戦前日本:選挙権・被選挙権もあった内地居住の朝鮮人(2) | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 父が生きたのは、まさに火野葦平が『花と龍』で活写した若松の町であった。この小説のモデル、葦平の父、玉井金五郎が対抗したのが、当時の若松を支配した日本一の大侠客、吉田磯吉である。吉田は政界にも進出して民政党の代議士となるが、私の父は、その吉田陣営に属して市会議員選挙に立候補したのである。

 葦平は、『花と龍』の中で、この昭和5年の選挙についても、詳しく書いているが、吉田に敵意を持つ玉井一派に「民政党に非ずんば、人に非ず。・・・なんて、滅茶な話さ。人に非ずかなんか知らんけど、若松じゃあ、民政党に入らんことには、商売ひとつ、満足に出来やせん。料理屋組合でも、みんな民政党。うちのお父さんも、民政党、吉田親分さんの鼻息ばっかり、うかごうとる、阿保らしい。」と吉田民政党の若松支配を批判させている。

 ところでハングルのルビの謎について、様々な資料に当たって研究した結果分かったことは、戦前の在日朝鮮人には選挙権も被選挙権もあったということである。

 若松市議会選挙に立候補した父がハングルの選挙ビラを準備したのは、支持者である朝鮮人有権者の便宜を考えてのことであった。実は、彼らは日本語のみならず、朝鮮語でも投票することができたのである。

 戦後は、日本軍国主義に対する反省のあまり、強制的移民(朝鮮人強制連行)のみに焦点が当たって、「自由意志に基づく移民(出稼ぎを目的とした労働移民)」については存在しなかったように扱われているし、在日朝鮮人には選挙権や被選挙権があったことは、あまり知られていない。

 しかし、選挙権・被選挙権があっても、日本語を書けない朝鮮人が多く、そのため実際には参政権を行使できなかった。そこで、内務省は1930年1月に、「ローマ字と同じく朝鮮文字の投票を有効とする事に省議決定」したのである(『福岡日日新聞』、1930年2月1日付け)。

 私の父の住んでいた若松市の藤ノ木地区には強力な朝鮮人親睦会があった。因みに、その代表の辛漢江は、1938年の若松市会議員選挙に立候補している。

 わが家の2階が洞岡労働会館となっていて、そこには絶えず朝鮮人が出入りし、寝泊まりしていた。父が知り合いの朝鮮人有権者の票に期待し、投票日の4ヶ月前に出された「朝鮮文字による投票有効」の内務省決定に力を得て、ハングルのルビを使ったことは間違いない。{父とわが家(写真上)、1932年}