反乱したプリゴジンの命運は?・・・プーチンによる粛清の手法 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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  ロシアの民間軍事会社ワグネルの「反乱」は、わずか1日で終わったが、その後、指導者プリゴジンはどうなっているのか。

結論から言えば、もう御用済みで、いつ殺害されても不思議ではない。プーチンに刃向かえばそうなる。

 

 プーチンは、統治の手法の多くをスターリンに学んだ。政敵の粛清についてもそうである。KGB出身者らしく、秘密警察、スパイ、密告、偽情報などあらゆる手段を駆使して、政敵の息の根を止める。

 今回のプリゴジンの乱は、国家反逆罪に相当する。プリゴジンは、SNSで「政権を打倒するつもりではなかった」と発信したが、そんな言い訳は通用しない。

 ワグネルがウクライナでロシアのために戦ってきたことを考慮しても、自分のリーダーシップに反旗を翻したことは許されることではないのである。プリゴジンの命が断たれるのは時間の問題ではないか。

   1999年8月、プーチンが首相に就任して最初に手がけたのはチェチェン紛争の収束であった。

   チェチェン独立派の活動激化に対して、首相のプーチンは、これをテロとして弾圧することを決め、99年9月23日にはロシア軍が空爆を開始した。こうして、2000年2月にグロズヌイが陥落し、武装派勢力のチェチェン・イチケリア共和国は瓦解し、2000年6月には親露派勢力によって暫定政府が設置され、その行政府長官に親露派のアフマト・カディロフが就いたのである。

 その強権的手法が、国民の支持を得ることになり、2000年3月の大統領選挙で勝利し、5月に大統領に就任した。そして、その強硬姿勢は権力基盤を固めるのに役立った。

 しかし、その成功の裏には、弾圧があった。チェチェンの人権抑圧を批判する報道をした『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙のアンナ・ポリトコフスカヤ記者が、2006年10月に自宅アパートのエレベータ内で射殺された。

 翌月には元KGB・FSB職員のアレクサンドル・リトビネンコが亡命先のイギリスで死亡している。放射性物質ポロニウム210による殺害である。

 この二名の死亡事件はFSBによる暗殺だと考えられている。

 

 プーチンはまた、財務調査、脱税調査を行って政敵を追い詰めていく。

 プーチンは、大統領選で自分を支援したボリス・ベレゾフスキーがキングメーカー気取りの振る舞いをしたため、検察に不正を追及させた。そのためベレゾフスキーは2000年にイギリスに亡命するが、2013年に3月25日、ロンドンの自宅で「自殺」している。

 さらに、プーチンは、石油会社「ユーコス」社に狙いを定めて、CEOを務めるミハイル・ホドルコフスキーを脱税などの容疑で2003年10月25日に逮捕し、シベリアの刑務所に収監した。その結果、ユーコスは破産し、国営石油会社「ロスネフチ」の手に渡った。ホドルコフスキーは、2013年に恩赦で釈放され、イギリスに亡命した。

 プーチンは、プリゴジンが経営する食品企業「コンコルド」に対して税務調査を開始するとした。調査すれば不正が見つかるのは必定である。帰国すれば、脱税などの容疑で逮捕されることは確実であり、海外にいてもロシア法からは犯罪者である。命の保証はない。