前回のつづきである。
ここで少し、大伴金村とその息子達が活躍した時代の年表を整理してみよう。
498年 仁賢大王の後、武烈大王が即位し、大伴金村が大連(おおむらじ)に就任。
506年 武烈大王の後、継体大王が即位。大伴金村が支持し引き続き大連を継続。
512年 大伴金村が任那4郡を百済に割譲。
527年 筑紫の君・磐井の乱が勃発。
528年 磐井の庶子である葛子が糟谷屯倉(福岡市糟谷)を継体大王に献上。
537年 大伴金村の長男である大伴磐が那津宮家(大宰府の起源?)の長官に。
537年 大伴金村の三男である大伴狭手彦が任那に派遣される。
この際、唐津豪族の娘の佐用姫との別れが、日本三大悲恋の一つとなる。
540年 欽明大王が即位。新羅が任那を侵食
大伴金村が物部尾興らに任那4郡割譲の責任を問われ、大連を辞任。
562年 大伴狭手彦が大将軍に抜擢され百済救援のため渡海。
587年 蘇我馬子の物部守屋討伐軍に大伴咋子が従軍。
591年 大伴咋子が大将軍として4年筑紫に駐在。
601年 大伴咋子が任那救援のため高句麗へ。
608年 隋の大使・裴世清を大伴咋子が出迎え。
610年 新羅使を大伴咋子が出迎え。
以上だが、これを見て何か感じられないだろうか?
まず、親子二代の出来事が、100年以上の年表になるのだ。違和感を覚えずにはいられない。
次に、大伴親子は、九州を拠点としており、任那・百済に影響力を持っていることが分る。
実際、金村神社は九州にあり、狭手彦が建立したという神社も九州にある。
更に、筑紫の君・磐井と大伴磐、反乱から10年も経っていないのに、同じような名前のリーダーが九州のトップとなったのは、単なる偶然だろうか?
また、咋子と葛子も大変似ている。偶然にしては出来すぎているように思えないだろうか?
(つづく)