最近、戸〇ヨットスクールの校長がテレビでコメントしている動画を
よくネットで見かけます。
体罰指導で問題になった人ですよね。亡くなった方もいました。
長い時を経て、今なぜか校長の教育方針が支持されている
コメントを見かけます。
「体罰は必要」という考えです。
そうなんでしょうか?
ヨットスクールの件は、亡くなった方がいる時点で
支持の余地はないのですが、そもそも「体罰は必要か?」という点。
私は、必要ない・・・
というか必要ないようにしていかなければならない、と思っています。
この手の話を支持する人の根拠ってたいてい
「昔はみんなそうだった」⇒「それがあって今の自分がある」
「今はそうではない」⇒「結果引きこもりや犯罪者が増えた」
という飛躍した論理で成り立っています。
まず、「昔はみんなそうだった」という論拠。
これは間違い、と言い切ることは難しいですが、
ぜひ「本当にそうだろうか?」という疑問を持つべきです。
時代は変わっているんです。
環境も変われば、文化も社会の成り立ちも、テクノロジーも
変わります。
常に変化していく世の中で、数十年前のやり方をそのまま
右倣えすることが、文明社会として正しいのか?と。
教育の考え方も変わっています。
これは子育てしていても実感します。
自分が子供だった時の親の教育スタイルと、
今自分が親になった時の教育スタイルは全く違います。
次に「体罰をなくした結果今は・・・」という論拠。
これも一緒です。体罰以前に、やはり子供を取り巻く環境は
大きく変わっています。
ので、体罰の有無だけが結果につながっていることはなく、
逆説的に体罰の是非を判断することなどできないのです。
よって、私自身は「体罰が必要」だとは全く思いません。
ある程度の叱責は必要です。が、それだけで十分です。
家畜じゃないので、物理的な接触はなくとも、相手にしっかり
伝える術はいくらでもあります。
では、「何が必要か?」ということ。
ここが一番大事なのですが、
とにかく「コミュニケーション」これに尽きます。
親と子、先生と生徒、上司と部下。異なるレイヤーの人間同士が
どれだけコミュニケーションできているか。
コミュニケーションの形は問いません。今はオンラインも多いです。
「対面じゃないと意味ない」という説は支持しません。
相手に投げかけた言葉の数、そして受け取る言葉の数
どれだけ相手のこと考えるか、また考えてもらえるか
その積み重ねで人間関係は構築されます。
親身になってくれた先生のことは今でもよく覚えてますし
衝突もしたけどたくさん接した上司との関係は長続きします。
子育てもそうです。
どれだけ子供が小さいうちに、親が長い時間を過ごしたか。
語りかけたか。
一緒にいろんなものをみて、経験したか。
思い出を作っているか。
ヨットスクールの校長は
「体罰がなくなったことで80-50問題を生み出した」
と熱弁していましたが、違います。
人は弱いものです。
心を閉ざしてひきこもることに、体罰は関係ありません。
社会的責任・自覚がない、とかそういう次元の話ではないのです。
問題は、そうなったときに誰も救いの手を差し伸べられないこと。
親が子供と膝を突き合わせて向き合えないこと、だと。
なぜ向き合えないのか。
親が、子供とのコミュニケーションの仕方がわからないからです。
道を踏み外した子供に、かけてあげる言葉がわらかないのです。
だから、大事なんです。
子供のうちからのコミュニケーションが。
私は、そう思って息子と接してきました。
二人だけでいろんなところに出かけ、同じものを見て、
経験して、たくさん語り合ってきました。
たぶん、私が親父と生涯でしてきたコミュニケーションの
倍以上、既にいっているかと思いますw
おかげで生意気な息子になりました。
親父に何でも言ってくる、ナメたガキになりましたw
でも、それが大事なんだと思って、
グッと耐えてます(ほとんど耐えられていない)
将来、何か困った時があったときにも、同じように言い合える、
そんな関係を目指して。
bye