前回の続きである。
前回、神功皇后と「多羅国」との関係が深いことを述べた。
実は、「多羅国」との関係が疑われる古代の天皇は意外と多い。
6代 :考安天皇(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト)
12代:景行天皇(オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト)
13代:成務天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)
14代:仲哀天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)
34代:舒明天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト)
35・37代:皇極・斉明天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト)
古代の朝鮮半島では、檐魯(たむろ)制という、いわば徳川時代の御三家のような制度があった。
百済や新羅の王家とも血脈上の交流があった。
当然任那の都市国家とも交流のあった、古代大和朝廷の大王もその一員だった。
ここに挙げた、大王はその名前から「多羅国」とのつながりが見え隠れする。
これは想像にすぎないが、
ひょっとすると、これらの大王は、「多羅国」から派遣されてきたのではないだろうか?
すごく、飛躍した話のように思うが、幕末末期の徳川家を重ね合わせると、あながち有り得ない話ではなさそうだ。
(つづく)