舛添要一のヒトラー入門(6):§1.ヒトラーとの出会い②海外留学へ・・❶ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

 

 駒場時代には、東大紛争で1年間も授業がなく、読書三昧の日々を送った。そして、紛争が終結した後、無事に本郷キャンパスにある法学部に進学した。法学部には、私法、公法、政治学の三分野があったが、私は政治学コースを選らんだ。

 それは、政治について興味があり、六法全書と格闘して法律学に取り組むよりこ面白いと思ったのである。それに、やはりヒトラーについての研究を続けたかったのだと思う。

ゼミは、岡義達先生の政治学と篠原一先生のヨーロッパ政治史に参加した。岡先生には政治理論で鍛えられたが、先生が題材として取り上げたのは日本の政治であった。私が、東大法学部助手ポストへの就職用に書いたのは、『吉田茂の政治指導』という論文であった。

 篠原先生のゼミでは、ワイマール共和国、そしてヒトラー研究について数多くの論文を読んだ。日本語のみならず、英語もドイツ語も含まれており、先生の指導で世界的水準の研究に触れることができた。

   私は、大学卒業後も研究者としての道を続けたいと思った。それを実現させるには、二つの方法が東大法学にはあった。一つは大学院に進学することであり、修士、博士課程と進む。その後、助手になり、助教授、教授と出世の階段を上っていく。

 もう一つは、学部卒業後、直ちに助手に採用される道である。ただ、これは条件が厳しく、成績が抜群に優秀でなければならなかった。私と一緒に採用された民法の助手は全優だった。私はさほど成績は良くなかったが、政治学の場合、論文を提出するという条件もあった。

 そのときに書いたのが、先述した吉田茂論である。多少成績が悪くても、優秀な論文を出せば、それが成績を補ってくれるので、この論文のおかげで私は助手になれたのである。

 しかし、当時の東大法学部は講座制なので、各講座に空きポストがないと就職できない。私の場合、就職論文のテーマに関わる「日本の政治」講座にはポストがなく、「ヨーロッパの政治」を選択することになった。

 こうして、篠原先生に引き続き指導を受けることになり、ヒトラーとの縁が続いていくことになった。ただ、助教授就職のために書く論文は、先生と同じドイツではなく、お隣のフランスかソ連圏に関わるテーマにしたいと考えたのである。

 具体的には、ワイマール共和国時代のフランス第三共和政をテーマに研究を開始することにした。ドイツのシュトレーゼマンとともに相対的安定期を演出したフランスのブリアン外交をテーマにしたのである。