前回のつづきである。
古代の大和朝廷の大王が、朝鮮半島から派遣されてきたという仮説をもう少し掘り下げてみよう。
具体的には、任那の「多羅国」や場合によっては「百済」の王家から日本の大王として派遣されてきたという説を考えてみよう。
このケースでは、徳川家の家系考えてみるとわかりやすい。
徳川家の最後の将軍は、徳川慶喜である。
かれは、御三卿(一橋・清水・田安)の一つである一橋家出身であるが、もともとは水戸家から一橋家に養子に出ている。
また、8代将軍の徳川吉宗が御三家の一つである紀伊藩から出ていることは有名である。
彼が将軍になったということは、徳川本家の血脈が途絶えたということである。
それ以降は、御三家や御三卿に将軍職位の継承権が与えられることになった。
さらに、これは徳川将軍家だけの問題ではなく、御三家や御三卿をはじめとする徳川家すべてにあてはまるようになった。
たとえば、尾張家も最終的には水戸家の血が入り、水戸家と同体になってしまう。
全国の松平家も、血のクロスオーバーが活発だった。
それどころか、池田家や蜂須賀家などの外様大名まで徳川家の養子が入るようになる。
大名の多くが徳川家になる勢いだったのだ。
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話を古代に戻そう。
古代の百済王家、任那諸国王家、大和朝廷の間で、徳川家のような血のクロスオーバーがあったとしたらどうだろう。
その前提に立てば、たとえば、大和朝廷の11代:垂仁天皇に子が無かったとしたら、任那や百済の王家から養子を派遣されてくるというのは容易に想像されるだろう。
そしてそれが、多羅国から派遣されてきた養子であれば、12代:景行天皇の諡号のように、「オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト」という「タラ」が名前の中に入るようになるのだろう。
これは、徳川慶喜が別名の「一橋慶喜」とよく呼ばれることと同じではないだろうか。
歴史は繰り返されると言われる。
古代の話であっても、人がすることである。
徳川将軍家がやったようなことを、古代の百済王家や任那諸国王家、大和朝廷がしなかったと言い切ることができるであろうか?
(完)