前回のつづきである。
大伴氏とは、一体何者か?
私は、金村以後の大伴氏は「百済もしくは新羅の王室に近い血統を持つものである。」と思うのである。
更に、大伴磐は「筑紫の君・磐井」であり、大伴咋子は「葛子」であると考えてみたらどうだろう。
これが正しければ、大伴金村親子が磐井の乱前後に、九州を拠点としていることに説得力が増す。
任那4郡の割譲も、それだけの権限がなければ実行できなかった。
また、内乱で負けたのであれば、その後の大伴氏が金村のように権勢を振るうことが出来なかった訳も良く分かる。
一方、彼らが活躍した時代は紀元後500年~600年であるため、日本書紀でいくら歴史を改ざんしても、藤原不比等が生きた時代では、大伴氏が高貴な一族であることは周知の事実であったのではなかろうか。
だから不比等は、大伴氏を皇統と交わらせず、純血を保たせた上で、藤原氏の中にその血を取り込もうと画策した。。。
+ + + +
藤原不比等による大伴氏の歴史への改ざんは、この基本ストーリーを抑えておくと、パズルのピースが見つけやすくなる。
・武烈大王に仕えた「大伴金村A」は、武烈大王とともに継体大王に滅ぼされたことだろう。
・継体大王に仕えた「大伴金村B」は、最初は協力的であった筑紫の君・磐井を投影している。
・任那4郡割譲も筑紫の君・磐井が行った?
・「大伴磐」は、反乱後の磐井である。
・葛子は、「庶子」であったため、磐井には正統な後継者がいたはずだ。それが大伴狭手彦なのかもしれない。
・葛子は、そこそこ長生しているようだ。大伴咋子が九州を拠点に大和のために働く様は、乱後の葛子の姿?
謎はつきないが、これ以上の詮索をしても何が正しいのかは闇の中である。
考えるのはここまでにして、とりあえず筆を置こう。
(完)