20世紀文明論(23):生活革命③少子化・・・⑪ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 江戸の寺子屋が、日本人の教育水準を引き上げ、世界一の識字率をもたらしたのである。実は、このことが幕末の危機を乗り切り、欧米の植民地となることなく独立を保つのに大いに役立った。

 ラジオもテレビも電話もなかった時代に、庶民が字を読めるということは、行政の効率を飛躍的に向上させる。具体的には、「お触れ」を記した立て札を町中に立てれば、皆それを読んで、行政の指示が徹底する。

 ペリーに率いられる黒船到来のような危機に対して、国民に状況の説明をし、対処法を迅速に指示できる。もし、町内に1人しか字の読める者がいなければ、口伝てになるので、情報の正確さも伝達スピードも劣ってしまう。それでは、欧米の植民地になってしまう。

  寺子屋の上のレベルの学校は、どうだったのであろうか。

 江戸時代に町人文化が栄えた大阪でも、自由で実学的な学問が花開いた。大阪と言えば、緒方洪庵の適塾が有名であるが、その他にも町人の作った学校として、懐徳堂や平野の含翠堂がある。

 これらの塾では貴賤を問わず、また書物の持ち合わせがなくても講義を聴くことができ、やむを得ない事情があるときは途中退席してもよく、まさに自由大学といった雰囲気であった。

 このような自由な空気の中から、『夢の代』を著して唯物論を唱えた山片蟠桃のような学者が生まれたり、博学多芸の百科全書派、木村蒹葭堂のような文化人が生まれたりしている。

 このように、江戸時代には、学歴社会、偏差値社会とは無縁の世界が存在していたのである。

 明治になって義務教育が行われるようになってからも、学歴とは無縁な才能によって、京都で近代日本の理化学の花が開いている。1857(明治8)年、高瀬川北端の木屋町二条に創業した島津製作所の2代目、島津源蔵は、小学1年のみの学歴であった。

 しかし、日本で初のウィムシャースト感応起電機や医療用X線装置などを製造し、1930(昭和5)年には日本の十代発明家の1人に選ばれている。

 京都の島津製作所創業記念館を訪ねれば、その精力的な活動を振り返ることができる。

因みに、島津製作所のライフサイエンス研究所主任の田中耕一氏が2002年にノーベル化学賞を受賞したことは広く知られている。