統一教会の改憲案と自民党の改憲案(第2次)が酷似 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 統一教会系の勝共連合の改憲案と自民党第2次改憲案(2012年4月)と酷似している。

 たとえば、①緊急事態条項の新設、②家族保護の文言追加、③国防軍の明記などが同じである。

 私は自民党の第一次改憲案(2005年10月)をとりまとめたが、第2次案は憲法学の基礎も、立憲主義も理解していない極右の酷い案である。個人と人の区別もない。自民党の劣化である。

 自民党は、2012年4月27日に「日本国憲法改正草案」(第二次案)を決定した。実は、それより7年前の2005年10月28日に、自民党は「新憲法草案」(第1次案)を発表している。私は、第一次草案の取り纏めの責任者であり、全力をあげて改正案を書き上げたことを記憶している。

 私は、2010年には自民党を離党しているので、第二次草案の作成には係わっていないが、一読して驚いてしまった。右か左かというイデオロギーの問題以前に、憲法というものについて基本的なことを理解していない人々が書いたとしか思えなかったからである。しかも、先輩達が営々として築いてきた過去における自民党内での憲法論議の積み重ねが、全く活かされていない。

 憲法とは、国家権力から個人の基本的人権を守るために、主権者である国民が制定するものである。近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とする。「人の支配」(国家権力の支配)ではなく、「法の支配」である。つまり、法によって権力を拘束するのである。

 したがって、「国家」の対極にあるのが「個人」である。そこで、現行日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」と規定してある。第一次草案では、この文言には指一つ触れなかった。ところが、第二次草案は、「全て国民は、人として尊重される」と変えてしまっている。「人」の対極は犬や猫といった動物であり、「個人」のような「国家権力」との緊張感はない。この文言の修正を見ると、第二次草案は立憲主義憲法なのかと疑問を呈さざるをえない。

 おそらく、今の自民党は「戦後の日本で連帯感がなくなったのは、個人主義の蔓延のせいだ」と結論づけ、その元凶として、現行憲法の中にある「個人」という言葉を削除しようとしたのではないか。しかも、「日本国憲法改正草案Q&A」は、「西欧の天賦人権説」を否定しているのである。

 さらに、現行憲法24条は、家族に関することは、「個人の尊厳と両性の平等に立脚して」規定するとしている。第二次草案は、「家族は、互いに助け合わなければならない」と付け加えている。立憲主義の立場からは、「家族は国の保護を受ける」とすべきであって、家族構成員間の相互扶助などは憲法に書くべきではない。それは、道徳の問題である。この点でも、立憲主義が理解されていない。もちろん、第一次草案では、24条は現行のままである。

 現行憲法36条は、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定している。ところが、第二次草案では、「絶対に」が削除されている。なぜ、「絶対に」を削除したのか、全く理解できない。これも「西欧の天賦人権説に基づいて規定されている」からなのか。もちろん、第一次草案は、現行規定を踏襲している。