戦前日本:選挙権・被選挙権もあった内地居住の朝鮮人(10) | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 戦前日本の朝鮮人が支持した政党は、その置かれた状況から、無産政党が多かった。

 たとえば、1927年9月の大阪府会議員選挙における朝鮮人の支持政党は、無産政党が91.8%で、具体的には、労働農民党が67.1%、社会民衆党が15.6%、日本労農党が8.5%、関西民衆党が0.6%である。既成政党に対する支持は低く、政友会が5.2%、民政党が1.5%、実業同志会が1.5%で、三党合わせても8.2%にしかならない。

 在日2世である河明生さんは、大阪市に焦点を当てて、強制的移民(朝鮮人強制連行)ではなく、「自由意志に基づく移民」、つまり出稼ぎを目的とした労働移民について画期的な研究を公刊している。

 それが、『韓人日本移民社会経史―戦前篇』(明石書店、1997年)である。この本には、関西地方における、朝鮮人移民の実態が詳しく記されているが、貧しく、劣悪な環境に置かれていたことがよく分かる。

 これに対して、北九州は筑豊炭田や八幡製鉄所で栄えた新興工業地帯であり、仕事も沢山あり、古老に聞くと、戦前は八幡製鉄所の職工さんは、日本人も朝鮮人も同じ給料で、仲良く一緒に昼ご飯を食べていたという。半島から出稼ぎのため移民して来ても、行く先が北九州か関西かで、天国と地獄くらいの差があったようだ。

 北九州では、朝鮮人が地域に統合される度合いが強く、支持政党は無産政党にかぎらず、政友会や民政党も含まれていた。政友会が地元の伝統的保守層を代表していたのに対して、父の属した民政党は新興の都市勢力を背景としていた。 

 その都市勢力は、全国から北九州工業地帯の富みに引き寄せられて集まってきた、いわば「よそ者」の集まりであった。もちろん朝鮮人もその一部であり、新参者への差別のあまり無い風土であった。

 高野貞三は、「民政党が積極進取の精神に富み、奔放、闊達なる翼の羽搏きをみせ得たのも、かれ等の多くが外来の勢力であり、地力にのみ根ざした政友会の単一性に対する、職業上の無碍なる広範性に恵まれてゐた事実も、ここに見逃す訳にはゆかない」(『若松政界太平記』)」と述べている。

 戦後も、私が幼少の頃は、町内の10軒のうち1軒は朝鮮人の家族であり、朝鮮語が飛び交っていたのを記憶している。

    <大正初期の八幡製鉄所>