヒ八世孫の「膽咋(いくい)連」なる神功皇后の重臣を祖としながらも、実際に自家の代数を数えるときには守屋大連の子らしき「那加世(なかよ)」なる人物を初代としているようです―進藤孝一さん著『秋田「物部文書」伝承(無明舎出版)』―。

 また、猪苗代湖西畔「経沢(へざわ)―福島県会津若松市経沢―」には守屋大連の娘とその臣下が落ち延びてきたという伝説もありました。

 思うに、物部氏が奥羽に土着し始めたのは遡ってもその頃―七世紀前半―なのではないでしょうか。