日本学術会議が引き次ぐ戦後の進歩的文化人気質 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 日本学術会議は、政府の管轄下で存在する今のような形式は廃止すべきだというのが私の主張である。それは、私が東大に入学し、学者・研究者への道を歩み始めたときの苦い経験があるからだ。

 たとえば、文化大革命(文革)に対する学者たちの反応だ。文革は、1966年5月に毛沢東の指示によって始まったが、10年間続いたこの文革は中国を大混乱に陥れ、政治的亀裂を生み、経済の大きな停滞をもたらした。

 紅衛兵としてかり出され、また農村や山村に「下放」されて厳しい労働に従事させられた若者は、勉学の機会を奪われてしまった。

 中国は、1976年に四人組を打倒し、文革を終了させてから、鄧小平による「改革開放」路線によって、今日の繁栄をもたらし、今やGNPでは日本を抜いて、世界第二位である。あの失われた10年がなければ、中国の歩んだ道は大きく異なっていたであろう。

 私は1948年の生まれであるから、お隣の中国で文革が始まった1966年には高校三年生である。翌1967年東大に入学し、政治学を学ぶべく猛勉強を始めた。当然のことながら文革の動向には興味があったが、当時のマスコミや知識人の意見は文革を礼賛する論調が支配的であった。紅衛兵たちが叫んだ「造反有理」という言葉が「輸入」され、大学のキャンパスでも繰り返し使われた。そして、翌年の1968年には大学紛争が勃発する。

 紛争中、中国の文革の影響か、「造反教官」が出現したり、「造反有理」と学生を煽動したり、大学教授含めて多くの知識人は、「文革万歳!」を唱和した。私は学生時代にマックス・ヴェーバーの著作を読みふけっていたが、ヴェーバー研究者の高名な教授が、新聞に毛沢東礼賛論を書いたのには流石に腰を抜かしてしまった。

 その後、私はヨーロッパに留学し、帰国後、1979年、30歳で母校の東大で助教授になり、政治学を講じることになった。フランス、スイス、ドイツなどで行った安全保障の研究を基に、最新の学問を学生諸君に披露しようとしたのであるが、思わぬ障害にぶち当たった。

 当時は、進歩的文化人がキャンパスや論壇を支配しており、第一次、第二次世界大戦の研究をしている私などは、極端なケースだと左翼教授からは「戦争の研究をするとは何事だ」と叱られるような状態であった。ヨーロッパは、二次にわたる世界戦争の震源地となった反省から、しっかりと戦争の研究を行っており、「戦争学」という学問もある。

 私は、東大で戦争学の研究教育を行おうとしたが、認められなかった。「平和研究」という題目なら許すと言われたときには、開いた口がふさがらなかった。

 それが40年前の日本であるが、日本学術会議は、そのときと同じ感じである。たとえば、1954年には核兵器研究拒否の声明を出しているし、最近では2017年には軍事研究に関する政府の助成制度を「問題が多い」と批判している。この姿勢は、40年前に私の「戦争学」の研究を拒否したのと同じである。

 だから、私はこの組織の廃止を主張しているのである。